一期一会  未(ひつじ)九の日

今日から、一休さんの道歌を紹介して行きたいと思います。

三とせまで つくりしつみも もろともに
つひにはわれも きえてはてにけり

三とせとは、過去、現在、未来の世界、即ち時間の世界のことであります。
仏教には−お釈迦さんとは関係ない仏教という宗教の世界のことを言っています−輪廻転生という概念があります。
この概念は、一神教であるキリスト教やイスラム教の世界ではありません。
特にインドという処で誕生した仏教は、インドの伝統的階級制度であるカーストによって、みんな自縄自縛に陥っており、一度生まれたこの世では、いくら努力しても定められた自己の階級から抜け出ることは出来ない社会でありました。
そんな社会では、生まれ変わる概念が必然的に誕生するのです。
それでないと、それこそ、"やってられない!"わけです。
しかし、仏教の道を歩んで来た坊さんでも、一休さんや白隠さんのように固定観念を一切排除する生き方をしてきた方には、輪廻転生などあるはずがないことを看破しておられたのでしょう。
輪廻転生の概念が、自分の精神に宿りますと、必然的に、因果応報、業(カルマ)の考えが同時に自己に根づいてしまいます。
過去に何かうしろめたいことをやったら、必ず自分で刈り取らなければならないことになると思うのです。
しかし、一休さんは言います。
過去にいろいろつくって来た罪も、死んだら消えて行く我が身なら、そんなものもみんな消えていってしまう。
そして死んだら消えて行く我が身は、実は現在ここにも、また未来あっちにも、どこにも存在しないのだと言っておられるのです。
本来、自分などと言うもの自体が存在しないものだと言っておられるのです。
考えてみれば当然のことでありまして、太陽が一時間でも消滅したら地球という太陽の惑星は存在できないのであります。
地球上に存在するすべての物も、地球が消えたら、同時に消えてしまうのです。
自分も、そのうちの一部分であるのですから、当然であります。
ところが、人間が言うところの業というのは、人間が勝手に決めた罪の概念、善悪の概念であります。
嘘をついたから、その業が自分の生の中に宿っていると思う。
法律を破ったことをしたから、これも因果応報で必ず罪の償いをさせられると思う。
しかし、そんな善悪の概念など、地球や太陽にとっては知ったことではないのです。
もっと厳密に言えば、そんな罪の概念など、誰か狡猾な人間が自分たちの都合の為に、つくったそれこそ幻想であるのです。
そんな幻想は、宇宙を貫く法則とは全く関係ないのです。
生き物は、平気で他の生き物を殺します。
あなたの家で飼っている犬や猫たちも平気で生き物を殺しますが、罪の意識など毛頭ありません。
考えてみれば、夏に自分のまわりをうるさく飛びまわる蚊を、あなたも平気で殺していますが、罪の意識などあろう筈がありません。
それなのに、同じ人間を殺したら罪の意識が生まれる。
しかし、戦争で同じ人間を殺しても、その時は罪の意識はない。
これは、地球や太陽には、全く通用しません。
わたしは、「鬼神」という作品で、人間社会にも掟は必要だが、それは人間社会だけに通用するような掟であってはいけないことを主張しました。
宇宙を貫く掟、法則に則した人間社会の掟でないといけません。
しかし、過去においても、現在においても、人間の世界で為されてきたことの善悪の判断はすべて、人間の都合だけの、憲法や法律といった掟であります。
わたしは、そういった憲法や法律の前に、宇宙を貫く掟を箍として、人間社会に嵌めておかなければならないと思うのです。
それが、「鬼神」の「鬼の掟十七条」であります。
まず、自分たちの憲法や法律を遵守する前に、「鬼の掟十七条」を守っているかどうかが先決問題であります。
一休さんは、その辺のことをきっちりと、この詩で言っておられるのです。