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第三十一章 修羅の世界 清水寺が16年の歳月を経て、ユダヤ教のシナゴーグに変わり、「おかげの井戸」が広隆寺の「いさらいの井戸」に変わっていたことに気がついた八郎は、自分の使命を悟らされた。 使命を悟るということは、新しく生まれ変わるということである。 その瞬間(とき)、人は自分の人生を知ることが出来る。 大抵の人間は、自分の人生を知ることが出来るのは、死に際した瞬間(とき)である。 死に際した瞬間(とき)、これまでの人生の出来事が走馬灯のように一瞬にして投影され、自分の人生を知るのだ。 それはまさに地獄だ。 死に際した瞬間(とき)に、自分の人生を一瞬にして知らされるのは地獄以外の何者でもない。 何も出来ない状態に際して、何をすべきかを知るのが地獄の正体だ。 八郎は幸いだった。 リエは幸いだった。 感謝の想いが、これから修羅の世界に入っていく彼らに対する餞別だ。 リエは八郎に言った。 「わたしの今までの人生は単なるプロローグに過ぎなかった。あなたの人生はエピローグから始まっていたのね・・・」 リエの言っていることが八郎にはよく理解できた。 島田一郎が鬼神冬子と出逢った時が彼のエピローグであり、鬼神冬子が生まれ変わった時が、田島八郎のプロローグであったからだ。 二十一世紀には同性の結婚が常識になる。 5000年の歴史を誇る男女間の一夫一婦制の結婚制度がいよいよ崩壊する時代に突入したのだ。 同性の結婚は従来の結婚の定義では当てはまらない。 敢えて言うなら同棲生活に過ぎないが、それを結婚という契約に縛り付けるのだから、ますます精神が分裂することになる。 修羅の世界がいよいよ始まるのだ。 天台宗の寺がユダヤ教のシナゴーグに、「おかげの井戸」が「いさらいの井戸」に変わっても、ひとつだけ変わっていないものがあった。 「おかげの井戸」の水脈となっている山水が溜まっている水飲場の前に佇む、嘗て鬼神四郎とその仲間たちが修行した小屋である。 エンジェルジュニアーと称した仕置部隊の特殊訓練をした際に逗留した場所だ。 八郎は現の夢を見ていた。 『冬子の父・四郎にとっては、この場所は生まれ育ったところだが、それ以前にもこの場所に来た記憶がある・・・』 デジャブ現象による記憶の再生が現の夢の正体だが、八郎が『今、ここ』で経験していることは、そんな浅薄なものではなかった。 人間の生と死の問題を解決する鍵が現の夢の中にある。 夢というものは、眠っている時だけ観るものではない。 寝ても起きても、夢は観ている。 映画館で映画を観ている状況は、夢を観ている状況とまったく同じである。 舞台の白いスクリーンで映画が開始される前に、観客席の照明は消され真っ暗になるのは、眠っている状況と同じだ。 映画が終了すると、観客席の照明は点灯され明るくなるのは、夢から目が覚めた状況と同じだ。 映画がまだ終了していないのに、観客席の照明が点灯され明るくなると、白いスクリーンに映っている映画は薄くなる一方、自分の周りの観客席が克明に観えてくるのは、夢から目が覚めても未だ夢を引きずっている状況と同じだ。 映画館での映画はそこで終了するが、現の夢では映画は永遠に続けられる。 観客席の照明が消されると眠る、観客席の証明が点灯されると目が覚めるが、白いスクリーン上の映画は永遠に続けられている。 自分の周りの観客席は、他人の世界だ。 白いスクリーン上の映画は、自分の身体を映す自己同化の世界だ。 自分独りの世界は実在の世界だ。 自分の身体を映す世界と、他人の世界は映像の世界だ。 他人の世界が、自分がいる観客席と同じ世界だと思うのが間違いの元凶である。 自分が自己同化している白いスクリーン上の映画の世界と、他人が座る観客席とは明らかに違う世界でないか。 夢の世界の錯覚は巧妙にできている。 阿呆ほど物事を複雑に考える。 人間とはまことに複雑で阿呆な生き物である。 八郎は今そのことに気づきつつあるのだ。 八郎は現の夢を見ていた。 『冬子の父・四郎にとっては、この場所は生まれ育ったところだが、それ以前にもこの場所に来た記憶がある・・・』 1156年7月2日。 鳥羽法皇が崩御した。 同年7月6日。 後白川天皇方に与し、宇治の警護にあたっていた平清盛の次男である基盛が、崇徳上皇方に与していた大和源氏である宇野親冶を捉える事件が起きた。 保元の乱の勃発である。 後白川天皇方には、関白藤原忠通を大将に、源義朝、平清盛、源頼政、源義康(足利義康)らが味方し、崇徳上皇方には、関白藤原忠通の弟の左大臣藤原頼長を大将に、源為義、源頼賢、源為朝、源頼憲(多田頼憲)らが味方した。 源義朝は源為義の嫡男で、日本史上はじめての武家政権としての鎌倉幕府を開いた源頼朝・義経兄弟の父親である。 源為朝。 鎮西八郎と称せられ、若くして九州を平定した強者だ。 同年7月10日。 両軍は賀茂川を挟んで対峙、上皇方は白河北殿、天皇方は東三条殿に本陣を置き、後白河天皇は高松殿にあった。 鎮西八郎為朝は、高松殿を夜討することを献策したが、大将の藤原頼長が皇位をかけた戦いは白昼正々堂々と行うべきと主張し、為朝の意見を一笑に付した。 一方、天皇方の源義朝も夜討を献策、大将の藤原忠通がこれを容認した。 7月11日未明。 天皇方は、平清盛300余騎、源義朝200余騎、足利義康100余騎の3隊に分かれて白川北殿に奇襲を掛けた。 平清盛が西門を攻めるが、鎮西八郎為朝の強弓の前に敗れ、為朝の兄である義朝が代わって西門を攻めるが、これも為朝の強弓の前に敗れる。 劣勢の後白川天皇に義朝が火攻の勅許を求め、これが許されると天皇方は白川北殿の西隣にある藤原家成邸宅に放火、白川北殿に類焼したため、上皇方の兵は白川北殿から争って逃走、戦闘は後白川天皇方の勝利で終結する。 上皇方の大将藤原頼長は討死、源為義ら主要武将は六条河原で打ち首、崇徳上皇も讃岐に流されたが、ひとり為朝だけは、自慢の弓を射ることができないよう左腕の筋を抜かれて伊豆大島に流された。 伊豆大島に流されるまで、為朝は音羽山の清水寺に幽閉された。 音羽山の清水寺は、僧・延鎮が坂上田村麻呂の助成を得て、延暦17年(798年)に、開創した寺である。 舞楽を奉納する舞台は、清水の舞台で有名だが、この辺りは当時、鳥辺(とりべの)と呼ばれる庶民用の死体の捨て場所だったところで、伝染病が流行ることが多かった京で死臭を避けるために高い舞台をつくったのが、そのはじまりである。 為朝は、幽閉されている間、よくこの舞台から京の街を見下ろすことがあった。 『・・・・・・・・・・・・・・・それ以前にもこの場所に来た記憶がある・・・』 八郎が見ていた現の夢そのものだった。 『・・・・・・・・・・・・・・・それ以前にもこの場所に来た記憶がある・・・』 八郎が見ていた現の夢だった。 この世で生き、そして死にあの世に行く。 生と死の往来路の両端にあるのがこの世とあの世。 輪廻転生の正体である。 しかし、そんな馬鹿げた話はない。 現実の世界と夢の世界を別世界とした結果の産物が輪廻転生という考え方に他ならない。 人生とはまさしく夢という映画である。 現の夢が現実であり、幻の夢が夢なのだ。 夢に変わりはない。 この世が現実であり、あの世が夢なのだ。 この世もあの世も夢に変わりはない。 鎮西八郎源為朝も田島八郎も夢の中では時空を超えている。 それが、『今、ここ』という時空を超えた世界だ。 過去・現在・未来という水平に流れる時間と、昨日・今日・明日という水平に流れる空間による時空の世界では、鎮西八郎源為朝は過去の昨日の人間であり、田島八郎は現在の今日の人間である。 『今、ここ』という垂直に静止する時空を超えた世界では、鎮西八郎源為朝も田島八郎も同じ世界に存在する。 八郎が気づいたこととはそのことだ。 『冬子の父・四郎にとっては、この場所は生まれ育ったところだが、それ以前にもこの場所に来た記憶がある・・・』 人類史上空前の怪物の誕生だ。 リバイアサンという海の怪獣がいると旧約聖書は言う。 英国の政治哲学者ホッブスは、国家を怪物リバイアサンにたとえ、社会契約によって成立した国家の権力に人間は絶対服従すべきだとする西洋近代思想の礎を構築した。 国家とはまさに怪物だ。 国家権力とはまさに妖怪だ。 そもそもの元凶はリバイアサンであり、リバイアサンの生みの親は旧約聖書だ。 国家権力の際たるものが税の概念である。 税の概念の生みの親も旧約聖書だ。 国家がなければ税を納める義務など一切ない。 自然は生き物に納税を強制することは一切ないどころか、彼らの欲するモノを反対給付なしに無償の愛で与える。 何故人間社会だけに納税の義務があるのか。 怪物リバイアサンの所為だ。 国家という怪物リバイアサンの所為だ。 国家権力という妖怪リバイアサンの所為だ。 旧約聖書が生まれたのは紀元前3世紀の頃だと言われているから、およそ2千数百年のリバイアサンの亡霊に決別する時がやって来た。 “目には目、歯に歯” 旧約聖書で教えるこの格言で以って、新しい怪物がリバイアサンを叩きのめす瞬間がやって来たのだ。 「やっと、自分の使命が何であったのかわかったよ!」 八郎はリエに優しい眼差しを投げかけながら言った。 リエは観念の世界に生きている。 八郎は概念の世界に生きている。 一般凡夫は観念と概念の二つの世界に生きているから分裂症に陥る。 自然に抱かれて生きているものたちは観念の世界だけで生きている。 分裂症に陥ると、すべてが二元的に観えてくる。 生に対して死。 善に対して悪。 強に対して弱。 富に対して貧。 賢に対して愚。 男に対して女。 そして、 幸福に対して不幸。 天国に対して地獄。 挙句の果てに、 神に対して悪魔だ。 これらの概念はすべて分裂症が生んだ二元化症状に他ならない。 自然に抱かれて生きているものたちは、死一如であり、悪一如であり、弱一如であり、貧一如であり、愚一如であり、女(メス)一如であり、そして不幸一如であり、地獄一如であり、挙句の果てに悪魔一如で生きている。 つまり、観念の世界だ。 地獄一如の観念の世界から、天国と地獄の概念の世界に否応なしに入り込んだ人間は、天国と地獄の二元世界を超えることで、真の天国に入ることができるのだ。 八郎の概念の世界とは超えた世界のことだ。 リエの観念の世界とは自然の世界のことだ。 一般凡夫の観念と概念の世界が天国と地獄の世界に他ならない。 太陽と地球と月が、その関係を如実に示しているのだ。 八郎は月の「想い」の「テンシ」であることに遂に気づいたのである。 概念の世界に生きている八郎が、月の「想い」である「テンシ」だった。 では、月の「想い」である「テンシ」とは一体何者であるのか。 そして、観念の世界に生きているリエの使命とは一体何であるのか。 そのヒントは、「いさらいの井戸」と「おかげの井戸」にある。 そのためには、地球と月の歴史を辿ってみなければならない。 人間には肉体と精神があるように、宇宙にも肉体と精神があり、宇宙の精神を「イシキ」と言う。 地球には太陽という親と月という子供がいる。 太陽の「想い」を「ヒカリ」と言い、地球の「想い」を「カミ」と言い、月の「想い」を「テンシ」と言う。 地球上の有機体生物のように子供をつくるのに凸と凹が交わって子供をつくるといった二元論的メカニズムのようには、宇宙は構成されていない。 この二元論の形而上学的な問題として本来一元論が根元で、それがある次元で二元論に枝分かれしているだけで、それを、曲解して善悪二元論にしてしまったのが人間だ。 そういう考え方を人間がしてもやむをえない理由がある。 形而下学的な世界で一番基礎にある有機生命体の継続性、すなわち種の保存則に二元論を採用したからだが、その張本人が他ならぬ、地球の「想い」である「カミ」だった。 一元論の世界での継続性・種の保存則はある一定のエネルギーの蓄積とその発散というくり返しの中で、自動的に子供が親になり、親は祖父になるというメカニズムになっている。 地球の親である太陽の「想い」つまり「ヒカリ」は宇宙の「イシキ」の孫だが、あるとき宇宙エネルギーのバランスをとる必然性が起きた。 そのときに、星雲からあふれ出たエネルギーが太陽という子をつくったのである。 同じように、太陽が惑星という子供を、エネルギーがあふれ出たときに創った。 そして、それぞれの惑星が生まれたときに彼らの子供たちもほぼ同時に生まれた。 それぞれの惑星は、みんないくつかの子供を持っている。 エネルギー量の多いものほどたくさん子供を持っている。 地球は強い大量のエネルギーを持っていなかったので、たった一つの子供しか創れなかった。 それが月であり、この月という子供は力もあってエネルギーがあふれ出ている。 概念と観念が混在した時、月の申し子が映像として映し出される。 それが八郎とリエだ。 「いさらいの井戸」と「おかげの井戸」は概念の世界と観念の世界が映像として映し出されたものだ。 「いさらいの井戸」が概念の世界である。 「おかげの井戸」が観念の世界である。 知的文明の終焉が今こそ目の前にやって来ていることを暗示しているのが、概念の世界と観念の世界が混在しはじめることだ。 概念の世界は人類が創出した世界だ。 観念の世界は地球が創出した世界だ。 人間同士の争いが究極に達すると、概念の衝突は最終的には観念の世界との衝突に達する。 知的文明が臨界点に達したという意味である。 全体と部分の衝突と言ってもいいだろう。 文明の衝突とは、部分の全体に対する造反に他ならない。 結果は明白である。 その都度、人類の文明は消滅していった。 知的文明の終焉を示唆しているのが、概念の世界と観念の世界の衝突に他ならない。 修羅の世界と地獄の世界の衝突とも言えるだろう。 八郎はリエの体を抱きしめた。 修羅の世界と地獄の世界の衝突だ。 修羅の世界は観念の世界だ。 女、つまり、メスの世界だ。 凹の世界、つまり、受容性の世界だ。 地獄の世界は概念の世界だ。 男、つまり、オスの世界だ。 凸の世界、つまり、攻撃性の世界だ。 御岳山の「おかげの井戸」なら修羅の世界だが、シナイ山の「いさらいの井戸」なら地獄の世界になる。 八郎がリエの体を抱いた瞬間、再び鉄の雨が降りはじめた。 2033年12月31日11時55分。 東京浅草寺。 一年の垢を落とすべく鳴り響く除夜の鐘に耳を澄ましながら、新しい年を今かと待ちわびる参拝客で埋め尽くされた仲店通りに向かって、東の夜空から一筋の閃光が突き刺さった。 鉄の雨が最初に降った。 2034年1月1日。 世界有数の大都市・東京に降った鉄の雨は、東京を中心とする直径350キロメートルの地域を消滅させてしまった。 関東甲信越地域が一瞬にして消滅したことによって、日本列島は分断された。 地球温暖化の進行によって海面が1メートルも上がっていた結果、幅が300キロメートルしかない本州島は真二つに割れてしまい、クレーターとなった地域は黒潮と親潮が合流する海峡になってしまったのである。 図らずも東と西に分断された日本を虎視眈眈と狙っていた国が、この機に乗じて動き出した。 2050年4月13日。 鉄の雨が再び降り始めたのである。 概念の世界の衝突は人間社会だけの話だが、概念の世界と観念の世界の衝突は、人間が地球に宣戦布告するようなものだ。 二十世紀に人類は灰の雨を降らした。 二十一世紀には地球が鉄の雨を降らした。 人類と地球の戦争が始まった。 まさに骨肉の争いである。 その兆候は二十一世紀初頭に顕れていた。 共食い現象だ。 二十世紀の最たる共食い現象が水平世界における戦争であったが、二十一世紀の共食い現象は垂直世界におけるものなのだ。 水平世界における共食いの原因は領土争いになるのが当然だが、垂直世界における共食いの原因は骨と肉の争いになる。 その先陣を切ったのが、親が子を殺し、子が親を殺す、肉同士の共食い現象が二十一世紀初頭に起こった。 二十一世紀初頭の先進国では、親、特に、自分の腹を痛めた母親が子供を殺す事件が相次いで起こった。 原因は超拝金主義だ。 みんなが、“お金だ!お金がすべてだ!”という風潮が蔓延した。 富と貧は本来二律背反するものだ。 平たく言えば、お金持ちの数は少なく、貧乏人の数は多いことで、富の均衡を保っているのに、みんなが富を求めたら共食い現象が起こるのは必定であり、そのような状態を超拝金主義と言う。 超拝金主義は超快楽主義を誘発し、若い母親連中が産み落とした子供たちは、超快楽主義の落とし子であった。 愛する男性の結晶だから愛がある。 超快楽主義の垢には愛の破片(かけら)すらない。 若い母親の我が子に対する叱りにはニヒルなヒステリー感さえある。 挙句の果てに、疎ましい存在となった我が子を闇に葬る事件が相次いで起こった。 “やられたら、やり返す” 弱い存在の子供もやられっぱなしであるわけがなく反撃を開始した。 子供が親を殺す事件が必然の結果として起こる。 親子の間で殺人が起こる民族は必ず滅亡する。 そして遂に、骨と肉の共食い現象が起ころうとしている。 畢竟、地球と人類の共食い現象に他ならない。 修羅の世界と地獄の世界がいよいよ衝突する。 |