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第十九章 愛憎のヨーロッパ社会 人種差別の元祖はスペイン・ポルトガルのイベリア半島だ。 人種差別の中興の祖は海抜下のオランダだ。 欧米列強の元祖であるイギリス・フランス・ドイツ・ロシアは人種差別など眼中になく、経済行為だけに関心があった。 現代ヨーロッパの国々は人種差別に無関心を装い、アメリカ大陸だけが人種差別の坩堝のように思われている。 アメリカ合衆国にある黒人差別問題は、人種差別問題と経済問題が交錯した結果の産物であるのに対して、中南米諸国にある純粋な人種差別は、アメリカ大陸を発見したコロンブスの時代がスペインによるイベリア半島支配の時代であったからだ。 現代ヨーロッパの国々が比較的容易にヨーロッパ連合(EU)を設立できたのは、人種差別意識よりも経済意識の方重要課題だったからである。 ヨーロッパ連合(EU)の前身がヨーロッパ共同体(EC)であった所以だ。 1952年。 限定した地域的な経済協力機構として、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)が発足した。 1958年。 ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)が発展拡大した結果、ヨーロッパ経済共同体(EEC)とヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)がそれぞれ設立された。 1967年。 ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)とヨーロッパ経済共同体(EEC)とヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)が統合されてヨーロッパ共同体(EC)が発足した。 ヨーロッパ共同体(EC)は経済分野だけにとどまっていたが、通貨統合、そして、政治統合へ拡大していこうという動きが起こっていく。 1993年11月。 マーストリヒト条約(ヨーロッパ連合条約)の発効で、ベルギーの首都ブリュッセルに本部を置いたヨーロッパ連合(EU)が発足した。 ヨーロッパ共同体(EC)の原加盟国はフランス・ドイツ(当時は西ドイツ)・イタリアを中心にオランダ・ベルギー・ルクセンブルグの6ヶ国だけだったが1973年にイギリス・アイルランド・デンマーク、1981年にギリシャ、1986年にスペイン・ポルトガル、1995年にスウェーデン・オーストリア・フィンランド、2004年にポーランド・ハンガリー・チェコ・スロヴァキア・スロヴェニア・エストニア・ラトヴィア・リトアニア・キプロス(南キプロス)・マルタが参加、加盟国は25ヶ国になった。 人種・民族問題に経済問題が交錯した、まさに愛憎入り交じった西欧社会の縮図である。 日本の歴史は氏姓社会の歴史だ。 氏社会とは血縁社会である。 姓社会とは地縁社会である。 ヨーロッパの歴史も氏姓社会の歴史と言えるだろう。 血縁と地縁の入り組んだ社会である。 第二次世界大戦後のヨーロッパを鳥瞰してみよう。 1945年:第二次世界大戦終結。アメリカとソ連の対立。 1946年:イギリス首相チャーチルが「鉄のカーテン」発言し、冷戦の始まり。 1948年:マーシャルプラン受け入れ機関としてヨーロッパ経済協力機構(OEEC)が発足 ヨーロッパ連合(EU)の土台となるベネルクス三国による関税同盟が結成。 1949年:NATO(北大西洋条約機構)発足。 1952年:戦争で大量に使用する石炭・鉄鋼を監視する目的で、ヨーロッパ石炭鉄鋼共 同体(ECSC)がフランスの提唱で結成。 1955年:ソ連を中心の東ヨーロッパにワルシャワ条約機構が発足。 1957年:ベネルクス三国・フランス・西ドイツ・イタリアの6ヶ国によっ て、ヨーロッパ経済共同体(EEC)を設立するためにローマ条約 を調印。正式名はヨーロッパ共同体設立条約で、ヨーロッパ連合 (EU)の基本条約としての効力を持つ。 1958年:ヨーロッパ経済共同体(EEC)とヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)が発足。 1960年:ヨーロッパ経済共同体(EEC)に対抗してイギリスを中心にヨーロッパ自由貿易連 合(EFTA)が発足。 1965年:ブリュッセル条約調印により、ヨーロッパ経済共同体(EEC)、ヨーロッパ原子力 共同体(EURATOM)、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)の統合したヨーロッ パ共同体(EC)発足を合意。 1966年:ヨーロッパ経済共同体(EEC)の中で農産物の価格を統一すること合意。 1967年:ヨーロッパ共同体(EC)発足。 1968年:ヨーロッパ共同体(EC)内の関税同盟が完成。また農業共同市場が発足。 1973年:イギリス・デンマークがヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)を脱退し、ヨーロッパ共 同体(EC)に加盟。アイルランドもヨーロッパ共同体(EC)加盟。 1975年:ヨーロッパ共同体(EC)とアフリカ・カリブ海・太平洋地域の発展途上国との包括 的経済協力関係について定めたロメ協定が、トーゴの首都ロメで調印。 1978年:サミット参加。 1979年:ヨーロッパ通貨制度(EMS)が発足し、ヨーロッパでの通貨単位(ECU)を作ること で同意が図られ、ヨーロッパ議会が開会。 1981年:ギリシャがヨーロッパ共同体(EC)に加盟。 1985年:パスポート統一。 1986年:ヨーロッパ共同体(EC)にスペイン・ポルトガルが加盟。 1989年:アメリカ・ソ連のマルタ会談で冷戦終結。東ヨーロッパ各国が民主化に走り、ベ ルリンの壁が崩壊。 1990年:ドイツ再統一。東ドイツもヨーロッパ共同体(EC)に加盟。 1992年:マーストリヒト条約(ヨーロッパ連合条約)が調印され、ヨーロッパ連合(EU)が発 足。 1993年:ヨーロッパ共同体(EC)を元にヨーロッパ連合(EU)が正式発足。 1994年:ノルウェーが住民投票でヨーロッパ連合(EU)加盟を拒否。 1994年:ヨーロッパ経済地域(EEA)成立。 1995年:オーストリア・フィンランド・スウェーデンが加盟。 ヨーロッパ連合(EU)加盟国間での人の移動が自由化(シェンゲン協定)。 1997年:ヨーロッパ連合(EU)首脳会議で、マーストリヒト条約をさらに進め、加盟各国の アイデンティティーを尊重しながら、政治的・経済的・社会的により密接に統合され た単一ヨーロッパの実現を目指すアムステルダム条約採択。 1999年:単一通貨ユーロ導入。 2002年:ユーロ通過の流通開始(イギリス・デンマーク・スウェーデンを除く) 2003年:ヨーロッパ連合評議会で「ヨーロッパ理事会常任議長(ヨーロッパ大統領)の創 設をフランスより提案され、大国は賛成、中小国は反対。 ヨーロッパ連合(EU)の新憲法最終案が提出。 2004年:ポーランド・ハンガリー・チェコ・スロヴァキア・スロヴェニア・エストニア・ラトヴィア・リ トアニア・キプロス(南キプロス)・マルタが参加、加盟国は25ヶ国になった。 ヨーロッパ憲章草案を採択され、条約調印後2年目となる2006年に批准作業 が行われる。 1480年から1941年の約450年間にヨーロッパの大国が起こした戦争の回数は、イギリスが78回、フランスが71回、ドイツが23回である。[竹山道雄著(剣と十字架)より抜粋] ヨーロッパ連合(EU)とは、フランク王国の復活と言ってもいいだろう。 ノルマン人が征服したイギリスやノルウェーがヨーロッパ連合(EU)に一線を画す理由は、ドイツ・フランス・イタリアの前身がフランク王国にあるからだ。 ヨーロッパという言葉は、アジアという言葉と対比されたものである。 アジアが「日の出る国」であるのに対し、ヨーロッパは「日の没する国」なのである。 アジアとヨーロッパの語源は、紀元前十三世紀末から前九世紀にかけて地中海東部に栄えたフェニキア人が、彼らの国より東の方をフェニキア語で(açu=日の出る国)と呼んだことからアジアになる、西方は(ereb=日の没する国)と呼んだことからヨーロッパとなった。 「東洋」はまた(orient)の訳語として用いられてきた。 「オリエント」なる語も、自民族中心の観点から発生した語であるが、言語学的にはラテン語の(oriens=日が昇る=rise)にもとづく。 これは(occident)がラテン語の (occidens=日が没する=fall)に語源をもつのと対比される。 地域的にはローマ時代、イタリアを中心に、バルカンから北アフリカ、西アジア地方までが(orient)と呼ばれたが、その領域は漸次、東に拡大していった。 文化史上のカテゴリーとしての(orient)文化は、七世紀以後、勃興したイスラム文化がその正統性を継承しているといわれる。 したがって本来(orient)とは、エジプト、パレスチナ、シリア、メソポタミア、小アジア、アルメニア、イラン、アラビア等の諸地域を包摂し、広義にはこれにインドや北アフリカを加えるが、いずれにせよ、発生起源的にも文化史的にも「東洋」とはその内容を異にする。 だから、「東洋」をもって「オリエント」の訳語とするのは混乱を招く。 むしろ、「西洋」に編入される東ローマ帝国やビザンチゥムがオリエント文化圏である。 八世紀にはイベリア半島まで、地中海沿岸一帯に「オリエント」文化が及んでいた。[丸山眞男著(日本政治思想史)より抜粋] 東西世界は、「日の出る国」と「日の没する国」のことである。 紀元607年(推古天皇15年)。 聖徳太子は小野妹子を遣隋使として派遣、随の皇帝・煬帝に国書を渡した。 「日出るところの天子、書を日没するところの天子にいたす、つつがなきや・・・」 小さな島国・日本で生まれ育った聖徳太子が、なぜ日本を東の果てと理解できたのであろうか。 紀元前十三世紀末から前九世紀にかけて地中海東部に栄えたフェニキア人の間で生まれた言葉、「日の出る国(=açu)」と、「日の没する国(=ereb)」を、紀元七世紀の、しかも、日本の聖徳太子が、なぜ知っていたのであろうか。 「第一の軸の時代」と「第二の軸の時代」が呼応したとでも言うのだろうか。 日の没する国・ヨーロッパという名の発祥は、西暦800年、カール大帝(シャルル・マーニュ)が西ローマ帝国の皇帝になることで興ったカロリング王朝にあり、以前はガリア地方と呼ばれていた。 ガリアとはゲルマン人の住む地と言う意味であり、文字文化を持っていなかったゲルマン人を野蛮人だとローマ人は軽蔑していた。 ローマ人の言葉であるラテン語をゲルマン人は使用していたが、古代日本人が中国の言葉である漢字を使用していたのと似ている。 表意文字の漢字に対して、表音文字の平仮名・片仮名を日本人が漢字の伝来後に創出していったように、表音文字のラテン語を、ゲルマン人はやがてドイツ語・フランス語として文字化していったのと似ている。 ゲルマン人と日本人の違いは、「ゲルマンの大移動」で有名なように、彼らは移動民族であったのに対し、日本人は島国に定住せざるを得なかった点にある。 欧米社会が「狩猟型社会」であるのに対し、日本社会が「農耕型社会」である所以だ。 移動型ゲルマン人はローマ人と混血し、その中でゲルマン人は圧倒的な数を誇るローマ人を支配するようになっていく。 そんな中で、七世紀前半にマホメット(ムハンマド)がイスラム教を興した。 アラーの神に支えられたアラブ民族の進出が始まる。 アラビア半島を統一した彼らは、やがて東ローマ帝国の侵略を目論むが失敗、進路を地中海に面している北アフリカに変えた。 711年。 アラブ民族は地中海を渡ってスペインに達し、ゲルマン人が支配する国の一つである西ゴート王国を制し、更に、ピレネー山脈を越え、ガリア地方に進出した。 732年。 トゥール・ポアティエの戦いが勃発。 フランク王国の大臣、カロリング家のカール・マルテルがゲルマン人を組織化してイスラム勢力と戦い、その進出を食い止めた。 フランク王国のカロリング家はローマ法王の守護者としての地位を確立していくことになり、やがて、カール・マルテルの孫であるカール大帝(シャルル・マーニュ)が西ローマ帝国の皇帝になる。 814年。 カール大帝(シャルル・マーニュ)の死亡によって激しい相続争いが起こる。 843年。 ヴェルダン条約によって再興された西ローマ帝国は、イタリア及びロレーヌ、東フランク、西フランクに三分された。 870年。 メルセン条約締結。 イタリア及びロレーヌ地方がイタリア、東フランクがドイツ、西フランクがフランスとして興った。 ヨーロッパの誕生である。 1985年9月22日。 ニューヨークのプラザ・ホテルでアメリカ・イギリス・ドイツ・フランス・ 日本の蔵相会議いわゆるG5が開催された。 1972年のアメリカ・ニクソン大統領による一方的な金本位制廃止によってもたらした基軸通貨ドルの垂れ流しが、国際社会を実体(金)経済から仮想(貨幣=お金)経済へと、投資経済から投機経済へと、モノづくりからマネーゲームへと追いやっていった結果、当初、固定相場制だった為替市場は当然のことながら変動相場制へと移行していったのである。 「プラザ合意」の趣旨はこうだ。 アメリカドル高是正の協調介入のために、国際通貨制度を固定相場制から変動相場制に移行し、国際経済全体が国際投機資金の激しい動きによってバブル化し、市場が常に不安定な状態に陥らないために、5大国が金融通過政策の協調介入によって、国際経済の安定を図る。 バブル経済を防ぐための「プラザ合意」というわけだ。 ところが日本を襲ったバブル経済は、「プラザ合意」をした1985年から発生した。 「プラザ合意」によって円高は急ピッチで進行し、「円高不況」に脅えた日本政府は総合経済政策を決定し、1986年の一年間に五回に亘って5%から2.5%への低金利政策を実施した。 膨大な貿易黒字と低金利政策が相俟って、日本国内には過剰流動性が発生、余ったお金を抱えた銀行は、安易に企業や個人に融資するようになっていった。 殆どの企業や個人は、借りた資金を株や不動産のような投機色の強い投資に使い、財テクに明け暮れるようになっていった。 バブル経済の発生だ。 当時の中曽根政権は、国際経済がバブル化しないために「ドル安容認」の「プラザ合意」をした筈なのに、反対にバブル経済を発生させてしまった。 「プラザ合意」とは一体何であったのか。 1989年12月3日。 アメリカ・ソ連のマルタ会談で東西冷戦が終結。 東ヨーロッパ各国が民主化に走り、ベルリンの壁が遂に崩壊した。 「プラザ合意」で「ドル安容認」をしたドイツ・フランス・イタリア・イギリスでも、バブル経済が発生・破裂し、アメリカに煮え湯を呑まされたヨーロッパの主要国は、冷戦終結をきっかけにアメリカと袂を分かつことを決断した。 ヨーロッパ連合(EU)設立への道がスタートした。 |