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(その五)鴨川をどり 『うちは、「鴨川踊り」のために帰ってきたんや!』 鴨川踊りは正式には「鴨川をどり」と書かれる。 京都が依然日本の正式の首都であるが、孝明天皇の死後、その第2皇子、睦仁親王が明治維新のどさくさに紛れて、慶応(1867年)3年1月9日に践祚、同年12月に明治天皇に即位した際に江戸に行幸したまま居座ってしまった。 爾来、江戸が事実上の首都となっていたが、1200年続いた日本の都の地位を東京に奪われた京都が、首都奪回のために明治8年(1875年)に始めたのが「鴨川をどり」である。 「鴨川をどり」は先斗町歌舞会が毎年5月に催される芸妓の舞踊公演だ。 祇園歌舞会ではなく、先斗町歌舞会であるところが味噌である。 祇園は日本三代祭の一つで八坂神社最大の祭、「祇園祭」の鉾を管理する畑家が仕切っている花街であるのに対して、先斗町は織田信長が可愛がったポルトガル人ルイス・フロイスに因んだ花街だ。 京の都に花街がつくられたのは室町時代末期から戦国時代に掛けてであって、今川義元を桶狭間で撃ち破って上洛を果たした織田信長が、戦国時代を招いた応仁の乱で疲弊した京の都を再建したことから始まる。 織田信長の信任厚かったルイス・フロイスが、比叡山焼き撃ちも相俟って京の都の人々の荒んだ心を癒すために、織田信長の要請ではじまったものであり、最初に先斗町が造られた。 先斗をポントと呼ばれるのは、ポントというポルトガル語からで、「港」の意味である。 大航海時代のヨーロッパは港が男女の邂逅の格好の場所であり、マドロスたちは夜の女たちを求めて港の酒場を渡り歩いた。 先斗町とは「夜の港町」ということだ。 先斗町が八坂神社に近い場所であったことから、「夜の港町」が八坂神社の門前近くまで拡がって行った。 八坂神社の門前は古くから「祇園(ぎおん)」と呼ばれていたために、先斗町とは別の祇園という「夜の港町」がつくられたのだが、工作したのは祇園の主人である秦一族であった。 当時は、祇園を闊歩する客たちはすべて秦一族で占められていたのに対して、先斗町はルイス・フロイスの縁者、つまり、異国人で独占されていた。 秦一族も異国人ではないが、帰化人であったから、花街は外国人の遊び場所であったわけである。 平城京から平安京に遷都した桓武天皇の最大の目的は政敵の怨念鎮静にあったと歴史は語るが、それは表面上の話である。 平安京建設をすべて仕切ったのは、飛鳥から山城に拠点を移した秦一族だ。 聖徳太子が毒殺され、彼の一族も法隆寺で滅亡させられたのをきっかけに、聖徳太子の右腕で特に経済政策に辣腕を奮った秦川勝は山城の地で隠居を装い、一族の大半は、彼らの出身地であった播州に移り、そこから日本全国に姓を変えて散っていった。 まさに、日本版、一族離散(ディオスポラ)だ。 その狙いは、栄光への脱出(Exodus)に他ならない。 (Exodus)は「出エジプト記」のことである。 平安京建設は秦一族の日本乗っ取り作戦の一環だったのである。 では何故、日本乗っ取り作戦に桓武天皇が加担したのか。 古代日本の発祥理由に大きく関わっているのだ。 祇園と先斗町。 ギオンとポント。 共に外来語だ。 祇園をギオン、先斗をポントなどと、日本人は誰も読めない。 1200年の都を誇る京都の謎がここに潜んでいて、その鍵を握るのが、「鴨川をどり」である。 |