|
第三十五章 月からのメッセージ 人間には肉体と「想い」があるように、宇宙の星にも肉体と「想い」があり、その共通項は運動である。 運動とは、言い換えれば、生きるということである。 生あるものはすべて肉体と「想い」があるということであり、我々人間が生きていることと、星が運動していることは、宇宙レベルではまったく同じメカニズムなのだ。 我々人間にも「想い」があるように、太陽という星にも、地球という星にも、月という星にもそれぞれ「想い」がある。 地球という星の「想い」が「カミ」という名の下に鬼神四郎に降臨したのが、50年前の2001年4月1日であったのに対し、月という星の「想い」が「テンシ」という名の下に田島八郎に降臨したのがちょうど半世紀過ぎた時のことだった。 人間社会という地球上の部分観としての世界での時間の単位は極めて卑小だが、宇宙レベルの時間の単位は極めて広大だ。 地球上の一生き物である人類がとんでもない行動に出たことを知って、「カミ」が人間社会に降り立った時に、月の「想い」である「テンシ」も既に地球に降り立っていたが、人間社会の時間単位では半世紀にも亘る誤差が生じていたのである。 天神社の杉の大木を経由して田島八郎に降臨した「テンシ」は、清水山麓の鬼神蜂蜜店に残してきたリエの所に戻った。 嘗て、「テンシ」が地球上に降り立った時に初めて人間と触れ合ったのが、四国剣山の大剣神社の巫女だったことを思い出した八郎は、リエを連れて剣山に行くことを思いついたのだ。 1200年以上も前に高野山を開いた空海が、高野の洞窟から遥か四国の剣山が見渡せることを知った時、二重のトリックを仕掛けた。 そのトリックを知るために、八郎はリエを連れて剣山に今度は二人で行くことを決心したのである。 月からのメッセージを受信するために・・・。 「テンシ」が初めて人間と触れ合った場所が四国だった。 四国はその昔は死国と言われていた。 一方、「カミ」は日本列島の真ん中にあたる伊勢という地の伊雑宮神社という場所に降り立った。 伊雑宮神社こそが真の伊勢神宮だからである。 海の傍にある伊雑宮神社に意味がある。 「テンシ」がこの山の頂上に居据わることになった経緯は、麓の貞光駅で年老いた人間が「テンシ」に話し掛けてきたことに始まる。 “この駅から歩いてすぐのところにある剣神社に行くと、おいしい水が湧いているから、それを飲むと疲れが取れる”と言われて、「テンシ」は行ってみた。 山からの湧き水らしいが飲むと実にうまい。 そのとき、神社の巫女という女性から“お腹が空いているなら、何か食べ物をあげましょう!”と言われた「テンシ」は家の中に案内されてご馳走になった。 これがまた実にうまくて感動してしまった。 するとその巫女が“かわいそうに・・・”と「テンシ」を抱いた。 そのときの感触を「テンシ」は忘れることが出来なかった。 その瞬間、地球上にいる生命体にはすべて男と女がいるのに、なぜ自分たち「想い」の世界には男ばかりで女はいないのか疑問に思った。 「想い」の世界は絶対一元で、別の宇宙には女だけの「想い」の世界があるらしいが、地球には何故か男と女が対でいる。 人間の罪の原点はこの男と女が一緒の世界にいることであり、まさに凶兆の象徴だが、「テンシ」が経験した女の抱擁は、殺伐とした男だけの世界では味わえないもので、「想い」をリラックスさせてくれるものがある。 爾来、「テンシ」は人間の女の抱擁の虜になって毎日その神社に通った。 ところが、その巫女が山の頂上近くにある大剣神社に引っ越すと言う。 “自分もついて行っていいか?”と尋ねたら、彼女は許してくれた。 大剣神社の近くで湧き出る水は更にうまいらしい。 小さな箱の容器が埋めてあってその底から水が湧き出ているらしく、「テンシ」が飲んでみると、そのうまさに驚いた。 「テンシ」は女性の抱擁と水のうまさで人間に対するイメージが完全に変ってしまった。 「テンシ」が分かったことは、人間にも「想い」の変化した心が美しいものと、醜いものがあるということだ。 美しい心を持った人間には「想い」にはない、潤いのような、香水のような、何ともいえない感触があって、それは体という肉体を持っているからだ。 人間のやってきたことは驚くほどの非道である。 しかし、これも人間の背負わされた宿命ではないか。 非道極まりないことをしてきた人間であることは確かであるが、それで人間すべてが極悪だと断定はできない。 人間を善悪で区分けすることが間違っているのではないか。 人間を強弱で区分けした方が正しい判断ができるようだ。 極悪非道を重ねてきた人間は強い人間であって、本人たちは決して悪いことをしているとは思っていない。 逆に弱い人間は善人のように見せかけているだけで、自分も強くなれば実は同じことをやる可能性を充分持っている。 要するに、強いか弱いだけなのに、勝手に悪と善にすりかえているのだ。 しかもすべての人間は自分のことを決して悪だとは思っておらず善だと思っている。 ただ強い善と弱い善だと思い込んでいるだけだ。 極端な非道は自覚はあるが、麻薬中毒患者の症状と同じで、当初は他意はなかったのが知らぬ間に中毒になってしまう。 “これはいけないことだからもうやめなければならない”と思っても、中毒からなかなか抜け出せない。 これも弱さ故だ。 結局の処、弱さから悪という概念が生まれるのであって、強さからは悪という概念は生まれない。 ところが悪は強さを養う。 そうすると、先ず弱さから始まって悪が生まれ、悪が強さを生み、悪が生んだ強さは善には変貌できないからますます悪を増大していく。 この悪循環が人間の極悪非道につながっているのである。 最初に絶対なる強さがあれば、そこからは悪の概念は生まれない。 逆に強いが故の他に対する思いやり、すなわち善が生まれる。 人間の生まれもっての本質はそこにある。 どんな人間でも自分のした行為が他の人間を喜ばすことになった時、何とも言えない悦びを感じる。 それが強さの善循環だ。 しかし、今までの人間のやってきたことは、弱さの悪循環の結果であった。 原因は弱さにあったということは、大半の普通の人間が悪の原因の根源だということだ。 極悪非道をやってきた人間たちは実はもともと弱い人間だったのだ。 弱い人間が悪の道に入ると抜け出せないからますます悪に嵌り込む。 強い人間なら悪の誘惑にも負けないし、仮に悪の誘惑に負けても抜け出す力を持っているから歯止めが効く。 剣山での経験は「テンシ」の人間観を変えた。 「想い」が肉体という星をコントロールすることが絶対正しいことだと、「テンシ」は思っていたが、肉体の中に「想い」が閉じ込められていることにも良さがあることを知ったのである。 人間にはプラスの面とマイナスの面が必ずあるのが法則らしい。 その法則が48個の法則の一つであり、2元論の世界だ。 一面的な判断を人間に対してはしてはいけないということだ。 人間の非道はそのマイナスの面が現れたのであって、それだけですべて悪いと決めつけられないのが人間らしい。 人間という有機生命体は非常に複雑な生命体で、小宇宙と言われているように、未知の世界の全宇宙、更にその向こうにある絶対宇宙にも通ずる法則が、人間の心という「想い」を包みこんだ肉体には働いている。 絶対宇宙の「一定量」という唯一の法則が、「ポジティブな意識」「ネガティブな意識」「ニュートラルな意識」の三つに全宇宙で分化された後は、すべてプラスとマイナスの分化の連続であるようだ。 人間はまさにそれを顕現しているのである。 非道な人間はマイナスの人間であって、プラスの人間もいるという観点で人間の罪に対する処置をしていかなければならない。 「テンシ」は剣山でそのことを学んだ。 地球上の人間がおりなすいろいろな問題点。 八郎はその事を確認するために、リエを連れだって四国の剣山に向かった。 人間という生命体の複雑さを考えると最終的には月で生きる無機生命体かも知れない。 しかし、今の地球にとって人間はやはり欠くことの出来ない生命体であることも事実だ。 人間という地球上の有機生命体が進化して、太陽系恒星群が星雲に成長し、惑星が恒星に成長し、衛星が惑星に成長していく中で、地球が太陽のように惑星群を持つ恒星になったとき、月が現在の地球の立場である惑星になって、人間が月の中心生命体になる。 それが全太陽系の使命だ。 道のりは長い。 いろいろな困難にも遭遇するだろうが避けて通っては行けない道だ。 地球は「想い」という大きなエネルギーを持っているが、人間のような精巧にできた肉体は持っていない。 これは人間にとって大きな財産だ。 人間の肉体は小宇宙と言われるぐらい素晴らしい機能を持っている。 更に、心というユニークな「想い」も持っている。 この心を正しく使っていくならば優れた存在になり得る可能性を持っている。 今までの間違った心の使い方をよく反省して、正しい心を育んでいくよう指導するのが、地球の「想い」の使命である、延いては、月の「想い」である「テンシ」に引き継ぐことができる。 今まさに、死国の地でその引継ぎが為されようとしている。 八郎とリエが降り立った徳島は、歴史上極めて重要な地である。 江戸時代までは阿波と呼ばれていた。 淡路島も元々は阿波の島だ。 琵琶湖が造られた時に淡路島もできた。 淡路島と琵琶湖はまるでジグソーパズルの相手方だ。 日本の天皇家の初代神武の東遷は、阿波の国を経由したことを物語っている。 第十五代応神天皇が日本の天皇家の実質初代とも言われている所以が淡路島と琵琶湖の関係に写されているのだ。 日本初の易姓革命が起こった隠れた歴史的事件と言い換えてもいだろう。 万世一系を誇る日本の天皇家は、125代今上天皇まで系譜がはっきりしていると言われているが、果たしてそうだろうか。 その秘密の鍵が淡路島と琵琶湖の関係にある。 第十五代応神天皇の諱(いみな)は誉田別(ほむだわけ)と呼ばれている。 諱(いみな)とは「忌み名」の意であり、死後に言う生前の実名であり、死後に呼ばれる諡(おくりな)とラップされている。 応神天皇が諡(おくりな)であり、誉田別(ほむだわけ)が諱(いみな)というわけだ。 天皇家の諡(おくりな)で「神」が付く天皇は「初」を意味する。 すなわち初代のことだ。 初代神武。 十代崇神。 十五代応神。 「神」が付く諡(おくりな)の天皇は125代の中でこの三人だけであり、ここで易姓革命が起こったことを示唆しているのだ。 その鍵が淡路島と琵琶湖だ。 日本という国は八百万(やおよろず)の神が鎮座する神の国だ。 神社の数はおよそ11万あり、天皇家の菊の紋が許されている官幣大社が62社、官幣中社が26社、官幣小社が5社あり、その他に別格官幣社が28社、国幣大社が6社、国幣中社が47社、国幣小社が44社あり、更にその下に、府県社が1148社。 郷社が3633社。 村社が44934社。 無社格が59997社。 総計109930社ある。 その中で八幡神社の数は4万を超え、稲荷神社と双璧を誇る。 その八幡神社の主人が応神天皇だ。 初代神武天皇を祭った神社は奈良県橿原市にある橿原神宮だけで、しかも明治22年(1889年)創建と極めて新しい神社であるのに比して、全国に4万以上ある八幡社の本宮・宇佐八幡宮の創建は和銅元年(708年)であり、京都府八幡町にある石清水八幡宮の創建でも貞観元年(859年)であり、日本史上初の武家政権を樹立した鎌倉幕府を鎮護する鶴岡八幡宮の創建でも康平6年(1063年)と、橿原神宮など足下にも及ばない。 その八幡神社の主人が、応神天皇でありその生母である神功皇后だが、父親の第14代仲哀天皇の名は一切ない。 主人の父親が祭られていない八幡社にはおかしな現象がある。 筆頭家来であった武内宿禰という男が主人と同格で祭られているのだ。 まさに易姓革命の日本版だ。 万世一系。 日本の天皇家が誇り、日本人が誇る血筋だ。 世界に類を見ない奇跡に近い血筋だ。 嘗て、エチオピアの王家も大いなる血筋を誇っていたが、1974年のクーデターによって最後の皇帝ハイレ・セラシェは退位させられ、エチオピア王家は消滅した。 イスラエル建国の父ダビデの息子ソロモンの血を引くと云われた血統も途絶えるわけだ。 初代神武天皇が即位したのが紀元前660年だ。 どうやら万世一系という言葉のルーツはこのあたりにありそうだ。 しかも度重なる易姓革命を直隠しにしての万世一系だ。 中国における易姓革命の元祖は唐王朝をつくった太祖・李世民だ。 唐を創建した高祖・李淵の長男・李建成を殺した次男坊だ。 易姓革命とは骨肉の争いの延長に過ぎず、元を糾せば、人類はみんな兄弟である。 万世一系の正体とは権益争奪戦の結末ではないのか。 武内宿禰が応神天皇の実の父親であったことは疑う余地もないだろう。 天皇の御印である草薙の剣で有名な倭建命(ヤマトタケルノミコト)の息子であった仲哀天皇の血など引いていないのが第15代応神天皇なのだ。 全国に4万社以上ある八幡社に仲哀天皇が祭られず、武内宿禰が祭られているのがその証明だ。 最早、世界に誇る最後の万世一系の消滅を避けることはできないだろう。 それが二十一世紀という時代なのだ。 八郎とリエが降り立った阿波の国には、もうひとつ不思議なことがある。 神武天皇の銅像が徳島市内の眉山に立っていることだ。 神武天皇の銅像があるのは、宮崎県と徳島県だけであり、徳島県の銅像は明治30年に立てられた。 以後大正期、昭和期に入って各地で神武天皇の銅像が立てられていくが、神武の名が轟き始めたのが明治期からであり、それ以前はまるで無視されてきているのだ。 聖徳太子は今でこそ日本歴史上最大の聖人と尊敬されているが、江戸時代の学者たちからはまるでぼろ糞だ。 明治維新というのは、物理的革命のみならず、精神的革命をも示唆するものであったのかも知れない。 ルネッサンスの後に宗教改革が起こったように、徳川幕府を革命で倒したのみならず、江戸期までの日本の精神構造をどんでん返しした時期であったのかも知れない。 江戸幕府の牙城であった千代田城を無血開城させ、その後に明治天皇が京都の御所を千代田城に移し、そして、楠木正成の銅像を立てた。 楠木正成は河内の土豪で、元弘元年(1331年)南朝を起こした第96代後醍醐天皇と共に、足利尊氏の室町幕府と闘った武将だ。 室町幕府第三代将軍・足利義満の計らいで成立した明徳和約で南北朝時代は終焉して、第100代後小松天皇が誕生した。 爾来、第125代平成天皇に至るまで北朝系で天皇位は堅持されてきたと歴史は言う。 では何故、皇居に楠木正成の銅像を立てたのか。 ここにも、易姓革命の匂いがする。 第二十六代継体天皇は、第二十五代武烈天皇の子ではなく、応神天皇の五代の孫と「記紀」は言う。 「越」の国、つまり、現在の福井県からやって来たどこの馬の骨からわからない。 八幡社のもう一人の主人である神功皇后、つまり、応神天皇の母は敦賀の出だ。 神功皇后は、夫・仲哀天皇の没後、男装して兵を率い、海を渡って、当時、百済・新羅・高句麗によって分割されていた朝鮮半島に攻め入った、いわゆる三韓(馬韓=百済・辰韓=新羅・弁韓=高句麗)征伐をしたと言われている人物だ。 五世紀の始め頃、倭の大軍が朝鮮半島に攻め入ったことは、現在の中国・吉林省集安県に残る好太王の碑に刻まれている。 日本書紀は言う。 “神功皇后の六代上に、朝鮮半島の王子・天日矛(アメノヒボコ)がいた” 朝鮮半島と日本列島は同じ地域だったのだ。 問題は「越」の国だ。 「越」の国の真上に位置するのは弁韓(高句麗)だ。 馬韓(百済)や辰韓(新羅)を真下に下ると、そこは「筑」の国、つまり、北九州の地だ。 日本の神代の歴史は、天津神と国津神によって分けられた。 九州系と出雲系だ。 弥生人と縄文人だ。 天皇家の歴史は、朝鮮半島を分割してきた三韓(馬韓=百済・辰韓=新羅・弁韓=高句麗)の権益争いに他ならないのだ。 第九十六代後醍醐天皇の時世に、日本の天皇家は南北に分かれた。 いわゆる南北朝時代だ。 後醍醐は奈良の吉野川が流れる地に南朝を開いた。 徳島県を流れる川も吉野川だ。 吉野川の本家は他でもない阿波の吉野川である。 北イスラエルと南ユダヤに分裂したのはソロモン王死後間もなくの頃だった。 いわゆる南北ユダヤの分裂だ。 その結果、北イスラエルが紀元前721年にアッシリア(現在のシリア国)によって滅ぼされ、その後紀元前586年に南ユダヤもバビロニア(現在のイラク国)によって滅ぼされた。 北朝明徳3年・南朝元中9年(1392年)、室町幕府第三代将軍・足利義満の計らいで明徳和約が結ばれ、56年間続いた南北朝時代は終わりを告げた。 明徳和約では「両統迭立」が約束され、先ず北朝から第百代後小松天皇が統一天皇として選ばれ、それまで天皇の御印であった「三種の神器」を保持してきた南朝から引き渡され、以後、南北交互に統一天皇を選ぶことになった。 しかし、三代将軍義満は自ら天皇位を奪い取るために「両統迭立」の約束を反故にした。 爾来、第125代平成天皇まで北朝側の天皇が続いている。 南北時代。 三種の神器。 応神天皇とその母・神功皇后。 父・仲哀天皇は存在感がまったくない。 イエスキリストとその母マリア。 大工の父・ヨセフは存在感がまったくない。 吉野川とヨルダン川。 どこまで酷似しているのだ。 日本の公式の歴史書である「記紀」と「聖書」は、どこまで酷似しているのか。 そして、その極みが聖徳太子だ。 聖徳太子という名は諡(おくりな)であり、死後に言う生前の実名である諱(いみな)は厩戸皇子(ウマヤドノミコ)だ。 聖徳太子の母親である穴穂部間人皇女(アナホベハシヒトノミコ)が厩戸で産んだことからの名だ。 イエス・キリストが聖母(処女)マリアから産まれたのもベツレヘムの厩舎だ。 聖徳太子の父は第31代用命天皇であり、その后である穴穂部間人皇女(アナホベハシヒトノミコ)も、聖徳太子の后・間人皇女(ハシヒトノミコ)も共に蘇我一族だ。 そして、蘇我一族の高祖こそ武内宿禰だ。 蘇我一族、藤原一族は天皇家の外戚として、日本の歴史を裏から支配してきた。 蘇我一族は中国から仏教を日本に導入した渡来人だ。 藤原一族の高祖である中臣鎌足は祭司だ。 宗教を支配する連中が天皇家の外戚として、日本の歴史を裏から支配してきたのだ。 まさに、権力と宗教は表裏一体の関係であったと言える。 四国は「死国」だ。 四国は阿波の国だ。 阿波の国の中心に剣山がある。 つまり、四国の中心は剣山である。 現在では、香川県にある石槌山が四国第一の高峰であるが、江戸時代までは、剣山が四国第一の高峰とされていた。 剣山はシナイ山に酷似している。 旧約聖書の「出エジプト記」は言う。 “モーゼは、舅でありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、ある時、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。 その時、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現われた。 彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。 モーゼは言った。 「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう」 主は、モーゼが道をそれて見に来るのを御覧になった。 神は柴の間から声をかけられ、「モーゼよ、モーゼよ」と言われた。 彼が、「はい」と答えると、神が言われた。 「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立って入る場所は聖なる土地だから」 神は続けて言われた。 「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」 モーゼは、神を見ることを恐れて顔を覆った。” 神の山ホレブとは、シナイ山の中心の嶺のことだ。 富士山と生き写しの山だ。 シナイ山が富士山なら、神の山ホレブは剣山だ。 八郎とリエに召命が下る場所が剣山に他ならない。 剣山に登る道は二通りある。 池田町から登る道と、貞光町から登る道とがある。 初めての訪問である筈の八郎だが、何故か池田町からの登り道を選んだ。 沖縄で生まれ沖縄で育ったリエにとって、奥深い山岳の光景は未知の世界である。 剣山の全貌は、麓の「見の越」に到着しない限り見ることができないが、池田町からのルートで唯一その全貌を見ることができる場所がある。 「白人神社」という変わった名前の神社があり、その近くに「三木家」という古い屋敷が世間から隠れるように佇んでいる。 「白人神社」を左に眺めながら「三木家」への入り口に進む僅か数メートル四方の領域だけから、剣山の全貌を見ることができるのだ。 “どうして、この道を選んだの?” リエが八郎に訊いたが、何も応えずに、ただ首を横に振るだけだ。 その時だった。 リエの脳裏に一つの言葉が浮かんだ。 「ミキ」という言葉だった。 リエの祖母である石嶺夏子がよく話していた言葉だった。 夏子の母である石嶺礼子の父親の名前は海部兵庫という軍人であり、「海部」と書いて「アマベ」と呼ぶ。 出雲から丹後半島に移り住んだ一族で、彼らの一部は更に東へ南へと下り、諏訪一族、尾張一族と分派していったが、その本家が海部(アマベ)一族だ。 南へ下った尾張一族とは別に、琵琶湖東岸を南に下り、奈良の吉野へ辿り着いた一族がいた。 それが三木一族であり、海部(アマベ)兵庫の祖先だ。 木屋平の三木家は、代々の天皇が即位する大嘗祭において、新しい天皇が皇祖神・天照大神と夜を共にする際に着用する、麻布でつくられた麁服(あらたえ)を奏上する役目を負っている。 新しい天皇が即位するために、三木家自前の畑で麻を栽培し紡ぎ機を織る慣習がある。 延元元年=建武3年(1336年)に後醍醐天皇が吉野に移って南北朝時代がはじまった時に、一旦この慣習は途絶えていたが、明治44年(1911年)両朝を対等とした「南北朝正閏論」が起こり、大正時代になっておよそ700年ぶりに復活したのである。 「ミキ」という言葉の響きにリエは一瞬戸惑うのだった。 “どうかしたのか?” 様子がおかしいリエを怪訝げに覗き込む八郎が、彼女の劇的変化に気づくのにはさほど時間は掛からなかった。 リエは曾祖母の石嶺礼子に直接会うべくもない。 何故なら、リエの祖母の石嶺夏子を孕んだまま自殺したのだから。 幸いお腹の子は助かった。 況してや、石嶺礼子の父親である海部兵庫のことなど・・・。 「ミキ」という言葉が彼らを結ぶ絆だったことに気づいたのだ。 祖先と末裔の関係は人類だけのものと、人類は思い込んで疑うこともなかった。 人類の祖先は新人だ。 新人の祖先は旧人だ。 旧人の祖先は原人だ。 原人の祖先は猿人だ。 猿人の祖先は霊長類だ。 霊長類の祖先は猿類だ。 では新人から人類にバトンタッチされたのは一体何処からか? では旧人から新人にバトンタッチされたのは一体何処からか? では原人から旧人にバトンタッチされたのは一体何処からか? では猿人から原人にバトンタッチされたのは一体何処からか? では霊長類から猿人にバトンタッチされたのは一体何処からか? では猿類から霊長類にバトンタッチされたのは一体何処からか? ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。 ではライオンからシマウマにバトンタッチされたのは一体何処からか? そのライオンとシマウマは食う食われる関係にあるのは一体何故なのか? この質問に答えられない限り、天皇家が125代続く万世一系などと嘯くことはできない。 「ミキ」という言葉が呼び水となって、月からのメッセージがリエに降りてきたのである。 リエが突然、何かに取り憑かれたような表情をして喋りはじめた。 “鬼神冬子は、国常立命の使命である鬼神四郎の娘だが、ある時、冬子は神の山に来た。 その時、湧泉の水の中に、神の御使いが現われた。 彼女が見ると、見よ、湧泉の水の流れが、声となっているではないか。 冬子は言った。 「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうして湧泉の水が喋るのだろう」 主は、冬子が道をそれて見に来るのを御覧になった。 神は水の間から声をかけられ、「冬子よ、冬子よ」と言われた。 彼女が、「はい」と答えると、神が言われた。 「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立って入る場所は聖なる土地だから」 神は続けて言われた。 「わたしはあなたの父の神である。天照大神の神、須佐乃男命の神、鬼神冬子の神である」 冬子は、神を見ることを恐れて顔を覆った。” 神の山とは剣山だ。 天照大神の神とは太陽のことだ。 須佐乃男命の神とは地球のことだ。 冬子の神とは月のことだ。 日本という国はアジアの一国なのか、それとも、東洋の一国なのか。 紀元前13世紀末から前9世紀にかけて地中海東部に栄えたフェニキア人が、彼らの国から東の方はフェニキア語で“Açu(日の出る国)”と呼んだのが“アジア”の語源である。 一方、彼らの国から西の方を“Ereb(日の没する国)”と呼んだのが、ヨーロッパの語源だ。 時代は遥か下って、古代ローマ時代、そして紀元7世紀以降に勃興したイスラム文化によって“Orient”という語が生まれた。 最近まで中国においては、日本人のことを「東洋人(トンヤンレン)」と呼び、日本の帝国主義が隆盛を極めた頃には、彼らは日本人を「「東洋鬼(トンヤンクイ)」と蔑称していた。 日本において「東洋」なる概念が誕生した過程を見ると、「西洋」をはじめに定着させ、それに対比して「東洋」を置き、そこから日本を除外するという形でできたものである。 如何に、明治以降の日本が急激な西洋化(Westernization)を図ったかを物語る。 そういった日本事情の中で、「東洋(Orient)」と訳されるようになって行った。 まさに自民族中心の観点から発生した語であり、中華思想と何ら変わりはないわけである。 “Orient”も、言語学的にはラテン語の“Oriens(日が昇る=rise)”から来ている。 “Occident(西洋)”がラテン語の“Occidens(日が没する)=fall)”から来ているのに対比する。 古代ローマ帝国時代、イタリアを中心にバルカン半島から北アフリカ、西アジア地域までが“Orient”と呼ばれ、その後漸次その領域は、更に東へ拡大していき、7世紀以降勃興したイスラム文化がその正統性を継承しているのだ。 従って、本来の“Orient”とは、エジプト、パレスチナ、シリア、メソポタミア、小アジア、アルメニア、イラン、アラビア半島までの地域を包摂し、広義には、これにインドや北アフリカまでを加えるわけで、「東洋」を以って“Orient”とするのは誤解を招く。 日本という国のルーツは複雑だ。 日本の正史である「記紀」は明らかに聖書の話を模写した日本神道の影響を受けたものである。 畢竟、日本神道はユダヤ教や原始キリスト教(景教)の影響を受けた宗教と言える。 日本神道の中心にいたのが物部一族だ。 他方、仏教の中心にいたのが蘇我一族だ。 古事記は奈良時代の歴史書であり、天武天皇の勅命で稗田阿礼(ひえだのあれ)が誦習した帝紀や先代旧辞本紀を元明天皇の命で太安万呂(おおのやすまろ)が文章に記録し和銅5年(712年)に献進したものだ。 日本最古の歴史書で、天皇による支配を正当化しようとしたものであり、上巻は神代、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事を収めている。 日本書紀も奈良時代の歴史書であり、六国史の第一にあたる。 舎人(とねり)親王らによって編纂され、養老4年(720年)に完成した。 やはり、帝紀や先代旧辞本紀のほか寺院の縁起、諸家の記録、中国・朝鮮の史料などを多く用いた純粋歴史書だ。 神代から持統天皇までを記している。 しかし忘れてはならないのが天皇記と国記だ。 推古28年(620年)に聖徳太子と蘇我馬子によって編纂されたもので、「記 紀」よりも古いが、皇極4年(645年)に起きた乙巳(いつし)の変で焼失した。 乙巳(いつし)の変とは、誰もが知る「大化の改新」へと繋がる事件だ。 中大兄皇子と中臣鎌足らが飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で、蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷も自害してクーデターを成功させたのが乙巳(いつし)の変であり「大化の改新」だ。 日本の歴史は、日本神道、つまり、ユダヤ教や原始キリスト教(景教)の影響を受けた時代と、仏教の影響を受けた時代とに二分され、天皇家も同じように二分される。 万世一系など及びもつかない。 聖徳太子が小野妹子を遣隋使として派遣した際に持参させた隋の皇帝・煬帝に宛てた書状は有名だ。 「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)と書かれている。 まさに日出ずる処の日本とは“Açu(日の出る国)”である。 まさに日出ずる処の日本とは“Oriens(日が昇る=rise)”である。 推古15年(607年) 聖徳太子は小野妹子に国書を持たせて大唐(モロコシ)に遣わした。 倭王から隋皇帝に宛てた国書を見た第二代皇帝の煬帝は、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に、“無礼な蕃夷の書など今後自分に見せるな!”と立腹したと日本書紀は言う。 倭王とは推古天皇のことなのか。 倭王はその後、推古23年(615年)に第5回目の遣隋使を派遣している。 推古天皇が即位して、すぐに、聖徳太子が皇太子になった。 推古天皇の子供の竹田皇子がいたはずなのに、聖徳太子が皇太子に選ばれたのはあまりにも不自然だ。 聖徳太子に纏わる不自然な事件は枚挙に遑がない。 そのために聖徳太子の偉大さを書く必要があったようにしか思えない。 隋の皇帝・煬帝は、聖徳太子に何か気を遣っているようだ。 隋をはじめ古代の中国王朝は、日本から絹を輸入していた。 絹は弥生以前から日本では作られていて、中国そして、全世界に輸出されていたのだ。 隋書は言う。 遣隋使を派遣した倭王の姓は阿毎(あごと)、字は多利思比孤(たりしひこ)という男子の名前だ。 推古天皇は女帝だ。 字に「彦」がつくと男子であり、字に「子」がつくと女子であることは、現代日本社会にまで継承されている。 阿毎多利思比孤(あごとたりしひこ)とは聖徳太子その人だったのである。 では何故? 今その謎が、リエによって解かれようとしているのだ。 1922年11月17日。 神戸港に到着したアルバート・アインシュタインは、当日は京都に泊まり、翌18日午前9時15分の特急で東京に向かった。 午後7時20分に東京駅に着いた彼は宿泊先の帝国ホテルで夜を徹して翌日の講演会の構想を練った。 1922年11月19日。 彼が日本ではじめて講演する会場は慶応義塾大学の三田大講堂だった。 前日の新聞に掲載した告知広告には、こんな文言が記されていた。 「注意・同講演はアインスタイン教授の希望に依り長時間にわたる見込みなれば、パンの用意ありたし」 午後1時半から講演がはじまった。 “世界の未来は進むだけ進み、 其の間、幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れる時がくる。 其の時人類はまことの平和を求めて、世界的な盟主を崇めなければならない。 この世界の盟主たるものは武力や金力ではなく、 あらゆる国の歴史を抜き超えた最も古く、また、最も尊い家柄でなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。 それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。 われわれは神に感謝する。われわれに日本という尊い国を作って置いてくれたことを・・・” 100年以上も前にアインシュタインが世界に向かって予言として送ったメッセージが、いまリエの口から月からのメッセージとして発信されたのである。 |