第二十二章 世界制覇の陰謀

2030年代に世界制覇を目論む勢力がいる。
バッシュ大統領を陰で操る連中のことだ。
2033年6月に沖縄で起きた事件と11月にロスアンジェルスで起きた事件とが連動しているとは、誰が予想できたであろうか。
「軸の時代」とはまさにこのことである。
地理的にまったく関係のない場所で、呼応したような出来事が起こる。
「ガリバー旅行記」は言う。
人間の存在などまるで蟻の世界のようなものである。
巨人ガリバーにとっては、ちっぽけな人間社会の出来事など一望できる。
一寸先は闇だと思い込んでいるのは卑小な人間だけであり、ガリバーにとっては、人間の行動はすべて予想できる。
巨人ガリバーとは地球のことなのだ。
敗戦国民の積年の「想い」が表現された沖縄の事件と、人種差別の積年の「想い」が表現されたロスアンジェルスの事件は、東西に立ちこめる暗雲が呼び合うように、一つの竜巻となっていく。
アメリカのバッシュ大統領が日本に難癖をつけてきた。
田島八郎と石嶺リエをアメリカで裁くために身柄を引き渡せと脅し、日本政府がその要請に応じなければ、日本向け石油は全面禁止させると言う。
日本の原油輸入国はアラブ産油国とインドネシアが大半だ。
太平洋戦争前までは、インドネシアから大半の原油を輸入していた日本に対して、アメリカのルーズベルトはABCD(米・英・支・蘭)包囲網を編み出した。
1935年。
中国の上海でロックフェラーの協力を得た極東ユダヤ会議は、国際ユダヤ財団に提訴、「中国の幣制改革」を決定、ABCD(米・英・支・蘭)包囲網が完成することによって、蒋介石政権を支援し、日本への石油禁輸を導き出したのである。
アメリカのやり口は百年前と同じパターンだが、ロスアンジェルスの事件が絡んでいたのが、今までと違っていた点だ。
極端な人種偏見を持つバッシュ大統領の狙いは、沖縄のアメリカ兵暴力事件とロスアンジェルスの暴動事件の根源が有色人種の劣等性にあることを強調することにあったのだ。
この二つの事件を白人社会に対する挑戦だと欧米世界に訴え、有色人種を一気に殲滅しようというわけだ。
ヨーロッパ連合(EU)を結成し、アメリカ離れをしていた連中を引っ張り込もうとしたのである。
一方で環太平洋条約機構の仲間に無理矢理入り込み、片方で北大西洋条約機構(NATO)の結束を主張するアメリカの身勝手さと傲慢さに、ヨーロッパ連合(EU)の反応は当然のことながら冷たかった。
嘗ての盟友であり、自分たちの産みの親であるヨーロッパから見放されたアメリカは、不倶戴天のライバルである中国と手を組もうとしたのである。
1841年。
阿片戦争勃発。
紀元69年、ローマ帝国によって滅ぼされたヘブライ人は1900年間の離散(ディアスポラ)の運命を背負わされることになる。
上海に拠点を置いて財を成したユダヤ財閥サッスーン家は、イスラエル亡国後スペインのグラナダを経てギリシャのサロニカに流れ、十六世紀にはバグダッドに落ち着いていた。
1831年。
バグダッドで生まれたディビッド(ダビデ)がインドのボンベイに「ディビッド・サッスーン商会」を設立した。
サッスーン家中興の祖である。
ディビッド・サッスーンはボンベイで英国東インド会社から阿片の専売権を与えられるが、阿片の輸出がイギリスその他欧州各国のアジア進出の原動力となる。
十九世紀のはじめには、中国とインドで世界の国民総生産の五割近くを占めていたのに対して、イギリス・フランス・ドイツは5%にも達していなかったのが逆転しはじめた時期でもある。
蒸気機関の発明によって綿花の飛躍的な紡績コストダウンを達成したイギリスが、それまで綿糸を輸入していたインドに逆輸出したことが逆転の原因だと、表向きには伝わっているが、その裏では阿片の輸出があったのだ。
イギリスの猛烈な阿片の輸出は年間3万四千箱に達し、中国(清)の国民の大半が阿片中毒になり、道徳は荒廃した。
たまりかねた中国(清)政府は阿片輸入禁止を命じたが、依然密輸が後を断たない。
1841年。
中国(清)政府は皇帝直轄の欽差大臣・林則除を広東に派遣、サッスーン商会から二万箱の阿片を没収し焼き捨て、密輸業者を処刑した。
阿片戦争勃発である。
阿片戦争で英国に敗れた中国(清)は、広東・福州・廈門(アモイ)・寧波(ニンポー)・上海の五港開港と香港割譲、そして二億一千万両の賠償金を課せられた(南京条約)。
欧米列国の中国侵略の第一歩である。
一方、サッスーン家は、イギリス王室から第一級功労者として「サー」の称号を得た。
中国(清)の悲惨な状況は、天保十一年に日本にも伝わり、それが「尊皇攘夷」思想の礎となって、明治維新への導火線となっていくのである。
「ディビッド・サッスーン商会」は、既に次男エリアスが継いでいたが、開港後の上海に支店を置き、1867年、「E・D・サッスーン・カンパニー」を開設、末弟のディビッド・E・サッスーンが総帥となって中国操縦の指揮をとっていた。
阿片の専売権を持ったサッスーン家は、イギリスのアジア進出の手先としてイギリス政財界に暗躍する雄となる。
ディビッド・E・サッスーンの長男アルバートはイギリス本国に住み、イギリスの世界的ユダヤ財閥ロスチャイルド家やフランスのロチルド家と閨閥を形成していく。
サッスーン家の長男家を相続した、サー・フィリップ・サッスーンはカナダのバンクーバーで中国の幣制改革方針策定の中心人物として活躍、昭和十年九月六日には日本に立ち寄って、時の日本政府に協力要請をし、その後上海に到着した彼は、中国の謀略的幣制改革の立役者となっていく。
中国を経済的に支配する綿密な計画に基づいての行動だ。
極東ユダヤ財閥はサッスーン家によって構築され、先ずインドを手に入れ、得た利益を上海と香港に投資することになっていくのだ。
協力を要請した日本が中国に進出してくると、謀略的幣制改革を利用して、日本を太平洋戦争に引きずり込んだABCD(米・英・支・蘭)包囲網を形成していくのである。

大東亜共栄圏構想。
明治維新以来の近代化の根幹思想である。
極東ユダヤの満州投資計画。
1931年(昭和6年)。
サッスーン財閥を主体とする上海の有力ユダヤ人達は、日本の「満州国建設方針」に注目し、満州へのユダヤ移民と北満州のユダヤ企業の保護が真の目的で、親日、親満の態度を装いながら日本政府に接触した。
接触の役目を負ったのが神戸在住のアンタッキーというユダヤ商人であり、彼は日本当局の動静を探り、上海の有力ユダヤ人達に情報提供をしていた。
「E・D・サッスーン・カンパニー」は、この時すでに「満蒙畜産事業」を計画し、本格的な満州開発に乗り込む予定をしていた。
理由は、ヒットラーのユダヤ人迫害が激化したからだ。
ヨーロッパから逃れてくる大量のユダヤ人たちの移民計画を、日本の大東亜共栄圏構想に乗じようとしたのである。
しかし、日本陸軍当局は、ヒットラーのユダヤ人排斥政策に同調し、極東ユダヤの満州投資計画の申し入れを拒否した。
可愛さ余って憎さ百倍になった彼らは、極端な反日行動を展開していく。
極東ユダヤは、「満州における日本の建国方針は失敗である。大部分はユダヤ人の統制下にあるハルピン貿易を剥奪しようとしている。中国政府時代は友誼的待遇下にあったのに、不逞なる日本軍によって破壊されつつある。対策として、日本の対満政策の失敗を喧伝する」と発表した。
太平洋戦争に突入した直接の原因は「ハル・ノート」にある。
日本軍の北部仏印進駐に激怒したアメリカが、経済制裁として国内の日本資産凍結及び日本向け石油の禁輸に踏み切ったことにより、日米間は一気に緊張を高めることになった。
それでも日米双方の外交担当者は、戦争以外の解決法を探って日米交渉を1年間かけて続けていた。当時の日米双方とも、国内の強硬派・穏健派の政治的綱引きがあったが、この交渉の背後でアメリカ側にむしろアメリカの参戦を希望する国民党や英国の影響力があったこともまた見逃せない事実である。
ルーズベルト大統領の命令を受けた、時の国務長官・コーデル・ハルは日本の東郷外務大臣に、「中国から一兵残らず撤退するべき・・・」と最後通牒を送ってきたのである。
軍事的な問題で一時は妥協の提案に傾きかけたハル国務長官だが、日中戦争の当事者である国民政府の蒋介石政権は「日米妥協」は米国の中国支援の妨げとなるとして公然と反対していたし(当時アメリカは非公式ではあるが軍事支援していた)、蒋介石夫人の宋美齢も自身の英語力を生かしてロビイストとしてルーズベルトにさまざまな手段で圧力をかけていた。
「ハル・ノート」を重く受け止めた日本政府は、1941年12月1日の御前会議で日米開戦の決定をした。
「ハル・ノート」提案の草稿を纏めたのは、実は国務長官・コーデル・ハル本人ではなく、後に共産主義者であり、ソ連のスパイ活動をしていたことが発覚して、謎の自殺を遂げたハリー・ホワイト財務次官補であり、ハル自身はもっと穏健な提案を想定していたが、ルーズベルトの最終決断の結果、このような提案にせざるを得なかったのだ。
太平洋戦争の引き金を引く役を演じる羽目になったコーデル・ハルは、皮肉にも戦後の1945年にノーベル平和賞を受賞したのである。
第二次世界大戦勃発の原因は、第一次世界大戦で敗れたドイツに課せられた重石が余りにも重かったのが、ヒットラーという救世主を登場させ、母国ドイツを救おうとした結果の産物だと歴史は言う。
しかし、イタリアがドイツと同盟を結び、フランスを陵辱したことは、明らかに兄弟喧嘩とも言える。
もともとはフランク王国から誕生したラテン国家の中での骨肉の争いに過ぎない。
何故そこに、海賊ノルマン人出身であるアングロサクソンのイギリスとアメリカが参戦したのかが謎である。
第一次世界大戦の実質上の敗北者はドイツではなく、オーストリア・ハンガリー帝国の盟主ハプスブルグ家である。
第二次世界大戦を起こした張本人であるヒットラーはドイツ人ではなくオーストリア人だ。
ヨーロッパという国のルーツはフランク王国、つまり、フランス・ドイツ・イタリアというラテン国家であり、古代ローマ帝国に遡るが、17世紀から18世紀にかけてヨーロッパは東と西に分断されることになる。
第二次世界大戦後、ドイツが東ドイツと西ドイツに分断された真の原因はこの点にある。
南から移ってきたスファラディー・ユダヤ人、つまり、聖書ユダヤ人が西ヨーロッパを、東から移ってきたアシュケナジー・ユダヤ人、つまり、ユダヤ教改宗者が東ヨーロッパをつくろうとした結果、ドイツが東西に分断されたと言っても過言ではない。
資本主義と共産主義が東西社会をつくり、冷戦を起こしたと近代歴史は謳うが、共産主義は資本主義が進化しただけであり、本質は何ら変わらない。
「資本家」が利益を生むという考え方が資本主義であり、労働(者)が利益を生むという考え方が共産主義(社会主義)に過ぎない。
資本主義の根底にあるのは商業(重商)主義であるのに対し、共産(社会)主義の根底にあるのは産業(工業)主義であり、共産(社会)主義が資本主義の進化した形のものである根拠がこの点にある。
歴史とは裏腹に、世界は水面下の流れで決まっていく。
ブルボン王朝がフランス革命によって消滅し、ロマノフ王朝がロシア革命によって消滅し、第一次世界大戦によってハプスブルグ王朝が消滅した。
立憲君主制から共和制への移行が近代社会の進化であり、文明の進化の触媒役を担っているのがイデオロギーとい人間の考え方の変化である。
第二次世界大戦が終わった後も立憲君主制を維持している国はあるが、所詮、風前の灯火だろう。
ドイツを東西に分断した勢力が、これからも立憲君主制国家を消滅させていくプログラムを実行していくのは間違いない。
プログラム実行の完了時期が2030年代である。

日本の天皇家は世界に冠たる125代を誇る万世一系の名家であるが、何回かに亘って血統が途切れる危機があった。
天皇家における女帝の歴史の魁は、第十六代・応神天皇の母である神功皇后だ。
初代神武天皇から第九代・開化天皇までは欠史九代と呼ばれ、実在したかどうかも定かではなく、第十代・崇神天皇が初代天皇とも言われている。
易姓革命の中国では、各王朝の始祖である初代皇帝が太祖や高祖と呼ばれるように、日本の天皇家では「神」という字を含んだ天皇が太祖や高祖だ。
初代・神武天皇、第十代・崇神天皇、第十六代・応神天皇、そして、第十六代・応神天皇の母である神功皇后は、天皇と同格の皇后とされている。
つまり、百二十五代の万世一系を誇る天皇家といえども、太祖は三人いるわけで、その一人が女帝神功皇后だ。
そして次の女帝が第三十三代・推古天皇であり、その時の摂政が聖徳太子だ。
第三十四代・舒明天皇を挟んで第三十五代・皇極天皇が女帝であり、しかも第三十五代・皇極天皇は第三十六代孝徳天皇を挟んで第三十七代斉明天皇として重祚している。
初の重祚天皇であり、女帝になった、宝皇女(たからひめみこ)が産んだのが、後の天智天皇と天武天皇である。
天武朝の奈良平城京は女帝のオンパレードだ。
第四十代・天武天皇の后であり、第三十八代・天智天皇の皇女・広野姫(ひろのひめ)が第四十一代持統天皇に就いたのを皮切りに、第四十三代・元明天皇、第四十四代・元正天皇、第四十六代・孝嫌天皇と女帝が続き、この孝嫌天皇がやはり重祚して、かの悪名高い弓削の道鏡と姦通した称徳天皇その人である。
爾来、800年余り、女帝が誕生しなかったのは、やはり、称徳天皇の罪過が糸を引いているのだろう。
1630年、第百八代・後水尾天皇の皇女・興子姫(おきこひめ)が、第百九代・明正天皇に、そして、1770年、第百十五代・桜町天皇の皇女・智子姫(ともこひめ)が第百十七代・後桜町天皇になったのが女帝の最後を締め括った。
「神」という字を含んだ天皇が太祖であるとするなら、「徳」という字を含んだ天皇は悉く非業の最期を遂げているのみならず、必ずと言っていいほど女帝誕生と絡んでいる。
第三十一代・用明天皇の皇太子でありながら天皇になれず、推古女帝の摂政となったのが聖徳太子であり、やはり、「徳」の諡号を送られているから、非業の最期を送ったのだろう。
1770年以来、女帝が誕生しなかった日本の天皇家が、二十一世紀に入って俄に騒がしくなってきた。
ドイツを東西に分断した勢力が、立憲君主制国家を消滅させていくプログラムを実行していく中で、日本の天皇家もその標的になっているらしく、そのプログラム実行時期が、やはり2030年代なのである。
2030年代に世界制覇を目論む勢力は、1917年にロシア革命を成し遂げ、二十世紀の国家モデルになるべき共産主義国家を建設した。
1776年につくっておいた自由主義国家のモデルであるアメリカと、共産主義国家のソ連を、表向きは対抗させる一方で、水面下では同時支配する体制を構築していった。
1492年にコロンブスが発見した新大陸の開拓が本格的に行われるには300年以上の歳月を要した。
1820年にイギリスから清教徒の集団移民が新大陸に入植すると、彼らは多くの農地を開墾して、大量の農産物を生産するようになったが、イギリス本国は、これらの農産物を安く買い取る一方で、植民地である新大陸で工業を興すことを禁止し、工業製品はイギリス本国から購入することを強制し、イギリス本国以外の国と貿易することをも禁止した結果、植民地住民の不満は次第に強くなっていった。
世界制覇を目論む勢力の祖先が、清教徒移民と一緒に新大陸の開拓に励んでいた連中の中にいた。
彼らはイギリス本国の圧政の苦境を打開するために、中南米にいる彼らの同胞と密貿易を始め、遠距離のヨーロッパとの取引よりも遙かに有利な南北密貿易を確立する。
新大陸への最初の入植から250年、清教徒が入植してから130年を経過した十八世紀の中頃になると、イギリス本国の宗教や政治に不満を持ち、自由で平等な平和社会をつくりたいという入植者たちの想いが強くなり、やがてイギリス本国の統治政策に反感を持つようになっていった。
この風潮はやがて、独立の気運を生みだしていき、南北密貿易で巨利を得た彼らは、独立運動を陰から応援していくことになる。
農業に従事していた清教徒たちが独立を叫んで立ち上がっても、世界最強の軍隊を持つイギリス本国に勝てるわけがないことを十分に知っていた彼らは、そこで自分たちの独立資金を清教徒たちに投入し、兵器弾薬等一切の軍需品をフランスから密輸入したのである。
独立の気運が高まり、計画の実現可能性の見通しが立つと、彼らはフランスで義勇軍を募集し、ラファイエット将軍を選び、将軍は自ら予備役となって義勇軍の画策に当たった。
新大陸の植民地では、彼らの仲間であり、大衆に信望の篤いジョージ・ワシントンを指導者として担ぎあげ、独立の準備に専念し、念には念をいれて立ち上がる好機を待っていた。
1770年代のはじめにイギリス本国は、新しい印紙税を新大陸の植民地に賦課した。
新大陸の住民は、イギリス本国の飽くなき搾取政策に怒りを爆発させ、1773年ボストン港に入港した西インド会社の貨物船を襲い、積荷の大部分を海中に投棄するという事件が起きた。
紅茶事件だ。
紅茶事件鎮圧のため、イギリスの植民地統治当局は軍隊を出動させ、民衆を攻撃し追い散らした。
鎮圧したと高を括った当局の油断を逸速く察知した彼らは、独立戦争の火蓋を切る好機と判断、ジョージ・ワシントンを独立総司令官に推挙し、直ちに交戦した。
彼らがアメリカの独立準備にとりかかってから四半世紀が経過したが、遂に戦端を切ったのである。
ワシントンは逸材ではあったが、軍事には素人で、緒戦においてしばしば敗退したが、これを背後から援護したのが彼らであった。
長期戦に備え、冷静に戦局に対処し、ラファイエット将軍の率いる義勇軍の到着を待った。
イギリス本国は、世界最強を誇る海軍力を以て大西洋沿岸を封鎖し、ヨーロッパからの軍需物資の入港を遮断し、武器弾薬の消耗を待ったが、開戦後3年経っても、その兆しは現れなかった。
理由は、彼らの同胞が装ったイギリス国籍の貨物船で軍需物資をフランスから密輸入していたからである。
1776年7月4日。
独立軍は独立宣言を行い、国名を「アメリカ合衆国」としたが、イギリス本国は独立を認めず、戦争はその後7年間続いた。
1783年。
イギリスは遂に諦めて撤兵、アメリカの独立を承認した。
当時のアメリカは、軍備も軍需品製造工場も持っていなかったから、アメリカ一般民衆が、世界最強のイギリス軍を相手に10年間の戦闘に耐えて、独立を勝ち獲ったのは歴史的奇跡であった。
奇跡の背景にあったのは、彼らの協力であることは言うまでもないが、一般の歴史書には史実として一切出ていない。
史実としては、独立軍の兵站責任者だったロバート・モリスが、ヨーロッパで私債を発行、募集して戦費を補充したと書かれてある。
ロバート・モリスが大資産家であっても、戦争資金を個人の信用だけで投資する物好きは誰もいない筈だ。
1870年。
ユダヤ人北米入植250年記念式典で、時のアメリカ大統領グラントは祝辞を送り、この国の建国に、彼らの貢献が大であったと感謝している。
アメリカ合衆国は、彼らの投資と画策によってつくられた国なのである。

1916年2月14日。
ニューヨーク。
クーン・ロエブ商会の頭取だったジェイコブ・シフは、「ロシア革命推進会議」を開き、革命工作員500人の追加派遣を決定、工作資金1200万ドル(参考:現在の日本の貨幣価値で1800倍のおよそ3兆円)を提供することを提案した。
アメリカ・ニューヨークの投資銀行・クーン・ロエブ商会がソ連建国の資金を供出したのである。
このクーン・ロエブ商会の頭取・ジェイコブ・シフこそ、明治37年(1904年)に日本の大蔵大臣・高橋是清の日本戦債買い取りの要請に応え、5億円(参考:現在の日本の貨幣価値で1800倍のおよそ9000億円)を供出した人物であり、日露戦争に勝利した明治天皇は彼に勲二等の勲章を贈った。
更に、伊勢神宮の内宮と外宮を結ぶ参道に菊の紋とカゴメ紋が彫られた灯籠を設置したという噂もある。
彼らのロシア革命工作は十九世紀末からはじまっていた。
帝政ロシアの宰相ストリピンはそのことに気づき、対抗策としての日露同盟を結ぶために、明治政府初代首相・伊藤博文を国賓としてモスクワに招聘したが、ストリピンの要請に応えた伊藤博文は訪露の途中のハルピン駅で朝鮮人・安重良の凶弾に倒れた。
世界史の史実では、ロシア革命は、スラブ系人種である帝政ロシアの、カザール人系アシュケナジー・ユダヤに対する再三のポグロム(虐殺)に対してだとされているが、当時のヨーロッパでは、ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟と、イギリス・フランス・ロシアの三国協商を対立させ、ヨーロッパを戦火の混乱状態に陥らせるのが目的であったと、第一次世界大戦勃発の直接原因となったオーストリア皇太子暗殺事件を裁いたサラエボ裁判の記録は残している。
彼らが、既に超大国まで成長させていたアメリカに対抗する国としてロシアに白羽の矢をたてたのである。
スペインの時代にはイギリスを対抗させ、イギリスの時代にはアメリカを対抗させ、アメリカの時代になるとソ連を対抗させるという、いわゆる双頭戦略が彼らの十八番なのだ。
では何故アメリカの対抗馬としてロシアが相応しいのか。
領土の広さが重要な要因だが、アシュケナジー・ユダヤ系ロシア人として長年同じ地に住んでいたスラブ系ロシア人の気質を知り抜いていた彼らが、ロシアがいまだに封建社会であり、思想的に汚染されていない処女地であることに目をつけたことが一番の理由である。
クーン・ロエブ商会の頭取だったジェイコブ・シフが、革命工作員500人の追加派遣をした所以は、ロシアが思想的処女地であったことにある。
加えて、革命前後の期間に陥った深刻な飢饉が、ロシア人の心を一変させ、政府非難の声が世論になっていった。
そんな中でドイツ潜水艦が北海で無警告撃沈をはじめ、不穏なヨーロッパから帰米途中のアメリカ人を乗せた一般乗客船が撃沈される事件が起きた。
ヒットラーは、その仕業がイギリスのチャーチルの陰謀であったことを知り、アメリカの一般乗客船を決して撃沈しなかったと表明したが、怒り心頭に達したアメリカ政府は遂に、ドイツに宣戦布告をした。
そして、アメリカの参戦から2日後、ロシア革命党は革命の火蓋を切った。

参考:明治4年に1円が誕生した時には、1円=1500ミリグラムの純金に相当する貨幣だったが、明治30年には750ミリグラムになり、昭和12年には290ミリグラムになり、戦後、日本がIMFに参加してみると1円はわずか2.4ミリグラムにまで価値が落ち、明治4年の価値に比べて600分の1になり、1円=360円という為替レートが決定された。

1917年3月15日。
ロシア革命党は首都ペテルスブルグを制圧、ニコラス皇帝の退位を求め、挙げ句の果てに、皇帝は即日退位、皇帝他皇族一同をウラル山麓エカテリンブルグで惨殺し、遺骸を硫酸で消滅させるという、フランス革命におけるギロチンを遙かに凌ぐ冷酷無比な行動にでた。
1917年3月19日。
ロシア革命党の代表議員ケレンスキーを首班、ミリューコフを外相とするロシア共和臨時政府が発足。
臨時政府の当面の課題は戦争を終結することだったが、軍部は臨時政府の命令を無視し、臨時政府内でも首相ケレンスキーと外相ミリューコフの意見が対立、一気に臨時政府の求心力はなくなっていった。
ニューヨークでこのことを知ったジェイコブ・シフは、フランス軍需相アルベール・トーマスに調停を指示した。
アルベール・トーマスはさっそく露都モスクワまで赴き、二人の間を取り持ったが失敗。
彼らはケレンスキー政権に見切りをつけ、第二の革命の準備に入った。
スイスのバーゼルに待機させてあったウラジミール・レーニンに資金と革命予備軍を与え、ドイツと密約していた封印列車で、革命予備軍をモスクワまで輸送させたのである。
1917年11月7日。
ドイツの協力を得たレーニン軍は秘密裏にモスクワに入り、臨時政府を急襲、ケレンスキー政権を打倒、第二次革命は成功した。
レーニンを首班とする新革命政権はロシア社会民主労働党(ボルシェビキ)と呼ばれ、後にロシア共産党と改称、世界史上初の共産主義政府を樹立した。
ソビエト連邦の誕生である。

1871年(明治4年)。
新貨条例が公布され、新貨幣である円が誕生した。
円(えん)・銭(せん)・厘(りん)という10進法単位で、金貨が貨幣の基本になり、銀貨・銅貨が金貨を補うものとしてつくられ、特に銀貨は、太平洋周辺の国々が銀貨を使用していたことから、貿易用1円銀貨として誕生した。
当初は1円金貨と20円金貨が鋳造され、1円金貨は1500ミリグラムの純金に相当する貨幣であった。
それが1897年(明治30年)には750ミリグラムになり、1937年(昭和12年)には290ミリグラムになり、太平洋戦争に敗北後、日本がIMFに参加してみると1円はわずか2.4ミリグラムに落ちてしまった。
100年足らずの間に円の価値が600分の1になったことになる。
更に1ドル=360円というレートがアメリカによって勝手に決められながら、90億ドル以上の金外貨準備の蓄積と国際収支の黒字を背景に、1971年(昭和46年)には、スミソニアン体制の確立によって初の円の平価切り上げが、これもアメリカによって勝手に決められた。
ケネディーが始めたベトナム戦争で疲弊したアメリカの苦境を脱するために、当時の大統領ニクソンが取ったドルの金交換中止、つまり、金交換可能通貨から、単なる紙きれに過ぎない平貨に成り下げる方策に日本が応じたものであり、日本の貨幣政策とはなんら関係なく、1ドル=307円とこれも勝手に決められてしまった。
その後も切り上げが再三行われ「円高」が進行するが、円にはなんの自主性もない。
純金換算可能な貨幣、つまり、金本位制に基づく円と平価の円。
この二つの円が、日本の国際的立場を見事に表現している。
それほどに我々の円はアメリカに従属的なのである。
1871年(明治4年)に円が誕生したということは、この年に日本が資本主義経済国家の第一歩を印したということであり、まず外国の銀貨(洋銀)と江戸時代までの一分銀との交換レート設定から始まり、次に新貨条例によって「円」を新たな貨幣呼称として、10厘を1銭に、100銭を1円とする十進法に基づく1円金貨を「原貨」とすることが決められた。
慶長小判で有名な一両を基に、「両・分・朱」による四進法型の日本の貨幣システムに慣れ親しんできた当時の日本人は当初大いに戸惑ったが、日本人持ち前の熱心さで現実対応してきたのだ。
江戸時代の「三貨制度」では、江戸では金貨が、浪花では銀貨が、小取引には銅貨が用いられていた。
モノの価格表示にも、その特徴があらわれ、魚は金貨で、米・着物・塩・砂糖・薬礼などは銀貨で支払われ、野菜や豆腐は銅貨で支払われるといった具合だ。
ところが、明治維新という革命によって円が誕生した。
明治政府の本音は金本位制にあったが、銀本位制で止む無く始めることになったのは、その背景に、イギリスの強い影響力が働いていた。
日本が金本位制を選ぼうとしていた中で、1871年にはドイツが、1875年にはスカンジナビア貨幣同盟のスウェーデン、デンマーク、ノルウェーが金本位制に移行していき、フランス、ドイツも金本位制を考えていた。
他方、アメリカやイギリスといった銀の力に頼る国は、金主導に向かっている国際経済の趨勢を、なんとか銀によって抑えておく必要があり、そこで日本に銀を押しつけようとしたのである。
日本側が金本位制をもちだしたところ、イギリスが強硬に反対した記録が残っている。
時の宰相・伊藤博文が金本位制に切り替えることで、イギリスとアメリカは猛反発をした。
結果、ハルピンでの暗殺につながった。