|
(その三)揺れ動く心 聡の自分に対する欲情の正体を知った恵美子は、将又、お腹の子の処置について揺れ動いた。 倫子には、お腹の子を既に処置したと言ったが、心の中では産むことで決着がついていたはずだったのに・・・。 お腹の子に対する信念が揺らぎはじめたからだ。 恵美子は以前聞いた話を思い出した。 純潔犬のメス犬が一度でも雑種のオス犬と交尾すれば、妊娠しなくても純潔種ではなくなる。 その後、純潔種のオス犬の種を身ごもっても、以前交尾した雑種の血が混ざってしまっているからである。 処女性が種の保存に決定的な要因となっていることを物語っているのだ。 アメリカに新婚旅行に行った新郎・新婦がニューヨークの衣装店で災難に遭った。 衣装合わせをしていた新婦が連れ去られる事件が起きたのだ。 数日後に、新婦は無事戻ってきた。 それから、2年の歳月が過ぎて、この夫婦の間に子供が生まれた。 その子供の肌は黒かったのである。 生まれてきた子供は明らかに夫の血を引き継いでいた。 それでも、黒い肌の子供が生まれたのである。 『ひょっとしたら、このお腹の中にいる子供は・・・?』 藤堂頼賢にも狂気の血があることは承知しているが、聡にも別の意味での狂気の血がある。 同じ狂気でも二人の間にある狂気の乖離は、民族、つまり、人種の突然変異が生じる際に起こるものであることを、彼女が知る由も無かった。 鹿ヶ谷哲夫ともう少し話をしていれば実体を理解することが出来たのだが、人生が予定通りに行かないのは、魔がさす出来事が必ず起こるからであり、魔がさす出来事は想像もできない処から襲ってくるものである。 その鍵を握っているのが服部崇であることを、藤堂頼賢が気づいていたのかも知れない。 必死に服部崇をかばおうとしたことには、深い理由(わけ)があったのだ。 『藤堂はんが、鹿ヶ谷邸に止まると言い張りはったんは、ひょっとしたら・・・』 恵美子の全身から冷や汗が吹き出した。 恵美子が思い出した話が、人生の分岐点の道標になっていたのかも知れない。 藤堂頼賢の子供を産むことを決意した心に、突然、予想もしない「想い」が襲ってきたのである。 揺れ動く恵美子の心の中に一点の光明が見え隠れしていたことに気づくのに然程時間が掛からなかった。 心の中の一点の光明とは澄江だった。 「まあ、恵美子はん。どうしはったん?」 受話器の向こう側から聞こえてくる声の音色は、恵美子の心を落ちつかせる波動があった。 母の倫子の声には険がある。 『お母はんと対照的やわ!』 他人(ひと)の心を読む洞察の鋭さにおいては、澄江も倫子に劣らずの能力を持ち併せているのだが、洞察力の質がまるっきし違うのだ。 「徳」と「仁(人)徳」の違いなのだ。 聖徳太子の「冠位十二階」では、「徳」、「仁」、「礼」、「信」、「義」、「智」の順であり、「仁」より「徳」が最上位にある。 今流に言えば、「仁(人)徳」よりも「徳」の方が品位があるわけだ。 『お母はんは仁徳はあるけど、澄江はんには徳があるんやわ!』 受話器の向こう側で発せられた第一声で、恵美子は確信したのだ。 「うち、藤堂はんのお子を宿してるんどすけど・・・」 「そうどすか?」 恵美子の第一声に澄江はまったく動じていない様子だった。 「・・・けど・・・は意味深おすな・・・」 兄の聡との事件など知るべくもない澄江なのに、見透かされているような気になった。 「うち、藤堂はんがはじめての男はんやないんどす・・・」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 澄江は黙っていた。 「うちにとってはじめての男はんは・・・・・」 すべてを告白しようとした恵美子を澄江が制した。 「それは云わぬが花どっせ!」 「その男はんとは今でも?・・・そこが問題やわな」 恵美子は澄江の意図を測りかねていた。 「いえ。うちは端からそんな気はおまへん・・・」 間髪を入れずに澄江が決定的な言葉を発した。 「恵美子はんの気持ちの問題やあらへん、問題はその男はんの今の気持ちや・・・」 「どういうことどすか?」 「その男はんが今でも恵美子はんのことを想ったはったら、お腹のお子は藤堂はんだけのお子にはならへんのどっせ・・・」 『やっぱり!』 恵美子は愕然とした。 |