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(その三)運命の皮肉 澄江は、鹿ヶ谷邸での話の続きをはじめた。 「うちも、好きな男はんの子を宿したけど、結局、下ろしたんは、恵美子はんと同じ理由どした・・・」 受話器の向こう側の声の音色が急に変化した。 昼間の青空の淡い音色から夕方の群青色の深い音色に変わっていた。 「博はんて云いはったどすな?好きな男はんのこと・・・」 「うちのはじめての男というのが・・・それは云わぬが花おすな・・・」 澄江が大学を卒業して就職した(株)松村は、京都でも五本の指に入る大手呉服卸商だった。 社長の松村善三は近江出身で、一代で(株)松村を大手卸商にのしあげたやり手だ。 生き馬の目を抜くやり口が江州商人の十八番である。 松村善三には長男の兄が一人いた。 近江から十二才で京一の老舗・山崎に丁稚奉公のために出てきた彼は、自前の店を持つために必死に働いた。 丁稚奉公に入った山崎の主人に可愛がられ、十八才で暖簾分けの許しを得るまでになっていたが、暖簾分けだと屋号を同じ山崎にしなければならない。 その代わりに、資本の援助を受け、商品を貸与してもらったり、顧客を分けてもらうことができる。 自前の店を持つことを夢観ていた善三は山崎を辞めることを決断して、独立する道を選択したが、独立するには資本が要る。 近江の実家に相談した結果、長兄と共同経営するという条件で、長兄の持つ田畑の相続権を生前贈与してもらい、資本金に当てることになったのである。 爾来、長兄は仕事に口を挟むことはしないが、専務取締役の職に座っていた。 善三にとっては、長兄の存在が頭の上のたんこぶだったのである。 そんなフラストレーションが溜まる渦の中に、澄江が迷い込んできたのだ。 善三の秘書として就職した澄江は、社長の身の周りの世話をするようになった。 ある日、澄江は社長の東京出張に同行することになった。 東京の神田にある、東京一の呉服卸商、菱一を訪問するためだ。 菱一は、長男の博が、大学を卒業して丁稚見習いのために世話になった会社である。 菱一での挨拶に時間を取られた二人は、その夜、東京に泊まることになった。 (株)松村の出店が武蔵野の吉祥寺にある。 五日市街道と井の頭通りが交差する角にその店はあった。 博の弟の浩二が東京の店の責任者だった。 常務取締役の博は近い将来、社長になることを約束されていたが、次男の浩二の処遇に悩んだ善三が窮余の策として出した店である。 その夜、浩二は二人のために、「きりたんぼ鍋」を用意してくれた。 酒には自信があった澄江も浩二に薦められるままに、メートルをあげてしまった。 上機嫌になったまま、三人とも前後不覚に陥って、朝目が覚めるまで、記憶を喪失するほどに深酔いしたのである。 運命の皮肉とはそんなものだ。 「澄江はん!あんたが欲しいんや!」 澄江の身体の上に覆い被さって、善三が叫んだ。 「やめて!社長さん!」 「ああああ!」 自分の叫び声で澄江は目が覚めた。 『ああ!夢やったんや!』 善三は70才を過ぎてから自分の体の異変に気づいていたが、それがアルツハイマーの前兆であることまで想像できなかった。 もの忘れが激しくなり、異常な性欲に振り回される。 夜中に69才の妻の寝床に押し入ってはセックスを強要する。 呆れ果てた妻が長男の博に助けを求め、博と三人で寝床を共にするようになっても、辺り構わず妻に馬乗りになる。 善三は博の薦めで心療内科の医者に診てもらった。 極度の脅迫観念が原因らしい。 善三の兄が脅迫観念の元凶だったのである。 そんな中で、澄江との間に不幸な出来事が起こったのだ。 善三には明確な記憶はなかったらしいが、息子の浩二はこの夜の出来事を具に見ていた。 澄江が密かに博に想いを寄せていたことを知っていたからだ。 仲の良い兄弟だった二人の間に溝が生まれたのも、この出来事が原因だった。 京都に帰った善三は引退を決意して、社長の座を博に譲った。 そして、新しい社長は善三の兄の専務を解任して、弟の浩二を後釜にした。 吉祥寺での出来事で会社を辞めようと決心していた澄江は、新しく社長になった博にその旨を伝えた。 「なんでやねん?ぼくの秘書になるんはいやなんか?」 「いえ、そういうわけでは・・・」 理由を言うわけにいかない澄江は、うつむいてしまった。 「ほんなら、このまま社長秘書として続けてんか・・・」 澄江は辞意を撤回せざるを得なかった。 博と澄江の主従関係は、この時からはじまったが、善三との出来事を博に告白することはどうしても出来なかった。 「鹿ヶ谷さん。今晩時間を空けてくれへんか?」 ある日、澄江は浩二の誘いを受けた。 「専務さん。仕事の件でしょうか?」 澄江は、吉祥寺の店での出来事を浩二が知っているとは想像すらしていなかったが、女の直感の警戒心が彼女に警鐘を鳴らしたのである。 「仕事といえば、仕事やな・・・」 意味深な口調に一瞬、不吉な予感はしたが、断る理由もなかったので、澄江は快諾した。 |