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第三十章 現実の中 西暦30年4月13日。 水平世界と垂直世界が交差した日だ。 イエス・キリストが十字架に架けられた月日は過ぎ越しの祭りの翌々日である4月13日の金曜日だから、西暦30年4月13日の金曜日の筈だ。 イエス・キリストが聖母マリアから生まれたのが西暦0年12月24日だから、彼が死んだのは満29才ということになる。 西暦紀元が生まれたのは、イエス・キリストの死から500年経った頃(西暦525年)に、ローマの修道士ディオニシウス・エクシグウスが考案したものであり、イエスの蘇りを祝う復活祭の日程を特定するためだった。 キリスト教で一番神聖な祝日が復活祭であり、その日は春分の日の後の最初の満月の日曜日とされ、532年周期で一巡する。 イエス・キリストが復活したのは太陽暦(西暦)の3月25日とされており、3月25日が春分の日の後の最初の満月の日曜日に当たる年を探し、その532年前を復活の日と決めたのだ。 イエス・キリストは数え歳30才で死んだとされていたので、その30年前を西暦元年と定めたわけだ。 西暦2050年4月13日。 2020年の年月を経て、人類が十字架に架けられた日だ。 二十一世紀なんてキリスト教が勝手に決めた西暦の中の時代だ。 キリスト教と兄弟のイスラム教の暦では、今(2050年)は1471年、つまり、十五世紀だ。 イスラム教の始祖であるムアンマドが生まれた地・メッカからイスラム教を開いた地・メディナに移った西暦622年7月16日が、イスラム暦元年元日である。 同じイスラム教の世界でも、イスラム暦が太陰暦であるのに対し、イラン(ペルシャ)暦は、西暦とイスラム暦を混ぜ合わせたヒジュラ(西暦622年)太陽暦だ。 日本でも紀元節を基にした暦があって、西暦紀元前660年2月11日が元年元日であり、今(2050年)は2710年である。 何世紀の幕開けでもよい。 人類の新しい夜明けが始まればいいのだ。 意識の中で先ず、人類の新しい夜明けが始まった。 意識の中では、時間の介入する余地はない。 ガリレオやコペルニクスの世界も、八郎やリエの世界も同じ空間である。 ボッチェリやダ・ヴィンチの世界も、八郎やリエの世界も同じ空間である。 現実の中では、時間が横暴にも介入してくる。 ボッチェリの「カスケード」と、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」は、意識の中 から現実の中へ飛翔して、八郎とリエの世界に舞い下りてきた。 過去一万年に及ぶ人間の歴史は男性社会を続けてきたが、宇宙137億年の歴史は女性社会を継続中であり、太陽系の50億年の歴史も女性社会を継続中であり、地球46億年の歴史も女性社会を継続中であり、生命体36億年の歴史も女性社会を継続中であり、有機生命体の8億年の歴史も女性社会を継続中であり、哺乳動物3400万年の歴史も女性社会を継続中であり、人類の500万年の歴史も女性社会を継続中であり、人間の祖先であるホモサピエンス3万年の歴史も女性社会を継続中であり続けた。 人間1万年の男性社会の歴史など、矢じりの先端に過ぎない。 三本の矢、そして、矢を射る弓はすべて女性の手で創られる。 爾来、弓道が女性に魅入られるのは根拠があるのだ。 歴史の矢じりが今大きく変わろうとしている。 その為には、意識の世界と現実の世界が一つになる必要がある。 意識の世界の矢。 現実の世界の矢。 時間の矢。 歴史の三本の矢のことだ。 時間には三本の矢があると物理学者は主張する。 熱力学的な時間の矢が一本目の時間の矢だ。 エネルギーは使用可能なエネルギーから使用不能なエネルギー(エントロピー)に流れる矢が一本目の時間の矢だ。 秩序の世界から無秩序の世界へと移行していくと言ってもいいだろう。 心理的な時間の矢が二本目の時間の矢だ。 時間は過去から未来への流れるため、過去を記憶しても、未来を記憶することができない時間の矢が二本目の時間の矢だ。 宇宙論的な時間の矢が三本目の時間の矢だ。 宇宙は収縮するのではなく限りなく膨張する時間の矢が三本目の時間の矢だ。 ガリレオやコペルニクス、そして、ボッチェリやダ・ヴィンチは歴史の三本の矢を主張する。 それを受けとめたのが八郎とリエなのである。 八郎はダ・ヴィンチの歴史の三本の矢を受けとめた。 リエはボッチェリの歴史の三本の矢を受けとめた。 先ずはダ・ヴィンチの歴史の三本の矢を受けとめた八郎の話から、現実の中へ入って行こう。 八郎が加古川で上陸し、鬼神四郎の郷里である三田・相野にある西国二十五番札所・御岳山清水寺に辿り着いた時、時刻というナイフが時空の世界というケーキをカットし、まるで走馬灯のように、一瞬が16年の歳月を消化して、ユダヤ教のシナゴーグに変わっていた矢先のことであった。 京都・太秦の広隆寺境内にあった『いさらいの井戸』がやはり時空を超えて『おかげの井戸』に取って替わっていた。 推古天皇11年(西暦603年) 推古天皇の摂政であった聖徳太子が、帰化人だった太子第一の家来・秦川勝に弥勒菩薩半跏像を下賜して広隆寺創建を命じ、『いさらいの井戸』もその時に掘られた。 弥勒菩薩半跏像は聖徳太子自らの手で彫られたもので、弥勒とは救世主メシアのことだ。 太子にはもう一人重臣がいた。 その名は司馬達等。 司馬達等は朝鮮半島からの渡来人であり、彼には娘が一人いた。 その名は嶋。 敏達天皇13年(西暦584年)播州加古川で高麗からの渡来僧で還俗していた恵便に、嶋を弟子として出家させ、その名も善信尼とした。 善信尼こそ弥勒菩薩半跏像のモデルだ。 聖徳太子の二人の重臣の一人、帰化人・秦川勝の足跡は「記紀」に詳細に述べられているが、もう一人の司馬達等の足跡は謎に包まれている。 司馬達等とその娘・善信尼。 聖徳太子と弥勒菩薩半跏像のモデル・善信尼。 聖徳太子は実は司馬達等その人であり、善信尼は娘だったのである。 救世主メシアには娘がいた。 救世主メシアは古代インド語でマイトレーヤと言う。 救世主メシアは古代ギリシャ語でキリストと言う。 聖徳太子とはイエス・キリストのことであり、その娘・善信尼は日本の国の仏教の開祖である。 古から日本では仏教とはキリスト教のことであり、イエス・キリストが聖徳太子に取って替わられただけのことである。 『いさらいの井戸』 砂漠を遊牧するベドウィンにとって井戸水はまさに命水だ。 『一賜楽業』、つまり、『イスラエ(Ezurae)』は海の向こうからやって来た人、司馬達等こと聖徳太子だった。 八郎は高野山を思い出した。 高野の山を駆け抜けた日々。 それは田島八郎ではなく鬼神四郎であった。 鬼神四郎の記憶がその娘・冬子に投影され、冬子の記憶の中で島田一郎との記憶と合成され、田島八郎という月の「想い」が顕現したのである。 夫々、婦々が高野の山を駆け抜けた日々。 2001年6月。 毎朝、ランニングで奥院まで往復する。 奥院では、歴史上の英雄たちが祀られている墓の前に立って物思いにふける。 そういった経験を16才の頃にしたことで、四郎は知らず知らずのうちに、墓の主人たちと交信できるようになっていた。 それが今まさに実現したのだ。 『やはり、あの体験が、今ここに立っている自分を既に予見していたのだ』 四郎はそう思うと、奥院に無性に行ってみたくなった。 歩いて1時間近くかかる高野町のメイン通りの両側には、昔そのままの宿坊の看板が立っていた。 大門と正反対の位置に奥院があって、最初の入り口のところに鳥居が立っている。 鳥居があることなど不思議に思わなかったが、今、その前に立ってみると、真言宗という仏教の本山なのに、神社の鳥居があるというのも奇妙な話だと思った。 鳥居をくぐると小さな橋があり、そこを渡ると、歴史上の英雄たちの墓地がある。 四郎が行ったのは明智光秀と織田信長の墓だった。 明智光秀の墓は貧弱な墓で、墓石にひび割れが入っている。 いくら替えても必ずひびが入ると昔から伝えられていた。 『本当に小さな墓だな』と思いながら織田信長の墓に行くと、大きなスペースを取った堂々たる墓地だ。 結局、ふたりとも非業の死を遂げたのだが、ふたりの後代の評価の違いが墓の大きさに如実に表れていた。 だが四郎は光秀の墓に何か惹かれるのだった。 『この墓だけは、主人の叫びが聞こえてくる。他の墓はいくら立派でも、そこには、墓の主人はいない』と感じるのだった。 この墓が、これからの四郎の血の滲むような修行で、心の支えになってくれるとは四郎自身考えも及ばなかった。 高野の山を切り開いた空海の「想い」が奥院には充満している。 中でも一際強烈な「想い」を発しているのが景教の石碑だ。 司馬達等こと聖徳太子の「想い」が秦川勝に引き継がれ、更に佐伯善通こと空海に引き継がれた「想い」の粋が、この石碑にこめられている。 奥院が町の一番はずれにあり、そこを過ぎるともうただの山道だ。 その山道が、もう一方の高野口駅へ繋がっており、普通、観光バスやタクシーが高野口駅から高野山へ上るルートになっている。 一方、大門側のルートは山の麓にある橋本の町から車で上がってくるルートになっているのだ。 高野口駅からの道路をはずれると、ほとんど人が入らない未踏の地だ。 四郎もはじめての場所で、どうなっているのかまったく分からない。 しかし、そこが四郎のこれから修行する場所だと最初から考えていた。 独り生活するための必要なものを積んでくるために、四郎は今まで乗っていた乗用車を売って、四輪駆動のジープの中古を買った。 それなら少々の山道も大丈夫だからだ。 『さあ、いよいよ獣の生活が始まるんだ!』 自分に言い聞かせて、山奥に入って行った。 地道だが、車が走れるだけの幅がある道を、行けるところまで行ってみた。 15分ほど走ると、高野山の山頂へ通じる道だったが、途中で広い場所に出た。 その場所から山頂が見えるのだが、ちょうど山頂との中間ぐらいのところに大きな岩がある、ひょっとしたら洞窟になっているかもしれないと思った四郎は、ジープを停めて、そこから歩いて行った。 歩いて30分ぐらいかかったところに、巨大な岩があって、思った通り、洞窟になっていた。 中に入ってみると、野生の動物が出入りしている気配があったが、この場所をこれからの寝床にしようと四郎は決めた。 まわりを見渡すと、初めて気がついたのだが高野の峰が一望出来、眼下には橋本の町が見える最高の場所だった。 『ここなら、人に見つかる心配はない』と四郎は思った。 彼の修行のメニューは、昼間は山の中を走りながら合気道と棒術、そしてスナイパーライフルのレミントンM700と、口径マグナム357の銃S&W・M586の練習で、夜は午前1時まで医学・薬学・化学・心理学の知識の習得に割くメニューである。 朝は4時に起きて、野生の猪や熊を相手に、素手で戦い、噛み殺して食べ物にするため、顎の強化と、ナイフの扱いを修得するという異常なメニューもある。 まさに完璧な大量殺人マシーンを目指すためである。 これだけのものを、独自でマスターするのは不可能だが、それを国常立命(クニトコタチノミコト)が指導してくれるという。 国常立命(クニトコタチノミコト)は、朝4時に起きたときに、まず四郎に囁きかけ、1時間の瞑想の間に、四郎の使命を細かく指示をする。 お仕置きをする人間の種類と、その仕方まで指示する。 それを体で憶えなければならない。 合気道や棒術の修行のときも、国常立命(クニトコタチノミコト)が相手してくれるし、夜の知識習得の先生役も国常立命(クニトコタチノミコト)がしてくれる。 これほどの強い味方がいれば、独りで十分だと四郎は思った。 完全にマンツーマンの修行だ。 しかも相手は宇宙創造の神とくれば怖いものなどまったくない。 しかし、いざ修行に入ると、想像を絶する苦行で、更に精神的プレッシャーが強烈だから、普通の精神力の持主ではすぐに気が狂ってしまう。 そのプレッシャーに耐えられるだけでも常人ではない。 その耐え難い苦痛が襲ってくると、奥院にある光秀の墓の前に立つと、不思議に楽になるのだった。 そして修行は1年半続いた。 普通のペースの修行なら10年以上の中身だ。 みるみるうちに四郎の顔つきが変わっていき、目は遠くを常に見ており、その目で見られると、すべて見透かされてしまうようで、1年半で完全に殺人マシーンに変貌していた。 しかしその表情は修行前よりもずっと穏やかで、暖かい雰囲気をかもし出し、およそ殺人マシーンとはほど遠いもので、一種の悟りを開いた人間のようであった。 それは、自分を見守ってくれている神への絶対的信頼が、この苦しい1年半の修行を通じて生まれたからだろう。 そして真冬の朝4時、瞑想のときに国常立命(クニトコタチノミコト)から、今日で修行を終え下山する許しが出た。 『よくぞ、ここまでがんばった。誉めてつかわす。そなたの役割は決して楽なものではない。人から喜ばれるものでもない、恨まれたり、憎まれたりすることの方が多いであろう。だが真に世の中の為になることをする者は、概してそんな役割になるものである。人の言葉に惑わされてはならぬ。わしの言葉だけを聞いておれば間違いはない。よいな!』 四郎は、1年半前の自分を完全に忘れてしまって別人として生まれ変わったのだ。 いよいよ四郎が、与えられた使命を果たす行動の開始の時が刻一刻と迫ってきた。 1年半ぶりに四郎が高野の山を車で下りたとき、まわりは雪景色であった。 八郎は兵庫県三田の清水山に立つ。 四郎は和歌山県橋本の高野山に立っていた。 高野山の頂上から、四国の剣山が見えるスポットが1ヶ所だけある。 四郎が20年近く前に修行した洞窟のある場所だ。 空海は四国の讃岐で生まれ、俗姓は佐伯氏で、やはり秦一族の支族である。 当時、四国では、剣山が四国一の高峰と言われていた。 その後、石槌山がその地位を取って替わり、石槌大権現と崇められるようになったが、元々は役(えん)の行者が修行するのは石立山すなわち剣山であった。 空海も四国の一番重要スポットが剣山であることを知って、剣山を一望出来る場所を探し、高野山を発見したのである。 剣山という山は、その傍に行くまで、全貌を現わさない不思議な山で、麓の貞光町からも、池田町からも、まったく見えない。 1ヶ所だけその姿を見せる場所があり、空海はその場所を知っていた。 そしてその延長線を辿って和歌山の峰の中から高野山を探り当てた。 それほどに、剣山は一般から隠匿する必要性があったのだ。 そのことを、空海から教えてもらった四郎は、イエスの魂が二千年間、世界を彷徨っていることを知った。 『歴史の真実というものは、ほとんど歪められてしまっている。イエスという人は、愛を説き、弱々しい、か細い体躯のイメージが固定化されている。しかし、実際のイエスは、勧善懲悪を地でいくような行動をした正義の勇者だった。そう言えば、織田信長のイメージも教科書で掲載されている自画像は、神経質で、いかにもヒステリックだが、その後、ポルトガル人宣教師が書いた信長の似顔絵は、まったく違ったもので、明らかに、こちらの似顔絵の方に信頼性がある。京都の大徳寺の総見院に、信長の墓と、大きな木像があるが、その容姿はまさに宣教師の書いた似顔絵そのものだ。結局、世界は一握りの支配者の都合のいいように、意図的に操作されている。それは過去も現在も、そして、このままでは未来永劫続く。気の遠くなるような話しだが、この嘘の上塗りの人間社会を、真実の人間社会に変えなければならない』 「さあ、これから、2千年ぶりにイエスの真の教えの復活だ」 イエスの教えが景教となり、聖徳太子から空海が継承して、そしてデビルと冬子に、イエスの叫びが2千年の時間を超えて伝わったのである。 八郎も兵庫県三田の清水山に立って同じ想いでいた。 八郎が兵庫県三田の清水山に立つことによって、歴史と時間のトライアングルが完成した。 兵庫県三田の清水山。 和歌山県橋本の高野山。 徳島県貞光の剣山。 まさに正三角形のトライアングルだ。 歴史とは時間ではなく空間であることを人類は理解していない。 記憶とは時間ではなく空間であることを人間は理解していない。 時間は所詮空間の名札に過ぎない。 名札を書き変えれば空間も書き変えられるのである。 人生は現実ではなく、映像である証明だ。 人生はリアリティーではなく、イメージである証明だ。 人生は現実ではなく、夢である証明だ。 眠りから覚めたら夢だったことに気がつくが、眠っている間は夢でなく現実だと思っている人生を送っていることに気づかない人間は人類の亜種だ。 人間が人類の亜種なら、人類は霊長類の亜種である筈だ。 人類が霊長類の亜種なら、霊長類は猿類の亜種である筈だ。 霊長類が猿類の亜種なら、猿類は全哺乳類の亜種である筈だ。 猿類が全哺乳類の亜種なら、全哺乳類は爬虫類の亜種である筈だ。 全哺乳類が爬虫類の亜種なら、爬虫類は両生類の亜種である筈だ。 爬虫類が両生類の亜種なら、両生類は魚類の亜種である筈だ。 両生類が魚類の亜種なら、魚類は原生動物の亜種である筈だ。 畢竟、人間は原生動物、つまり、アメーバーの亜種に他ならない。 荒唐無稽な夢を観る所以は、人間は原生動物、つまり、アメーバーの亜種に他ならないからだ。 荒唐無稽な現実を演ずる所以は、人間は原生動物、つまり、アメーバーの亜種に他ならないからだ。 差別・不条理・戦争の横行する人間社会とは、人間は原生動物、つまり、アメーバーの亜種に他ならないからだ。 歴史と時間のトライアングルが完成していない所以である。 旧約聖書に書かれてある内容は、ほとんどが戒めである。 イスラム教の聖典であるコーランの内容も、ほとんどが戒めである。 当時の中東・西洋世界で興った宗教と、東洋世界で興った宗教の根本的違いは、開祖の環境の違いであった。 そういう面では、現代の様相とはまったく正反対で、東洋世界で興った宗教は物質的な豊かさを享受した人間が興したものであったが故、精神的な充足感を求めた。 釈迦によって興った仏教では、教えは戒めと言ったものではなく、まさに宇宙観であり、現代のミクロ世界を探求する素粒子量子力学そのものであったと言える。 科学を知らずして、直感で知った釈迦の知性の高さは驚異的なものがあるが、毎日の糧を得るのに汲々としている人たちには、まったく何の役にも立たない教えであった。 その背景にはインドで最も古いジャイナ教がある。 マハビーラという釈迦と同じ階層にいた人間が開いたものだが、当時、既にカースト制度があり、宗教の世界は階層の一番高いバラモン世界の為のものであった。 あれだけの人口がありながらインドで仏教が広がらなかったのは、ここに原因がある。 釈迦の宇宙観を中国で広めたのが禅のはじまりで、開花したのが日本である点は注目に値する。 キリスト教の致命的な欠陥は開祖イエスの教えが、一番大事なところで欠落しているところにある。 キリスト教とイエスとは無縁のものである。 イエスの教えがそのままキリスト教の教えとして広められたら、現在のような世界的規模のキリスト教の繁栄はなかったであろう、またローマ帝国も、ヨーロッパ帝国主義諸国も、今の欧米諸国もキリスト教国にならなかった筈だ。 現に、彼らが信仰しているのはタルムードユダヤ教が実態だ。 彼らはイスラエルを支援し、白人ユダヤ教徒たちが実質の米英の支配者になっている。 イスラエルの指導者と米英の支配者は一枚岩なのだ。 このことを世界が認識すれば、今までの世界大戦も中東戦争も湾岸戦争も、そしてエンパイアステートビル爆破報復戦争も、その背景が見えてくる。 特に、アメリカが英国に取って代わって世界のリーダーになったあたりから、陰の支配者も英国からアメリカに移って行った。 石油がその最大の武器になったからであり、その後彼らユダヤ教世界の中でも支配者の権力争いが起こっていたが、20世紀後半から、アメリカの白人ユダヤ教徒が、アメリカ政府をコントロールするようになり、巨大な力を持つようになり、英国は、アメリカにただ従うだけのものになったのである。 アメリカの白人ユダヤ教徒が、アメリカ政府をコントロールするようになり、巨大な力を持つようになったのは、肝心の一般大衆が、現実認識力と状況判断の洞察力をまったく持っていなかったからだ。 やはり、最大の元凶は一般大衆の質の低さにあるのだ。 教育の重要さをアメリカという国は理解していなかった。 伝統の無さ故だ。 人間社会の最初はゲマインシャフト(共同社会)だったのが、文明、特に物質文明が発展していく中で自然にゲゼルシャフト(利益社会)へと変貌していった。 二十一世紀はこの二つの社会形態(ソシアルゲシュタルト)を抜き超えた時代と言ってもいいだろう。 新しいソシアルゲシュタルトをハーモニカルゲシュタルトと呼び、そのような社会をバランスシャフト(均整社会)と言う。 均整社会、要はバランスの良い社会のことだ。 今までの世界は、ことあるごとに偏った行動をしてきた。 右か左か。白か黒か。 地球を含めて、宇宙は何ひとつ固定したものはない故、バランスを取ることが当たり前なのだ。 人間社会もそれに合わせてバランスのよい社会にするべき時が来た。 動物というものは、本能に任せておくと、二つの行動パターンを持っていて、必ずどちらかの行動をする。 一つは、他のすべての動物と同じ行動をする。 この行動をする上でのルールが自然の掟であり、自分だけで生きていく動物はこのタイプだ。 もう一つは、動物固有の行動パターンを持っていて、行動ルールはその動物の世界だけの掟だ。 群れをなす動物がこのタイプだ。 ライオンと虎は一見同じネコ科の最大の猛獣だが、その行動パターンはまったく違う。 ライオンの社会にはボスがいる。 虎の社会は、相手は飽くまで自然であるからボスなど必要ない。 人間はライオンの行動パターンを取る動物の一種だ。 そこにはライオンの社会の掟があるように、人間の社会にも掟がいる。 ライオン社会の掟はボスが変わっても掟は変わらない。 人間社会ではボスが変わると掟が変わる。 戒めとは、人間社会のボスがいくら替わっても不変の掟のことである。 イエスは、この戒めを守ることを民衆に教えようとした。 しかし、民衆はその時々の支配者が決めた掟に従った。 それはモーゼが神から与えられた戒めではなかった。 一般大衆の質はここで決定される。 『強さが善ゆえ、強い者は弱い者を支配するが、弱いものいじめはしない。 逆に弱い者に情けをかけるのが強者の責任ゆえ弱者は強者に従う』 これが、世界の常識だ。 日本の場合、聖徳太子の時代の政事は現代社会で言えば、村社会から町社会を経て都市社会レベルに入った程度の規模だったから、みんなと合議するが最終決定は指導者がするというスタイルが可能だった。 日本を統一した江戸時代でさえ、藩ごとの政事があくまで中心で、江戸幕府は現代のアメリカ合衆国の連邦政府のようなものであった。 ところが、明治時代に入って、世界の列強が大挙押し寄せてくると、藩ごとの政事では通用しない。 しかも彼らは国を代表してやって来たから、即決断をする。 近代社会の欧米と、古代村社会からやっと中世の都市社会に移行した日本では政事の定義がまったく違う。 明治政府はやっきになって欧米近代社会に追いつこうとしたが、所詮、付け焼刃ですぐにボロが出る。 それが太平洋戦争の罠に嵌り、挙句の果てに原爆を落とされる結果となった。 歴史上、人間の住むところに原爆を落とされた唯一の国が日本で、唯一それを落とした国がアメリカである。 アメリカがドイツやイタリアにも原爆を落としていたら、話はまったく違う。それならば、純粋の動物社会の生きるか死ぬかの戦いだが、彼らはいくら戦争をしていても、肌の色が同じ白いというだけで、有色人種とは別扱いする、つまり人間扱いする。 だから白人同士の戦争では、戦争のルールを厳しく守る。 スポーツの試合のようなものである。 一方、有色人種が相手になると、飼い犬に手を噛まれたような感覚でいるから、余計腹が立ち、憎しみも倍増するので原爆を落とせるのだ。 この考え方はタルムード信仰から来る、白人以外は家畜だという考え方なのだ。 ペットとしておとなしく言うことを聞いていれば飼ってやるが、逆らえば餌はやらないし殺しも平気でやる。 『これが、群れ社会の実相だ』 実相には善も悪もない。正しいも間違いもない。 それがメカニズムなのだ。 この日本という国は、ソ連よりも遥か以前に共産主義化されていた国である。共産主義は100年ほど前にできた言葉だが、その考え方は、タルムード信仰の持つ悪魔の思想で、2000年以上の歴史を持っている。 欧米やその他の諸国では、タルムード信仰はその後キリスト教という仮面を被って地下に潜っていたが、20世紀初めにロシア革命という形で表舞台に再登場した。 タルムード信仰は今でも欧米世界を支配している。 タルムード信仰の根本は差別主義で、都合よく言えば選民思想だ。 律法を与えられた特別の民族という意味での選民が、いつのまにか自分たちだけか特別の人種で他は畜生だという、180度曲がった思想になり、その判断基準として、肌の色が白いかどうかで決めてしまうようになった。 しかしすべての人間の肌が白いわけではないから、何らかの形で共存していかなければならない。 白人は月に住むが、有色人種は火星に住むというわけにいかない。 同じ地球に住むしかない。 そこで、やりたくないが、どうしてもやらなければならない仕事を彼らにやらせるようになったのが奴隷制度のはじまりだ。 人間の洗練されたエゴというものは狡猾なもので、差別意識が強くなればなるほど、表面的には平等を標榜するようになる。 自由を標榜する人間ほど、他人を縛りつける。 アメリカが自由を標榜すればするほど、それは一握りの支配層だけのための自由であり、これがタルムード信仰の原点だ。 日本という国が島国でしかもユーラシア大陸の東の淵に位置することが非常に幸運でもあった。 アメリカという国も、ヨーロッパから見れば大西洋という海の東の淵にある大きな島だ。 だから、アメリカほど国際的でない国はない。 すぐに鎖国政策を取る。 しかも国民は多民族で構成されるから差別意識が生まれ易い。 単一民族の間では民族間の差別は起こりようがない。 いろいろな民族、人種が同じところにいるから差別が生まれる。 日本という国も差別の多い国である。 アメリカと同じで多民族国家であったからだ。 そして地理的に島国である。 ヨーロッパのように地続きの複数国家と比して、日本とアメリカは似ている。 日本人は島国根性が特徴だと言われているが、アメリカ人ほど島国根性の国民もいない。 一見おおらかに見えるが、何か事が起こると、島国根性がすぐ露呈する。 エンパイアステートビル爆破事件も、ヨーロッパで起こればあれほどの騒ぎにならない。 彼らは国際的だから淡々と事の解決をする。 日本とアメリカだけが島国根性を出して、やれ日の丸だ、やれ星条旗だと喚く。 しかし、七世紀までの日本は、今のような日本ではなかった。 モーゼの純粋な戒めが景教という形で入って来て、日本はタルムード信仰に侵されなかった。 やはり東の果てという地理的要因が強かったのだ。 しかし、八世紀にはこの景教も表舞台から消えていく。 聖徳太子が死んだのが最大の要因である。 それ以来、大乗仏教が日本社会を支配していき、釈尊が開いた仏教はイエスのような俗っぽい教えではなく、宇宙論だから、当然唯物論になっていく。 大乗仏教はまさに、釈尊のいい意味での唯物論的仏教の悪い面が出たもので、これが、日本式共産主義社会を構成していった。 時代時代の支配者はいたが、他の国の支配者と違うのは、大衆という見方と、民衆という見方の違いだ。 大衆と民衆とではどこが違うのか。 タルムード信仰に侵された欧米社会や、聖徳太子以降長い歴史を持つ日本式共産主義的考えでは、国民を民衆だとして、民衆とは国家主権を持たない集団なのだ。 一方、聖徳太子の頃の日本社会は国民を大衆だと見ていた。 大衆こそが国家の主権を持った集団と聖徳太子は考えていた節が十七条憲法の精神の中に息づいている。 十七条憲法で聖徳太子は大衆のことを百姓と表現しているが、大衆を大事にすることが、国家が治まる根元だと強調している。 本当の民主主義というものは、欲望の限りがない人間社会では不可能なことなのだ。 動物の社会の方が遥かに民主的である面が多い。 民主的という基準が違うだけであり、本来草食動物系である人間は、肉食系動物社会の民主的基準すなわち掟には適さないのである。 現代の人間社会は、完全に肉食動物系生態になってしまい、民主的基準も肉食系群れ社会を構成する動物の掟になってしまっている。 それが、十七世紀から二十世紀に大きな悲劇を生んだ。 このような世紀を、もう一世紀続けたら、人間世界は自滅するだろう。 その唯一の切り札が、日本が七世紀まで保存していた精神である。 もう1600年も過ぎ去っているものを、取り戻すには、相当な時間とエネルギーが要る。 インドでは今でも菜食主義者がたくさんいる。 宗教上の教義に従っている場合もあるが、人間の本来の動物としての特性が草食動物であることを知っていたからである。 人類の歴史では、草食生態を採っていた原人と、肉食生態を採っていた原人とがある。 欧米世界の人種、つまり、インド・アーリア系白色人種の祖先はクロマニオンで、彼等は肉食生態系原人である。 アフリカン・ブラックの祖先であるネアンデルタールや、黄色モンゴロイドの祖先である北京原人やジャワ原人はあきらかに草食生態系原人である。 6500万年前に出現し、そして、生き物の絶滅を誘導した恐竜時代と酷似している。 恐竜にも草食系と肉食系がいて、結局、肉食系が草食系を食い殺し、最後は肉食系同士の共食いで絶滅した。 今や、現代人類は、恐竜と同じ運命を辿ろうとしている。 佐伯善通(よしみち)とは空海の俗名である。 幼名を真魚(まお)と言い、15才で儒学を学び、19才で出家し、30才の時に唐の長安に留学し、そして嵯峨天皇から高野山を賜り金剛峰寺を建立したのが42才の時であった。 空海は、今の香川県と徳島県の境にある満濃池の土木工事で有名であるが、この工事もやはり渡来人の秦一族が大いに貢献した。 それを良く示しているのが、奥の院にある多くの墓の中に秦一族が信仰した景教の石碑がある。 真言密教の大本山である高野山に原始キリスト教である景教の石碑がどうして大事に置かれているのか。 空海は単なる仏教僧ではなかった。 イタリア・ルネッサンスに輩出したレオナルド・ダ・ヴィンチ並の天才的才能をあらゆる面で発揮し、日本三筆の一人であり、絵でも才能を発揮し、宇宙論でもアインシュタイン顔負けの理論を構築していた。 アインシュタインがなぜ日本という国を、たった一度の来日だけでこよなく愛したかは一般には知られていない。 彼の有名な日本でのメッセージは、 『最後の争いに疲れ、世界は権力や金力ではない者が世界の盟主として現れる。それはアジアの高峰、日本から現れる』と言っている。 中東戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、そしてエンパイアステートビル爆破による報復戦争。 まさに、アインシュタインが言った、『世界は争いに疲れ、最後の時がやってくる』 その最後の時が刻一刻とやって来ている。 空海はその時期を知っていたのである。 再び動の時期がやって来て、そしてそれは2030年まで続く。 人生は山と谷の繰り返しだ。 心の変化もそうだ。 山と谷の繰り返しの変化の中でも、精神は成長していかなければならない。 すべての人間が年齢を重ねていくと、精神も成長していくかと言えば必ずしもそうではない。 精神は却って低下していっている場合の方が多い。 日本という国の精神の成長期は聖徳太子の頃がひとつの山で、それから400年周期で上下し、次の山が、空海の時代で、そして、また400年後の法然・親鸞、更に信長の時代と正確に山と谷を繰り返している。 イエスを十字架に架けたあの時、ローマ帝国のユダヤ総督ピラトが、イエスを十字架刑に決めたユダヤの大衆に向って言った。 「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」 ピラトの言葉に対して、十字架刑に決めた彼らは、「その血の責任は、我々と子孫にある」と宣言した。 イエスの教えをこれ以上広めては、未来永劫大変な災いがくることを怖れた彼らは、イエスの教えを愛の教えと摩り替えて、偽善行為を開始した。 十二使徒のひとりで、パリサイ人律法学者で占められた最高法院70名のメンバーに入っていたペテロがその先鞭を切って、ローマ帝国に愛の宗教として広め始めた。 一方、イエスの真の教えを広めなければならないと思った数少ないユダヤ人もいた。 彼らはイエスを十字架に架けた人たちから逃れるためにシルクロードを通って東へ東へと移動し、そして最後の地・日本にやって来た。 およそ三百年掛かって、ペルシャ、アフガニスタン、インド、中国に足跡を残しながら日本にやって来たのだ。 人間という生き物は深き罪を背中に負った動物である。 日本においてもイエスの真実の言葉は抹殺されていく。 だがいくら抹殺しようとしても、抹殺し切れないのが真理であって、必ずどこかでひっそりと生き残り、いつか必ず帰ってくるものである。 聖徳太子の理解の下、イエスの教えを広める希望を持った人たちも、聖徳太子の死とその一族の滅亡により、またもや水面下に潜らざるを得なくなってしまった。 それを引き継いだのが空海であり法然である。 空海は何を教えようとしたのか。 法然は念仏を唱えれば救われると教えたが、その真の意図は何であったのか。 このことを知らずして日本人を語ることは出来ない。 しかし一般日本人は、よもや、そんな背景が仏教の中にあるとは思いもよらない。 日本という国には他の国々のように確固たる宗教がない。 それが故に新興宗教が雨後の竹の子のように生まれてくる。 その中には、非常に優れた指導者の下、まともな精神活動をしている教団も少なくない。 それにしてもその数の多さはやはり異常だと言わざるをえない。 世界三大宗教であるキリスト教、イスラム教、仏教にしても、その分派は異常なほど多い。 日本には古くから神道というものがあって、八百万(やおよろず)の神がいるというぐらいだから、現代日本人が一億あまりとすると、十数人に一人の割合で神がいるということになる。 ユダヤ教は典型的な一神教で、その唯一の神であるヤーヴェは自分以外に神はなく、ヤーヴェ以外の神など信じてはならぬと言うが、もともとは多神教なのだ。 律法という戒めを人間に守らせるためには、唯一神でないと効果がないという判断から、創りあげられたものである。 歴史と同じで、宗教もどうやら改竄されるのが常套のようである。 真実は決して表に出て来ないのが人間社会の宿命なのだ。 老子の言葉に、真理を言い得て妙なるものがある。 『真理は語ることができない。語ることのできるものは真理でない』 人間社会のみならず、宇宙すべての真理であり、その真理を無理やり開こうとすると、パンドラの箱のように、空しい希望だけが顔を見せてくる。 そしてその希望を頼りに彷徨(さまよ)い歩くのが人間の哀れさであるのだろう。 世の中の出来事は、常にひっくり返して見ないと、とんでもない間違いを犯すことになる。 人間社会が織り成す悲しい物語はすべて、このパンドラの箱をひっくり返してみない限り永遠に続くことになる。 表の真実は、裏では嘘。 裏の真実が、表では嘘。 この真理を、言葉ではなく体験で得たものだけが人生の成功者と言えるのかもしれない。 イエスはまさにそのことを体現した人間である。 聖徳太子もそうである。 永い時間と空間を超えたところに表と裏が同時現象として表れる。 それが本当の神の世界であることは疑う余地がない。 宇宙にも、生があり、死がある。 生あるものは必ず死がある。 人間も同じ法則の下にある。 生と死を超えた永遠の平和が実現する世界でない限り、無常観だけが漂う空しい世界しか見えてこない。 永遠の平和とは一体いかなる状態のものであるのか。 人生を振り返って見ると安心立命の境地にいることはない。 山があれば必ずそのあとには同じ大きさの谷がやってくる。 この繰り返しの呪縛から抜け出る方法はあるのだろうか。 山と谷をひっくり返して時間を戻す、若しくは、時間を進める。 そうすると山と谷が埋め合わせをして、ゼロベクトルの軸に立つことが出来る。 それが安心立命の境地を示唆している。 永遠の平和とはこのゼロベクトルの軸に立つことである。 この世的に言えば、前例をすべてひっくり返すことがゼロベクトルの軸に立つことである。 そのゼロベクトルは、物質で成り立っている三次元立体世界では三種類のゼロベクトルの軸を持っている。 どのゼロベクトルの軸に立つかは、その個人の選択に委ねられているが、どの軸も時間という要素に制御されているのが、今までの山と谷に住む無常観の世界である。 永遠の平和に住むには、時間に制御されないこの3本の軸の上に立つことしか方法はない。 実践するには、どうすればいいのか。 それが可能となったとき、人類は新しい歴史の一歩を踏み出すことになる。 八郎はダ・ヴィンチの歴史の三本の矢を受けとめた。 八郎が加古川で上陸し、鬼神四郎の郷里である三田・相野にある西国二十五番札所・御岳山清水寺に辿り着いた時、時刻というナイフが時空の世界というケーキをカットし、まるで走馬灯のように、一瞬が16年の歳月を消化して、ユダヤ教のシナゴーグに変わっていた矢先のことであった。 京都・太秦の広隆寺境内にあった『いさらいの井戸』がやはり時空を超えて『おかげの井戸』に取って替わっていた。 人類が踏み出した新しい歴史の一歩だ。 三本の時間の矢に支配された世界は水平世界である。 歴史の三本の矢に支配された世界は垂直世界である。 二十世紀までの人間社会は三本の時間の矢に支配された水平世界だった。 『いさらいの井戸』がそのことを象徴している。 二十一世紀からの人間社会は三本の歴史の矢に支配された垂直世界になる。 『おかげの井戸』がそのことを象徴している。 先ずは、ダ・ヴィンチの歴史の三本の矢だ。 ダ・ヴィンチの歴史の三本の矢は視覚の世界がタイムトンネルになる。 ボッチェリの歴史の三本の矢は聴覚の世界がタイムトンネルになる。 視覚の世界は男の世界と言い換えてもよい。 聴覚の世界は女の世界と言い換えてもよい。 ダ・ヴィンチの世界には女の世界が混在しており、ボッチェリの世界には男の世界が混在している。 女は実は男である。 男は実は女である。 男と女の間にある永遠の闇が深淵である所以がここにある。 闇は実在で光は闇の不在概念であることを知った者だけが深淵の底に触れることができる。 光が実在で闇は光の不在概念だと錯覚した者だけが永遠の闇の中を彷徨い続ける。 深淵といえども底で繋がっているのだ。 X軸ともY軸とも永遠に交差しない双曲線の世界が水平世界だ。 八郎が先ず、X軸ともY軸とも交差する双曲線の垂直世界に入ろうとしているのだ。 X軸ともY軸とも永遠に交差しない双曲線の水平世界では、すべての事象が不確定である。 そんな世界で悟りを求めて生きるなど不可能だ。 アインシュタインの相対性理論はおよそ不可能な悟りを可能なもののように錯覚させるまやかしだ。 そのことを証明したのがハイゼンベルグの不確定性原理だ。 アインシュタインの相対性理論は言う。 空間の上に時間が君臨する。 つまり、三次元空間の上に四次元時間がある。 三次元空間軸、つまり、X軸・Y軸・Z軸と、四次元時間軸、つまり、T軸が交差していることが前提だ。 ハイゼンベルグの不確定性原理は言う。 止まっているものの速度は決められないし、動いているものの位置は決められない。 三次元空間軸、つまり、X軸・Y軸・Z軸と、四次元時間軸、つまり、T軸が交差していないことが前提だ。 『今、ここ』の『今』と『ここ』が同時実現できるかどうかを論じていると言い換えてもいいだろう。 生きているとは動いていると言い換えてもいい。 止まっているものの速度、つまり、『今』は決められない。 動いているものの位置、つまり、『ここ』は決められない。 どちらに軍配が上がるか、それは個人に委ねられている。 過去・現在・未来に想いを馳せて生きている者は、アインシュタインの相対性理論に軍配を上げる。 『今、ここ』を生きる者は、ハイゼンベルグの不確定性原理に軍配を上げる。 X軸ともY軸とも交差する双曲線の世界、つまり、垂直の世界こそ、ハイゼンベルグの不確定性原理の世界だ。 八郎は、X軸ともY軸とも交差する双曲線の世界、つまり、垂直の世界にいる。 三田の御岳山の清水寺はX軸線上にある。 京都の音羽山の清水寺はY軸線上にある。 そして、京都の太秦の広隆寺はZ軸線上にある。 双曲線は二次元世界の映像だが、それが三次元世界に拡がると「現実の中」という垂直世界に変貌する。 現実が映像に変節し、映像が「現実の中」に変貌する。 所謂現実が夢に変節し、夢が「現実の中」に変貌する。 錯覚生き物・人間は夢の中で展開する所謂現実を現実だと錯覚している。 三次元空間を二次元平面でしか捉えることができないからだ。 他人を介してしか自己を見ることができないものはすべて映像だ。 映画は二次元平面であり、夢は二次元平面である所以であり、所謂現実も二次元平面である所以だ。 双曲線は二次元世界の映像だが、それが三次元世界に拡がると「現実の中」という垂直世界に変貌する。 X軸線上にある三田の御岳山の清水寺と、Y軸線上にある京都の音羽山の清水寺だけでは、所詮、夢の世界であり、所謂現実の映像に過ぎないが、そこにZ軸線上にある京都の太秦の広隆寺が介入すると、「現実の中」という三次元空間、つまり、真実が顕れる。 八郎の存在そのものが真実なのだ。 他の連中はすべて映像に過ぎない。 真実である八郎の世界に交わることができるものだけが、映像の世界から抜け出すことができる。 「現実の中」とは真実の世界のことだ。 ほとんどの人間は映像の世界で生きている。 つまり、死んでいる。 だから、死ぬのが怖いのだ。 現実を受け入れるとは、「現実の中」にいることだ。 過去・現在・未来という水平世界にいる限り、「現実の中」にいることは不可能だ。 矛盾とは自己矛盾に他ならない。 他人との間の矛盾など不可能だ。 そもそも他人の存在自体が矛盾なのだ。 自己内部の結晶化が人間存在の意義であるのに、自己内部の結晶化が崩れてしまった結果、自己矛盾が生じる。 精神分裂症とは人間自体のことを指す。 「現実の中」に回帰できてこそ、人間は人間たり得るのだ。 映像を現実だと錯覚して生きている人間は、所謂現実の中で生きているだけで、「現実の中」では眠っている。 生きていながらにして眠っているわけだ。 生きているとは起きていることだ。 生きているとは眠っていないことだ。 だから死ぬことを永遠の眠りに就くと言う。 眠るということは死の一瞥をしていることに他ならない。 一瞥とは部分観のことであり、全体感の一瞥に他ならない。 死の一瞥が生であると言い換えてもよい。 所謂現実とは夢のことであり、夢とは眠りの中の夢ではなく、眠りが夢の中の眠りなのだ。 人間という生き物は知性を獲得することによって多くを得たと同時に多くを失った。 多くを得たのは眠りの中の夢だけである。 だから、所謂現実を現実だと錯覚しているのだ。 だから、所謂現実を夢だと分かっていないのだ。 だから、所謂現実を映像だと分かっていないのだ。 だから、自己と他人を同一視するのだ。 だから、自己と他人を差別するのだ。 だから、支配者と非支配者に差別するのだ。 だから、戦争をするのだ。 すべては、「現実の中」で生きていないからだ。 多くを失ったのは夢の中の眠り、つまり、「現実の中」である。 二十一世紀に人類が生き残るためには、「現実の中」を取り戻すしか道はないのだ。 太陽系惑星群の中の地球系では、太陽と月の間に地球がある。 この事実は実に重い。 恒星と衛星の間に惑星がある。 永遠と究極の間に惑いがある。 惑星とは惑う星だ。 地球は惑う星であり、その両脇に永遠の星と究極の星がいて、地球をサポートする。 地球はまさに宇宙大のスクリーンであり、永遠の星・太陽と究極の星・月が、その意思を地球に投影している。 永遠の星・太陽と、究極の星・月が「現実の中」であり、惑いの星・地球が映像であり、夢であり、所謂現実である。 八郎とリエにとっては、地球上で起きていることはすべて映像であり、夢なのだ。 地球の表面上だけでただ右往左往する人間は、映像に同化し、夢に同化し、所謂現実を現実だと錯覚している。 錯覚とは映像に同化することに他ならない。 人間は、ひとつ一つの事象に錯覚を自覚するが、全体の事象には全く自覚できない。 錯覚の錯覚たる所以である。 八郎が想い、行動することはすべて「現実の中」での事象だ。 リエが想い、行動することはすべて「現実の中」での事象だ。 ただ正の事象と負の事象がある。 八郎は正の事象だ。 リエは負の事象だ。 夢にも正夢と負夢がある。 正夢は実時間の世界、つまり、水平世界の映像だ。 負夢は虚時間の世界、つまり、垂直世界の映像だ。 映像に変わりなない。 水平世界に映る映像。 垂直世界に映る映像。 映像と映像が交錯するところに、「現実の中」が表れる。 それが、『今、ここ』だ。 八郎が『今』であり、リエが『ここ』だ。 ふたりは永遠に交わることのない交点だ。 そこに二人が映っている。 いよいよ、「現実の中」のふたりの主役が躍動を始める。 |