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(その三)決意の旅 恵美子は再び東山の実家を出た。 「中川、中川・・・」 中川駅に降り立った彼女は、プラットホームから線路を隔てた向い側に見える懐かしい改札口に先ず目をやった。 『あれから何年経ったんやろ?』 中央階段口を登って1番線のプラットホームに降りた傍には、今でも立ち喰い蕎麦の店が暖簾を掲げて営業をしていた。 『今でもいやはるやろか?』 恐る恐る暖簾を潜ってみた。 「いらっしゃい」 期待していた声の主ではなかった。 「あのう・・・ここで働いていた福沢さんは?」 恵美子の全身を舐め回すような目つきで訝し気に見ていた店員の険しい表情が穏やかなものに変わった。 「ああ・・・福沢さんなら、榊原温泉の木戸屋さんにいやはりまっせ」 不安からくる緊張でどきどきしていた胸の動悸が消えると、恵美子は急に元気が戻ってきた。 「ありがとうございます!」 店の隣には改札口がある。 同じ電車に乗っていた団体客は既に改札口を出てバスに乗り込んだらしく、雑然としていた改札口周辺は再び静けさを取り戻していた。 タクシー乗り場には客を待つ車が一台だけ止まっている。 「榊原温泉の木戸屋まで行ってください」 運転手は黙ってドアを閉めて、アクセルを踏んだ。 中川駅から榊原温泉までおよそ30分掛かることを知っていた恵美子が、外の田園風景を眺めて時間潰しをしようと決め込んでいたその矢先、無愛想だった運転手の方から沈黙を破ってきた。 「お客さんは、芸者さんでっか?」 若い女性の着物姿が珍しいのだろうか、それとも、恵美子の醸し出す雰囲気を嗅ぎ分けたのだろうか。 「そう見えますか?」 恵美子は問い返してみた。 「榊原温泉にも芸者さんがいっぱいいますからな・・・雰囲気でわかるんですなあ・・・」 「うちは、祇園の芸妓どす」 初老風の男は吃驚した様子で、再び無愛想な運転手に変わってしまった。 一人の世界に戻ることができた恵美子は再び懐かしい田園風景の絵の中に自分を染めさせ、一時の安寧の至福を楽しんだ。 時を刻むに連れて田園風景の中に山の峰が一つ一つ現れてくる。 榊原温泉はもう近くだ。 田畑が拡がるその奥には山林が生い茂っている。 「ああ!鹿がいる!」 数百メートルに上る断崖を見事なまでの跳躍力で瞬く間に麓まで降りてきた鹿が、目の前にその姿を現したのである。 奈良公園の鹿しか見たことがない恵美子にとって、目の前に迫ってきた野生の鹿の活き活きした容姿は圧巻だった。 「運転手はん。この辺には野生の鹿がいるんどすか?」 不愛想な運転手に思わず普段の言葉で訊いてしまった。 「この辺りは、野生の鹿が生息できる自然がまだ残っている珍しい地域です。 温泉水が彼らの飲み水になってるんです・・・」 自然の生きものは大いなる知恵を持つ。 教えてもらわなくても、真理を知っているのだ。 肉食動物が草食動物を最初に食うのは腸(はらわた)である。 草食動物の腸には食物繊維が大量に含まれていることを、肉食動物は知っているのだ。 「野生の鹿は温泉水が体にいいことを知ってるんどすか?」 「そうどすえ!やっぱり、京弁はよろしいどすなあ!」 訳のわからない京都弁を使う運転手に呆気に取られた恵美子は思わず吹き出してしまった。 「運転手はんは京都に来たことあるんどすか?」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」 その男は再び無愛想な運転手に戻った。 「榊原温泉病院」という看板の建物が窓の左手に見えてくると、恵美子はあの時のことを思い出した。 |