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第二十八章 戦争という悲劇 2033年12月31日。 東京に鉄の雨が降った。 第三次世界大戦の勃発だ。 2034年1月1日。 世界有数の大都市・東京に降った鉄の雨は、東京を中心とする直径350キロメートルの地域を消滅させてしまった。 関東甲信越地域が一瞬にして消滅したことによって、日本列島は分断された。 地球温暖化の進行によって海面が1メートルも上がっていた結果、幅が300キロメートルしかない本州島は真二つに割れてしまい、クレーターとなった地域は黒潮と親潮が合流する海峡になってしまったのである。 図らずも東と西に分断された日本を虎視眈眈と狙っていた国が、この機に乗じて動き出した。 一方、極端な東京一極集中の国家運営をしていたため、国としての機能が完全に麻痺し、他の地域でも混乱状態が発生した。 先ず貨幣制度が崩壊し、紙幣、つまり、お金が兌換機能を喪失してしまったのだ。 兌換機能を失った紙幣は単なる紙切れに過ぎない。 紙幣は単なる信用券なのであり、信用とは国家の担保に基づくものであるから、国家に信用がなくなれば、紙幣は必然的に紙切れに成り下がる。 世界に国家は200以上あるが、自国の紙幣を信用している国の数は10にも満たない。 残りの国では、自国の紙幣などいつ紙切れになるかも知れないことを熟知しているから、金や銀といったいわゆる貴金属を大事にする。 金(ゴールド)さえ持っていたら、どこの国に行っても食べ物に交換することができ、生きていくことができるからだ。 貨幣制度が崩壊しただけで、日本は無法地帯と化してしまった。 国の価値は国民のレベル、つまり、民度で決定される。 政治力、つまり、軍事力で国の価値が決定されるのではない。 経済力、つまり、金力で国の価値が決定されるのでもない。 国体を成す基本は国民にあることを忘れた国が多すぎる。 民度が高い国に、仮に有事が起きても、そう簡単に混乱状態に陥ることはないが、民度の低い国はすぐに国体を失う。 超拝金主義に塗れた日本の民度は極端に落ちていたため、一気に無法地帯と化したのである。 2034年1月4日。 本州島が分断されパニック状態に陥った日本は、貨幣制度の崩壊をきっかけに将棋倒し現象が起きた。 東京一極集中の国体にしていたお釣りが一気に吹きだしたのである。 中央官庁に権力を集中しておくのが官僚支配の常套手段であるからで、政界、財界も官界に平伏して、すべてを東京に集中した。 嘗て商業の都だと言われた大阪はその煽りを受けて、ただの一地方都市に成り下がっていた。 大阪出身の大企業が挙って東京に本社を移していったからだ。 “自分さえよかったらいい!” この負け犬根性が日本を腐らせてしまった。 みんなが、“自分さえよかったらいい!”と考えるようになったらどうなるのか。 自分は一人で、他人は多勢であり、畢竟、“自分さえよかったらいい!”は、“みんなが悪かったらいい!”になってしまう。 将棋倒しのメカニズムは、この錯覚にある。 どぶネズミの暴走のメカニズムは、この錯覚にある。、 大群発生した生き物の行く着く先が集団自殺になるメカニズムは、この錯覚にある。 いちばん うしろから ついていく どぶネズミが 前のに 訊ねた 一体どこに向かって走っているのだろう 前のどぶネズミは 前が 走っているから ただ ついて行くだけ と言った だけど、気になるので その前の どぶネズミに 訊ねた 一体どこに向かって走っているのだろう その前のどぶネズミも おなじ 返事をしたが 気になった そして 前のどぶネズミに 訊ねた 一体どこに向かって走っているのだろう とうとう 一番前のどぶネズミのところまできた 一体どこに向かって走っているのだろう 先頭を走るどぶネズミは だれにも 訊ねることができない うしろからついてくるから ただ 走っているだけ と答えた その答えが 一番うしろのどぶネズミに 伝わった そりゃあー ないだろう と言った 途端 前の どぶネズミたちは 断崖から まっさかさま ただ 一匹 そのどぶネズミは 呆然と立ちつくして ああ 一番うしろでよかった 2034年1月4日。 漁船で本土に向かって出奔した八郎とリエは、奄美大島を経て、桜島を左に眺めながら瀬戸内海へ進み、兵庫県の加古川港に辿り着き、相野の清水山に向かったのだが、その途中で、加古川大橋を渡ろうとした時に驚くべき光景を見た。 加古川大橋から瀬戸内海は目と鼻の先だ。 幅の広い川となって流れ出る河口から、数え切れないほどの軍艦が上流に向かっている姿を見たのだ。 八郎とリエの視界からは艦旗を確認することはできなかったが、清水寺に辿り着いた時に思い知らされたのである。 六芒星の水色の紋が中央に位置し、同じく水色の上下のタリットと呼ばれる帯がある旗だ。 タリットとはシナゴーグでの礼拝の際に、男性が肩に掛ける帯のことだ。 数隻の軍艦は既に加古川大橋の桟橋に寄せ、緑色の軍服を着たおびただしい数の兵士が上陸していた。 大橋を渡った二人が国道旧2号線を横切ろうとしたその先で、加古川駅前の広場に集まるために行進していた数千人の群集と遭遇した。 彼らの表情は人間ではなく、まるでロボットのようだ。 数千人の行列なのに実に整然としている。 まさに沈黙の行進だ。 だが、彼らが手にしているものに気づいたリエは驚愕した。 「生首を下げているわ!」 しかも行進をしている全員の手に生首が下がっている。 全員が右手に生首を下げながら興奮している様子もなく淡々と行進を続けているその姿は、まるで地獄の黙示録のカービー大佐だ。 「地獄の黙示録」とは“Apocalypse Now”と言う。 新約聖書最後の章であり、未来予言の書でもある「ヨハネの黙示録」が“Apocalypse”だ。 「地獄」が“Now”なのである。 つまり、「地獄」の世界が常に「現在」なのである。 リエにとっては、まさに「現在」が「地獄」の経験をはじめてしたのだ。 そんな様子を見た八郎は、リエのことを身近に感じていたことにまだ気づいていなかった。 “愛は地球を救う!” 何処かの偽善者が使う言葉だ。 老子の教えの基本は愛だが、そんな生臭い愛ではない。 老子は言う。 “三つの宝がある。 一つ目は、愛だ。 二つ目は、求め過ぎないことだ。 三つ目は、絶対に一番にはならないことだ。” 愛を説くイエス・キリストも言う。 “この世の中で一番になる者は、神の国では最後になり、そして、逆も真理だ” 人を本当に愛した者は、愛した相手が常に一番で、自分は後回し、つまり、最後にする。 それが真の愛だ。 家族を本当に愛した者は、愛した家族が常に一番で、自分は後回し、つまり、最後にする。 それが真の愛だ。 社会を本当に愛した者は、愛した社会が常に一番で、自分は後回し、つまり、最後にする。 それが真の愛だ。 国家を本当に愛した者は、愛した国家が常に一番で、自分は後回し、つまり、最後にする。 それが真の愛だ。 人類を本当に愛した者は、愛した人類が常に一番で、自分は後回し、つまり、最後にする。 それが真の愛だ。 地球を本当に愛した者は、愛した地球が常に一番で、自分は後回し、つまり、最後にする。 それが真の愛だ。 “自分さえよかったらいい!”は必ず、“みんなが悪かったらいい!”になってしまう。 おどろおどろしい地獄の世界が展開する。 おどろおどろしい光景が目の前に拡がると人間は極致に達する。 人間には二つのタイプしかない。 唯物的と唯心的。 犬嫌いと犬好き。 女好きと男好き。 ・・・・・・・。 現在に展開するのがいつも地獄であるのは、一方の極と他方の極を往復するしかない人間の業の所為なのだ。 生首を手に下げて行進する連中を見ても平気でいた八郎を、リエは最初は訝しがったが、自分の精神状態の変化が目覚めさせてくれたのである。 愛は想いもしないことから生まれる。 地獄を見たことのある者しか天国はわからない。 地獄を見たことのある者しか真の愛はわからない。 憎しみを持った者しか真の愛はわからない。 男と女の境界を超えた者しか男と女の真の愛はわからない。 ふたりは幻想の世界に入りかけていた。 鶴林寺は播州の法隆寺だが、同じ地に播州の鹿苑寺があることを誰も知らない。 おどろおどろしい光景を背中で観ながら三木山麓に向かっていたふたりの前に播州の鹿苑寺が忽然と現れたのだ。 沖縄から一歩も出たことのないリエは、その荘厳な姿が何を意味しているのかわかるべくもない。 600年の時を超えた魂の叫びを胸で聞く八郎は、そのおどろおどろしい光景が何を意味しているのか十分わかっている。 八郎はリエの腕を引っ張って急に走り出した。 リエは何も言わずに追従いていく。 まさに地獄の黙示録だ。 “Apocalypse Now”だ。 血肉の情か、こころの情か。 人間は祖先を神と崇める。 祖先とは血肉、つまり、肉体の祖先だ。 肉体の祖先というなら、人間の祖先は間違いなく地球の筈であるのに、両親の更に両親の更に両親といった具合を祖先と崇め、地球を究極の祖先と崇めない。 だから、人間社会だけに不条理・差別が蔓延り戦争が起こる。 地球を究極の祖先だと自覚している他の生き物の自然社会には、不条理・差別は一切ない、況してや、無益な殺し合いをする戦争など無縁だ。 世界の平和と嘯き、無益な殺し合いの戦争を繰り返す人間とは一体如何なる生き物なのか。 脳科学者などと傲慢極まりない人間が登場し、わかったようなことを言い、それをまた多くの阿呆な人間がもて映やす。 脳は背骨の成長したものだ。 背骨の成長は地球の重力(引力)に反対する斥力が齎す。 四本足動物から二本足動物に変身した人類こそ、科学の源泉である知性を生んだ正体だが、四本足から二本足に変身することは地球から見れば裏切り行為に過ぎない。 地球の表面に存在するものはすべて地球の重力(引力)を生命源としている。 草木の幹が天に向かって成長するのは、地中に向かって成長する根あっての物種である。 人間の脳(背骨)の成長は、地球に向かって成長する根あっての物種であるのに、人間にとっての根の存在を自覚せず、脳を知性で科学すると言うのは傲慢極まりない。 脳など草木の幹の先端にある枝葉に過ぎないし、花実に過ぎない。 アメリカや日本という国は外向きの性格を持つ。 中国やイギリスという国は中庸の性格を持つ。 インドは内向きの性格を持つ。 アメリカが戦争を好むのは外向きの性格の所為であり、嘗て世界で唯一の平和憲法の下の国家と言われた日本も戦争を好む外向きの性格を有する。 外向きの性格の国民は知性を源泉とする科学を万能視する結果、脳科学者といった馬鹿げた人種が登場する。 そもそも血肉の情とは、こころの情あっての物種であり、血肉の情が脳つまり知性による情であるのに対し、こころの情とは根の情であり、地球を祖先と思える心のことである。 リエは心身ともに確かに女だったが、今その殻を破ろうとしている。 八郎は心身ともに男女であり続ける。 情、つまり、愛情とは心身ともに男女の者しか持ち得ない。 血肉の情を愛情と勘違いしている人間は真の愛情が奈辺にあるのかまったく自覚できない。 男の気持ちは女にはわからないし、女の気持ちは男にはわからない。 では、男に憧れ、女を忌み嫌う男性社会を維持するのは何故だろうか。 “死んだ者は生きたことと死んだことの両方を経験しているから、生きている者の気持ちも死んだ者の気持ちも両方わかっているし、生・死問題という一枚のコインの本質もわかっている。” 人間はこの考え方を支持しているから死を忌み嫌っているのだが、実はそうではない。 そうであるなら、“女は男と女の両方を経験しているから、女の気持ちも男の気持ちも両方わかっているし、男・女問題という一枚のコインの本質もわかっている”という考え方が、女を忌み嫌う原因であり、実はそうではないことになる。 結局の処、 男の気持ちは女にはわからないし、女の気持ちは男にはわからない。 男・女問題という一枚のコインの本質が見事に観えてくる。 生まれた時から死ぬまで、男は男であり続け、女は女であり続けた場合に限って、男の気持ちは女にはわからないし、女の気持ちは男にはわからないのである。 男・女問題という一枚のコインの本質は、男は生まれた時から死ぬまで男であり、女も生まれた時から死ぬまで女であるという点にある。 では、男は生まれた時から死ぬまで無条件に男でいられるだろうか。 自然と一体感で生きている他の生き物の世界はメス(女)社会である。 自然と一体感で生きていない人間の世界だけがオス(男)社会である。 結局の処、メス(女)社会とは自然との一体感であることに他ならず、オス(男)社会とは自然との一体感を失う、つまり、部分観であることに他ならない。 自然とは地球のことだ。 真の親である地球との一体感とは、真の親である地球の想いである重力を感じることだ。 真の親である地球との一体感を失って、真の親である地球の想いである重力を感じることが出来なくなった人間だけが、生まれてから死ぬまでオス(男)社会を続け、挙句の果てに、臆病な男(オス)の死に至るから、死を怖れるのだ。 オス(男)にとって死は自己の消滅であり、メス(女)にとって死は自己の引継ぎに過ぎない。 オス(男)社会が支配・被支配二層構造と世襲・相続の差別社会をつくった理由がここにある。 支配・被支配二層構造と世襲・相続の差別社会に生きている人間は、オス(男)によって自己の存在証明が可能だと信じている。 この考え方は実は幻想に過ぎない。 男・女問題という一枚のコインの本質は、真の親である地球の重力を感じることで地球との一体感を持つ他の生き物は生まれた時から死ぬまでメス(女)社会であり、真の親である地球の重力を感じることが出来ない部分観を持つ人間だけが生まれた時から死ぬまでオス(男)社会であるという点にある。 メス(女)社会の他の生き物の気持ちはオス(男)の人間にはわからないし、オス(男)社会の人間の気持ちはメス(女)社会の他の生き物にはわからない。 だから、他の生き物は死を知らないのに、人間だけが死を知り、死を怖れて生きている。 生まれてから死ぬまでメス(女)社会なら、死の概念はない。 生まれてから死ぬまでオス(男)社会だから、死の概念を持つ。 死の概念を持ち、死を怖れて生きている人間だけが、生まれてから死ぬまでオス(男)社会を続けるから自己の消滅の死を怖れる。 結局の処、男・女問題という一枚のコインは、生・死問題という一枚のコインが変形しただけに過ぎない。 死の問題を解決しない限り、男・女問題など絵に描いた餅に過ぎない。 極限状態は人を変える。 人が変わるのは極限状態になった時だけだ。 水が摂氏0℃以下になると氷に変わるのは摂氏0℃が凝固点という極限状態だからだ。 水が摂氏100℃以上になると水蒸気に変わるのは摂氏100℃が沸点という極限状態だからだ。 水が摂氏0℃から摂氏100℃の間は液体としての水に変わりはない。 では液体としての水には変わりはないのかと言うとそうではない。 風呂に入る水は摂氏38℃がよい。 プールに入る水は摂氏24℃がよい。 料理に使う水は摂氏80℃がよい。 といった具合だ。 人生も水の変化と同じで、大抵の場合が摂氏0℃から摂氏100℃の間の液体として水だが、時には凝固点という極限状態に入ったり、時には沸点という極限状態に入る。 人生とは誕生ではじまり、死で終わり、その間に生がある。 気体としての水蒸気が、液体としての水に変身する凝結点という極限状態が誕生だ。 液体としての水が、固体としての氷に変身する凝固点という極限状態が死だ。 液体としての水が摂氏100℃から摂氏0℃まで徐々に冷却していくのが生だ。 更に昇華という極限状態がある。 氷が一気に水蒸気になったり、水蒸気が一気に氷になったりする極限状態を昇華と言う。 人が死んで天国に行くことを昇天すると言うのは、昇華現象に他ならないが、昇華現象は誰もが達するわけにはいかない、畢竟、特殊現象に他ならない。 氷が一気に水蒸気になるにはドライアイスにならなければならない。 水蒸気が一気に氷になるには雪にならなければならない。 ドライアイスや雪は結晶化した水のことだ。 人間も昇天したければ結晶化しなければならない。 それが悟りということだ。 悟るには特殊な極限状態が必要十分条件なのである。 リエは特殊な極限状態に入っていく。 八郎も特殊な極限状態に入っていく。 昇華には二つのベクトルがある。 リエは一方のベクトルであり、八郎は他方のベクトルであり、目指すは一つの昇華点だ。 鶴林寺は実在だ。 法隆寺は映像だ。 龍野の斑鳩寺は実在だ。 奈良の斑鳩寺は映像だ。 実在が動くと映像になる。 実在と映像の関係は静止と運動の関係だ。 宇宙にも実在宇宙と映像宇宙があり、実在宇宙は静止宇宙であり、映像宇宙は運動宇宙である。 実在と映像の関係を映画で譬えて観れば、映画(静止画)フィルムが実在で、スクリーンに映っている動画面(アニメーション)が映像である。 映画の目的は何だ? 観客に映画を観せることだ。 だから映画館には必ず観客席がある。 映画をつくる目的は観客に映像を観せることだ。 宇宙にも実在宇宙と映像宇宙があるなら観客宇宙もある筈だ。 しかも観客は独りだ。 独りの観客は鑑賞者と言う。 畢竟、宇宙には、実在宇宙と映像宇宙と鑑賞者宇宙の三つの宇宙があり、宇宙の存在意義は鑑賞者宇宙にある。 映画(静止画)フィルムも動画面(アニメーション)も鑑賞者あっての物種である。 実在宇宙も映像宇宙も鑑賞者宇宙あっての物種である。 鶴林寺は実在だ。 法隆寺は映像だ。 龍野の斑鳩寺は実在だ。 奈良の斑鳩寺は映像だ。 京都の鹿苑寺は鑑賞者だ。 播州の鹿苑寺は鑑賞者だ。 リエは一方のベクトルであり、八郎は他方のベクトルであり、目指す一つの昇華点こそが鑑賞者の鹿苑寺だ。 悲劇は劇だ。 つまり映像だ。 喜劇も劇だ。 つまり映像だ。 最大の悲劇である戦争も所詮は劇であり、映像である。 映像であるから、所詮は劇であり、最大の喜劇でもあるのが戦争だ。 2033年12月31日。 東京に鉄の雨が降ったのがきっかけで第三次世界大戦が始まった。 本州島が真二つに分断され、東京一極集中のお釣りが一気に吹きだし、日本全体がパニックに陥り、“自分さえよかったらいい!”という人間同士が衝突を繰り返し、日本は完全に内戦状態になってしまった。 中国でも同じ状態が更に大きな規模で起こっていた。 アメリカでは同じ状態が更に更に大きな規模で起こっていた。 見えない敵は己の心の中に潜んでいたのだ。 嘗て、アメリカがベトナム戦争で傷ついた。 嘗て、ソ連がアフガン戦争で傷つき、挙句の果てに、ソ連という国家は崩壊、消滅した。 アメリカと戦って勝った国など何処にもない。 そんなアメリカが怖れたソ連。 強大国アメリカ・ソ連が弱小国ベトナム・アフガニスタンに陵辱されたのは、己の心の中に潜んでいる見えない敵に気づいていなかったからだ。 国内で内紛が起こり内戦にまで拡大発展するのは、外敵の所為ではなく内敵が原因である。 軍事力という政治力も、金力という経済力も、所詮は外敵に対峙する手段に過ぎない。 最大の敵は己の心の中に潜む内敵なのだ。 第三次世界大戦の結末は以外なものだった。 お互いに敵と見做していた外敵は悉く自滅崩壊するという結果になったのである。 1922年(大正11年)。 アインシュタインのメッセージの真の意味は、第三次世界大戦を予見していたのだ。 “世界の未来は進むだけ進み 其の間、幾度か争いは繰り返されて 最後の戦いに疲れる時がくる。 其の時、人類はまことの平和を求めて、 世界的な盟主を崇めねばならない。 この世界の盟主たるものは 武力や金力ではなく あらゆる国の歴史を抜き越えた 最も古く、また、 最も尊い家柄でなくてはならない 世界の文化はアジアに始まって、 アジアに帰る。 それはアジアの高峰、 日本に立ち戻らねばならない。 われわれは神に感謝する。 われわれに 日本という 尊い国をつくっておいてくれたことを・・・” |