第三十六章 天変地異

“世界の未来は進むだけ進み、
其の間、幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れる時がくる。
其の時人類はまことの平和を求めて、世界的な盟主を崇めなければならない。
この世界の盟主たるものは武力や金力ではなく、
あらゆる国の歴史を抜き超えた最も古く、また、最も尊い家柄でなくてはならぬ。
世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。
それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。
われわれは神に感謝する。われわれに日本という尊い国を作って置いてくれたことを・・・”

アジアとは、“Açu(日の出る国)”のことだ。
ヨーロッパとは、“Ereb(日の没する国)”のことだ。
アジアとは、“Oriens(日が昇る=rise)”のことだ。
ヨーロッパとは、“Occidens(日が没する)=fall)”のことだ。
“Açu(日の出る国)”の高峰が日本、つまり、日の本ということだ。
地球は球体だから必ず中心がある。
厳密に言えば、楕円体だから中心は二つある。
“Açu(日の出る国)”の高峰と“Ereb(日の没する国)”の高峰が、二つの中心である。
世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。
それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。
まさに円回帰運動だ。
日本の真の歴史を知ろうとすれば、四国を知らなければならない。
四国は死国であるように、日本の醜悪な出来事はすべて死国に封じられているからである。
表の歴史が建前だけの偽善の歴史なら、裏の歴史は醜悪な真実の出来事の歴史である。
人類の歴史を学問として捉えるか、反省として捉えるかによって、人類の未来は決定する。
錯覚生き物・人類が、妄想生き物・人間に劣化した最大の原因が、歴史の捉え方にあったのだが、その元凶が支配・被支配二層構造と世襲・相続の差別制度を構築したオス(男性)社会にある。
二十一世紀が、人類の新しい一歩の走りになるか、嘗て恐竜が「強者必滅の原理」によって絶滅していった二の舞を踏む一歩の走りになるのかを決定づけるのが、歴史観のどんでん返しに依ると言っても過言ではない。
四国に目を向けることは、古来、徹底して忌避されてきた。
江戸時代以前まで四国を支配してきた忌部一族の歴史は、まさに、裏の歴史に他ならない。
大和朝廷時代には、中臣氏(大化の改新以降、藤原氏となった)と並んで祭祀を司った一族であり、平安初期には忌部を斎部と改称した。
現在でも、斎場とは葬儀を行う場所を指し、喪中のことを「忌中」とも言う。
日本の歴史は祟り信仰の歴史と言われる所以だ。
祟り信仰の中心が死国、つまり、四国なのである。
三木家の前に立ち、白人神社を仰ぎ見ながら、リエの身に一体何が起こったのか。
「わたしはあなたの父の神である。天照大神の神、須佐乃男命の神、鬼神冬子の神である」
天照大神の神とは太陽のことだ。
天津神とは、まさに、太陽の「想い」である「イシキ」のことに他ならない。
須佐乃男命の神とは地球のことだ。
国津神とは、まさに、地球の「想い」である「カミ」のことに他ならない。
2001年4月1日に鬼神四郎に降臨した国常立命(クニトコタチノミコト)は国津神の高祖であり、地上に降り立ったのが、須佐乃男命その人である。
地球上の生き物は、太陽と地球によって生かされている。
地球あっての物種であり、太陽あっての物種である。
ここのところが微妙だ。
地球上に存在するものはすべて地球あってのものだが、地球は太陽あってのものでもある。
では、我々人間は太陽の恩恵が先ずあるのか、それとも地球の恩恵が先ずあるのか。
日本神道における天津神と国津神の存在は、太陽と地球と人間の関係を象徴的に表わしたものである。
世の中が無事なのは天津神の世を意味し、世の中が有事なのは国津神の世を意味すると日本神道は伝えてきた。
無事と有事を繰り返す。
ところがそれでは済まなくなって来た。
鬼神冬子の神とは月のことだ。
月の「想い」である「テンシ」は、無事も有事も超えた超事の世の神なのである。
超事の神のメッセージが、リエを通して送られて来たのである。
天津神が太陽の「想い」であり無事の世の神ならば、国津神が地球の「想い」であり有事の世の神である。
無事と有事。
無と有。
まさに二元論世界だ。
まさに運動世界だ。
だが、
二は一あっての物種だ。
運動は静止あっての物種だ。
人間の世界だけに数があり、数を表現するのには多くの種類の方法がある。
一種の言語だ。
他の生き物の世界にも言葉はあるが、一種類だけしかない。
カラスの言葉に地域差はない。
アメリカにいるカラスは英語を喋るわけではない。
トラの言葉に地域差はない。
中国にいるトラは中国語を喋るわけではない。
人間社会には五千種類の言語がある。
人間だけが二元論世界に生きている証だ。
他の生き物は一元論世界に生きている証だ。
数を表現するのも一種類ではない。
二進法、八進法、十進法、十二進法、十六進法とあり、十進法を使う国もあれば、十二進法を使う国もあれば、十六進法を使う国もあるが、基本は二進法だ。
つまり、0か1だ。
0の次は1で、1の次は10で、10の次は11で、11の次は100といった具合だ。
つまり、1か2だ。
1の次は2で、2の次は21で、21の次は22で、22の次は211といった具合だ。
結局の処、
1、2、3、1、2、3、1、2、3の繰り返しだ。
1=3だ。
一元論の次は二元論で、二元論の次は三元論だ。
無事と有事の次は超事だ。
太陽神と地球神の次は月神だ。
500年前までは「天動説」が常識の世界だった。
今では「地動説」が常識だ。
だがその常識を体感している者は誰もいない。
体感は依然「天動説」である。
体感とは体験・経験と言い換えられる。
常識とは理論・理屈と言い換えられる。
太陽神の世は「天動説」が常識の世だ。
地球神の世は「地動説」が常識の世だ。
月神の世は「地動説」が体感できる世だ。
主体が客体でもある時代だ。
主観が客観でもある時代だ。
これまでの人類は、自分、つまり、主体と、他人、つまり、客体を同じ世界で扱ってきた。
これからの人類は、自分、つまり、主体だけの世界で、他人、つまり、客体は別世界として扱うことになる。
我々は太陽を眺めてきた。
我々は、月を眺めてきた。
だが、地球を眺めてはこなかった。
これからは、地球を眺める時代だ。
それが月の時代である。
月の最大の特徴は、自転と公転が1対1だということだ。
地球の衛星である月のみならず、他の惑星の衛星の自転と公転はすべて1対1である。
つまり、尽数比だ。
英語ではResonanceだ。
つまり、惑星と衛星は反響し合っているというわけだ。
つまり、地球と月は反響し合っているというわけだ。
平均寿命80年の人間の一生は、太陽上では約5秒の感覚だ。
ブラックホールでは約1秒だ。
地球上の人間が月に移動していく理由がここにある。
太陽がブラックホールになり、地球が太陽のような恒星になると、時間の感覚がまったく変ってしまう。
だから軽い月に移動する訳である。
地球人のままでいると、自分の時間の感覚が蟻の時間の感覚のようになってしまう。
そうすると、命を粗末に扱うようになる。
今でも時間の感覚の変化が刻一刻変化しているため、人間は命を粗末にするようになってきている。
このまま地球上に居続けると、人間はますますその傾向が強くなる。
だから月に移住しなければならなくなる。
他の有機生命体にも同じことが言えるが、人間もこれからどんどん重くなっていき、その都度、時間の感覚が速くなっていく。
地球がそうであるように、人間の肉体も重くなっていく。
畢竟、人間の「想い」は、何でも自分のものとして蓄積する欲の「心」が原因になっていく
月に行けば必然的に軽くなるから、欲の「心」も軽くなる。
問題は地球にいる人間の「心」の重さが、このままではどんどん重くなっていくことにある。
有機生命体は次に移動する星にエネルギーを供給する義務がある。
太陽が地球にエネルギーを与え続けているように、地球はいずれ月に移住する有機生命体を通じてエネルギーを供給していかなければならない。
我々人間にとって忘れてはならないことだ。
地球上の有機生命体の代表である人間が月に多くの宇宙飛行士を送ってきたのは、将来、月に住むための条件などを調査するためだ。
一番の条件は、肉体レベルが神体レベルに達していることである。
4種類のレベルの人間がこの地球上に存在する。
肉体のみを自分だと思っているレベル。
アストラル体までを自分だと思っているレベル。
メンタル体までを自分だと思っているレベル。
これらのレベルは基本的に肉体のみを意識していて段階の差だけである。
この上に、肉体と精神との二重構造になっているものを自分だと思っている神体レベルがある。
神体レベルまで達していないと月に住むことはできない。
地球上には80億を超える人間がいる。
神体レベルまで達している人間は1%もいない。
最終的には4分の1ぐらいまではそのレベルまで持っていかなければならない。
50年以内、つまり、今世紀中に人間を中心にした有機生命体は地球から月へ移住することになる。
ノアの箱船にそれぞれの動物が生き延びるためにオス・メス番で乗せられたのと同じように、月への移動がこれから起こってくる。
このままでは今世紀中には人間の数は恐らく100億を超える。
人間の消費するエネルギーは一日約2万キロカロリーで、恐竜とほぼ同じだけの活動エネルギーを消費している。
自分の体だけなら最低2千キロカロリーでいい訳だが、現代の人間の活動エネルギーとなると、自分の体を最低限維持するエネルギーの10倍は使っている。
病院で入院している患者の最低必要カロリーが約2千キロカロリー程度であり、普通に日常活動している人間は自分の体だけではなく、いろいろな道具を駆使して高い効率の仕事をしているわけで、その活動エネルギーは優に10倍の2万キロカロリーは使っている。
巨大な恐竜の活動エネルギーに匹敵する80億以上の恐竜が、現在でも地球上を闊歩しているわけだ。
地球の大きさの約4分の1の月では、100億の人間を収容するなど到底不可能であり、他の有機生命体とのバランスを考えたら精々10−15億人が妥当である。
現在の人口でも7分の1、50年後を考えると10分の1程度の人間しか月に移住することは出来ない。
「テンシ」の役目がそこにある。
地球自体に有機生命体が完全に住めなくなるというわけではない。
地球上の有機生命体が48個の法則から96個の法則である月に馴染むことが出来るものと出来ないものとがあるからだ。
進化した有機生命体が月に移動することは、更なるステップである月から絶対宇宙への回帰という段階でどうしても必要なのだ。
地球に留まる有機生命体と月に移動する有機生命体とに分割される。
そうすることによって、瀕死の状態である地球も回復して地球から月、月から絶対宇宙という流れを回復させる。
地球から月に移動する有機生命体の代表格である人間は、今まで住んでいた地球レベルのままでは月には住めない。
月の大きさから考えてもせいぜい10−15億人が限界である。
今の地球に住んでいる人間の10人に1人ぐらいしか月への切符を手にすることは出来ないわけだ。
月への切符を手にすることが出来る人間と、そのまま地球に留まって瀕死の状態の地球を回復させる人間との違いは、是々非々の問題ではなく、48個の法則しかマッチできないものと、96個の法則までマッチできるものとの違いだけであって、ある意味で多様化に対応出来るか出来ないかの違いである。
地球に住んでいる人間でも、年老いたものと、若いものとの間ではギャップがどうしても起きる。
若いものは新しいものに対応する柔軟性を持っているが、年老いたものはなかなか対応出来ないのと同じことが地球人と月人との違いである。
その区分け作業がいよいよ始まるのだ。
自分は地球人なのか、それとも月人なのか。
それは精神性のレベルにかかっている。
月は地球の約4分の1の大きさである。
比重が同じだという条件で月は地球の約64分の1の重さになる。
星の自転速度はその星の重さに比例するから、地球上の人間の平均寿命が80年とすると、月での人間の平均寿命はその64倍の5000年になる。
この5000年という数字は非常に象徴的だ。
キリスト教では1000年をひとつの単位として人間の進化を定義している。
地球上での人類文明の歴史は約5000年と言われているのも、そこから来ている。
あと50年で地球人類は月に移住する。
人類の終焉を意味しているのだ。
宗教では、生まれ変わる、いわゆる転生輪廻を信じているが、決してそうではない。
有機生命体としての肉体は80年で消え去るが、精神は5000年生き続ける。
それを転生輪廻と言っているだけだ。
実は永遠の命ではなく5000年の命なのである。
地球は重いから、肉体はせいぜい80年で金属疲労してしまう。
交換する肉体がいる。
そして新しい肉体でまた80年生きる。
これを約60回繰り返して最後には肉体も精神も死ぬ。
それが本来の人間の一生なのです。
ところが月で住むようになると、肉体も5000年間生き続けることができるようになる。
肉体一生、精神一生の人生を送るようになる。
そうすると、子孫をつくる必要性が減少する。
80年の肉体の一生だったから、子孫を残して5000年の精神を維持する必要があったが、肉体が5000年生きられたら5000年に1回子孫を造ればよい。
動物には年に1回の発情期があって、その時以外は、オスもメスも発情しないようにできている。
人間だけが一年365日発情している。
これが人間同士、ひいては他の動物にも重大な危機を呼んでいることが人間には解っていない。
5000年に1回発情すればよい。
そうすれば性欲がなくなり、ひいては他のお金や、食べ物や、名誉、権力の欲も基本的には性欲が根底にあるから、性欲が5000年に1回しかおこらなければ、人間の煩悩は殆ど消えてなくなる。
それが月人間の特徴であり、地球人間にとっては考えられない世界である。
5000年も生きるということは、地球の人間のように頻繁に苦労を重ねることはあまりにも厳しい要求になる。
月人間の一生は地球人よりも実に快適な人生が待っている。
それだけに月への切符を入手する条件も厳しい。
地球上で80年生きては肉体を替える人生を64回繰り返すか、それとも一気に5000才の人生を生き抜くかは、それぞれの人間の精神性にかかっている。
肉体を替えては精神を生き続けさせるのは、それだけ精神性が劣っているからであり、精神性が5000年間変らず生き続けることが出来るなら何ら問題はない。
嘗て地球の臍であった日本は、地球の軸が移動する前は北極の位置にあった。
現在の本当の北極の位置も実は2000KMほどずれたカナダという地域の北部にある。
地球の軸がずれるごとに極の位置も変る。
南極も嘗ては温暖地域であっていろいろな動物が住んでいた。
更に地球が重くなっているから自転速度が速くなっている。
人間の一日の時間の感覚は、昔より間違いなく速くなっている。
自転速度がスピードアップすると赤道周辺の遠心力が一番強いため膨張して楕円になっていく、つまり、楕円度がますます大きくなっていく。
楕円になると中心はふたつになる。
楕円になっている地球の軸は1本ではない。
いずれ地球も円盤のような形になっていくだろう。
そうするとそこに住む有機生命体の環境条件もかなり厳しいものになっていき、精神性を高めることで月に移住できる準備をさせておく必要がでてくるわけだ。
人間の場合、80年の一生で、肉体が成長するのは精々15才から20才ぐらいまでで、あとは後退一途といわれているが、これは明らかに錯覚である。
80年も生きられるのに最初の20年で成長が止まり、あとの60年は退化していくという、これは理論的にもおかしな話だ。
20年で成長という上昇傾向が止まるなら、退化という下降傾向も同じ20年で止まる、つまり、そこで死ぬということになるはずだ。
100年以上前までは50才が平均寿命だった。
開発途上国では50才以下の平均寿命の処がたくさんある。
80才まで生きることが出来るなら、40才までは成長しなければおかしい。
しかし現実は、40才になると、かなり退化している。
本来なら40才から50才で死ぬべきところ、医学という人工的な技術によって無理やり40年命を引き延ばしているのが理由だ。
そのお釣りが50才台に出てくる。
病気に悩まされ、精神的悩みも加わって、現代人にとって一番厳しい年代と言える。
それなら理論通り、40から50才で死んだ方がバランスのとれた一生だと言える。
本来は5000年まで生きることが出来る。
それなのになぜ80年程度しか肉体は生きることが出来ないか。
肉体的にも精神的にも無理をしているからである。
宇宙の法則通りに生きていれば5000年なんて簡単に生きることが出来る。
地球上の大気、特に酸素が齎す酸化作用が障害になっている。
人間は酸素がなければ生きられないが、酸素がある故に生きることをも邪魔されている。
酸素は本来、毒物作用の強い元素であり、毒物作用の強い酸素を食べて生きているのが人間なのだ。
植物は炭酸ガスを食べて、酸素という毒物を吐き出している。
酸素が肉体に入れば、肉体は酸化作用を起こして、いろいろな毒性酸化物を体内につくる。
そして肉体を退化させていく。
この毒性酸化物をつくらなければ、人間の寿命は簡単に100年や200年延ばすことが出来る。
毒性酸化物をつくる環境に最も適しているのが、欲望が渦巻く生理状態の時だ。
特に性欲をもよおした時の酸化物の生成は象一匹を即死させるほどの量である。
性欲というのは、子孫をつくるための発情とは性質が異なり、生理作用ではあるが、低レベルの精神からもよおすものだ。
脳から首の辺りにある肉体とアストラル体とのブリッジのところで発生するのが性欲である。
心臓の裏側にあるブリッジを通ってくるエネルギーはその性エネルギーを中和させる働きを持っていて、このバランスが上手くとれているのが自然の動物であり、それが発情期のときだけ性エネルギーが溢れ、その溢れた分だけ放出すれば、またバランスがとれるようになっている。
動物は発情期に溢れた性エネルギーを放出できている方が、生命エネルギーの変換がバランスよくとれていて寿命は延びる。
そして発情期のサイクルが長いほど寿命は延びる。
息のサイクルがゆったりと長いほど寿命が延びるのと同じ原理だ。
酸素の取り過ぎは良くない。
月はその点最適な環境だと言える。
地球でも、肉体の成長をできるだけ延ばすためには、酸素をできるだけ体内に入れないことだ。
生命有機体は酸素がなくても生きてゆける。
酸素は生命エネルギーを運ぶ単なる乗り物に過ぎない。
酸素の代わりに生命エネルギーを運ぶ乗り物を見つければいいわけだ。
母親の胎内にいる赤ん坊は酸素を吸っていないが生きている。
母親から直接生命エネルギーをもらっているからだ。
インドのヨガの行者で何十年間も土中に埋められていたのに死なずに生きて生還したという実話もある。
生命エネルギーを吸収することができれば命は保たれる。
月には生命エネルギーが無尽蔵にある。
月が有機生命体にとって最適な環境である所以だ。
実は地球にもその乗り物が存在する。
それを上手く利用すれば、地球上でも1000年単位の寿命を持つことができ、肉体も1000年ぐらいまでは成長することができる。
インドには1000才を超えた仙人が今でも生きている。
地球上でも5000才まで生きることは可能だ。
だが地球の環境はますます悪化している。
だから月に移動するしかない。
欧米社会を中心に世界の一大宗教になったキリスト教の原点になる新約聖書の最後に「ヨハネの黙示録」というものがある。
神の子と称するイエス・キリストが救世主として出現した年代を起点にして、世界の変遷を一千年単位で捉え、救世主出現前の一千年を暗黒の一千年とし、神の子である救世主が現れて世を糾す。
次の一千年を灯りの一千年として祝福されるが、またまた人間は堕落していき、次の一千年はまた暗黒の一千年になる。
そしてまたその一千年の終末に救世主が再び現れる。
それが、まさに二十世紀から二十一世紀に移る狭間の現代と言えるわけだ。
堕落した人間を大掃除する七人の使者が天から降臨して、世界に天変地異を起こし、堕落した人間がお仕置きを受けて消滅することを予言したものである。
この中で、獣の666という表現が出てくる。
これは何を意味するかというと、人間の種類を三種類に分けている。
ひとつは、神性に目覚めた人間のことを指していて、そういう人間は1、4、7という数字を好む傾向がある。
一は絶対なる唯一の神を意味し、四はその神の子を表し、七はその使徒を意味する。
七つの大罪とか、七人の使者などと七を非常に重要視する。
西洋社会にあるラッキー7という考え方はここから来ている。
ひとつは、善性に目覚めた人間のことを指していて、そういう人間は2、5、8という数字を好む傾向がある。
つまり性善説をベースにした人間である。
そして最後が、3、6、9という数字を好む傾向のある人間で、唯物的人間を指しており、性悪説をベースにした人間を言う。
その3、6、9の数字を獣の数字666と表現しているのだ。
この3、6、9の数字を好む唯物的な人間がお仕置きを受けるというわけだ。
黙示録で、×印をつけられているのが、この獣の数字666という表現で示されている偶像崇拝の唯物的人間を言っている。
大事なのは、数字の好みで判断するのではなく、あくまでこれは象徴的に言っているわけであって、精神性を無視したような人間はどうしても悪をばら撒くことをしてしまう。
それが獣的だから獣の数字と言われているらしい。
二十世紀が終わって、まさに暗黒の一千年が終末を遂げた。
これから、いよいよ、黙示録の予言通りのことが起きるかどうかは、人間そのものの精神性にかかっている。
そして、また救世主が現れるかどうか、これも人間ひとり一人の精神の中に救世主の考えと一にするような精神の向上があるかに掛かっている。
二十一世紀は、×印の人間を篩にかけて、来る月への移住の準備に入る時期なのだ。
現代において×印の典型的な人間とは一体どんな人間なのか。
唯物的といっても二千年前と現代では物質文明も大きく違っている。
現代における唯物的発想は、生き残るための食べ物の確保といった単に物の豊かさを求めるのではなく、自分の生命の永続性を求める子孫繁殖の欲望が根底に流れている。
本来5000才まで生きることが出来る人間が、精々100才生きるのも難しい現在の地球環境下では、生命の永続性を保持するためには何度かの肉体交換が必要になってくる。
それが、生理学上及び生物学上では子孫繁殖の欲望になる。
人間にとって最大の×印の要因は実は過大なる自己保存の欲望なのだ。
一般的には逆で、愛の営みであるセックスが煩悩の原点であるように思っている人間が多い。
特に宗教者は禁欲主義をモットーとして愛欲を避けてきたが、それは大きな錯覚だ。
問題は子孫繁殖の本能欲にあったわけだ。
本来5000才まで生きることが出来る人間が、外部要因で肉体は精々80年ぐらいが限界になってしまっている。
5000才まで生きようとすると何十回も肉体を交換しなければならない。
これが子孫繁殖の本能欲の正体なのである。
これは、本来間違った考え方だ。
精神性の向上を常に図っていれば、ひとつの肉体で5000年は保てるのであるが、そうすると個人差ができて、繁殖能力の強い弱いが結果として出てくる。
当然、繁殖能力の高い人間は何事につけても重用され、それを求めてお互い戦うことになる。
ねずみや猿の世界と何ら変らない。
猿山の新しいボス猿は前のボス猿の子供をぜんぶ噛み殺すが、殺された子猿の母猿は進んで新しいボス猿の求愛を求める。
まさに自己保存本能欲であり、自分が生んだ子猿の死を悲しむ余地などない。
よくよく考えてみれば、人間の歴史も同じだ。
自己保存本能欲の下には、卑小な愛など霞んでしまう。
勘違いしてはいけない。
他の動物がそうだからといって、人間も子孫繁殖の性行為は許されるが、愛欲の性行為は許されないという、旧来の宗教がすべてを狂わせてしまった。
最大の問題は子孫繁殖欲だ。
その結果が80億を超える人口だ。
こんなに多くの数を誇る動物が他にいただろうか。
自然に対する人類最大の造反は過剰な繁殖だ。
これでは地球のバランスが完全に狂ってしまう。
地球は80億の人間がいるだけで生態がおかしくなってしまっている。
いずれその限界点が来る。
100億の人口になったらもう限界だ。
地球上の他の動物はすべて絶滅してしまうだろう。
そして結局、人間も絶滅してしまう。
人間の×印の最大の要因は自己の子孫保存欲だ。
骨肉の争いの原因は自己の子孫保存欲からきている。
肉体の身内より、精神の身内にそろそろ目を向けてもいい時期だろう。
人間にとって肉体の子孫も大切だが、精神の子孫にもっと注目をしなければならない。
精神の子孫という表現は解りにくいかもしれないが、魂を遺伝した関係と言った方がよいだろう。
魂という言葉は欺瞞性に満ちている。
人間の肉体と隔絶された別個のもののような感覚を持つからだ。
精神性を魂としてもよいだろうといった所以がここにある。
「想い」と肉体は不二一体のものだ。
元々はエネルギーである。
水素という元素が変位して、ヘリウム・炭素・酸素・窒素と次から次に二百種類に近い元素が誕生し、更に人間の手で人工的な元素もつくられてきたが、元は水素だ。
水素が他の元素に変位するときに発するのがエネルギーであって、エネルギーがいろいろな形態になると、肉体になったり、「想い」になったりする。
人間にとって問題なのは、肉体の子孫に対する気持ちが強すぎて、魂の子孫のことを大半の人間が知らないことだ。
厳密に言えば、忘れているわけだ。
無いものであれば、知らないと言えるが、厳然と存在しているのに知らないということは、忘れていることに他ならない。
忘れる原因は肉体を交換するからだ。
魂が5000年間生き続けると同時に、肉体も5000年生き続けたら、魂の存在は当然のことのように思えるのだが、精々80年で肉体が消滅して、別の肉体に魂が移動しなければならない。
その時に忘れてしまうわけだ。
況してや、肉体の交換を何十回もやっておれば、その時々の肉体に執着するしかない。
本来は月に移住して5000才の人間になれるのが一番良いわけだが、まだ50年程は掛かる。
では地球に生きている人間はどうしたらいいのか。
肉体が交換される時、つまり、死ぬ時と産まれる時に魂の意識を100%持つことができ、何回肉体が交換されても、魂の存在を忘れず、自分の魂の特性を把握できれば、新しい肉体で更に生きる80年余りの人生における魂の役割、つまり、使命が何であるかが分かってくる。
使命感を持っている人間は、この魂の遺伝性を無意識に分かっているのである。
大事なのは魂の遺伝性を分かって生きることだ。
人間の魂は5000年生きていられるが、肉体は精々100年だから、100年毎に肉体を交換しなければならない。
それが輪廻転生と言われている。
輪廻転生の概念では、魂は永遠のものと思われているが、魂にも寿命があって、それが5000年ぐらいであるわけだ。
魂といっても元々は肉体と同じエネルギーの変位したもので、エネルギーの基は水素が核融合するときに発するものである。
絶対という無から、限りある有が生まれた時に最初に生まれたのが水素という物質である。
宇宙が生まれたということは、水素という物質が無の中から生まれたということに他ならない。
そして水素という物質が生まれることによって空間が生じ、水素が核融合してヘリウムが生まれるときに発生した熱、つまり、エネルギーが空間に充満、そのエネルギーによってどんどん新しい元素が生まれ、やがて有機生命体も生まれた。
エネルギーの変位によって魂というエネルギーもあれば、肉体というエネルギーもあるわけだ。
星の死と生を意味するブラックホールとホワイトホールの相対性と同じように、ブラックホールの宇宙では使用可能なエネルギーが使用不可能なエントロピーになっても、ホワイトホールの宇宙ではエントロピーが使用可能なエネルギーになって(つまり反物質)使用される、つまり、リサイクルされる。
エネルギー不変の法則の所以がここにある。
肉体という形態のエネルギーがエントロピーになると肉体の死が訪れるのと同じで、魂という形態のエネルギーがエントロピーになるとやはり魂の死が訪れる。
肉体のエネルギーは有機物質からできているものだから、エントロピーになるサイクルが短い。
魂のエネルギーは光子体という非常にシンプルな、水素の原子核にある素粒子からできていて、光子体は宇宙に遍在していて、人間の肉体の中に入ってもなかなかエントロピーにならないから、人間の魂でも5000年ぐらいは生きることができるわけだが永遠不滅ではない。
エネルギーはいつか必ずエントロピーになるのだから死はある。
魂にも死がある。
魂と肉体の死が同時であればいいわけだが、肉体は地球上では酸化作用が強過ぎて長く生きられないから、肉体の交換をしなければならない。
肉体の交換をする間、魂は肉体の無い状態でスタンバイしていなければならない。
肉体の交換は、前の肉体の死から、新しい肉体の誕生までの間で行われる。
その間に魂は最適な肉体を探し求めるわけだが、魂の数が多いものだから、すぐに新しい肉体を見つけて交換というわけにいかない。
列をつくって待っているわけだ。
そうすると魂のレベルの高いものが優先的に交換され新しい肉体として生まれてくるのである。
チベットのダライ・ラマの魂を探す慣習もそういった観点から言えば的を射ている。
あの世、この世といっても結局は宇宙世界の中の話だ。
『今、ここ』にある世界が実在の世界である。
車でも故障して、部品の交換もせずに放置しておくと、他のところまで悪くなって、結局は車自体が壊れてしまう。
車自体が壊れてしまうということは、ドライバーである魂が御用済みになってしまう。
では肉体の交換を速やかにする為には、どうしたらいいか。
肉体が生きている間から、次の肉体を用意させておくことだ。
しかし、生きている時に、自分が死んだと同時に生まれようとしている肉体を探しておくことは難しい。
しかし方法はある。
そのためには、自分の肉体が死ぬ時期を知っておくことだ。
自分の肉体が死ぬ時期が分からなければ、新しい肉体を事前に発見しておくことは不可能だ。
自分の死期を知っておく。
このことが生きている人間にとって非常に大切なのである。
四苦八苦という言葉がある。
四苦とは「生老病死」のことを言う。
八苦の残りの四つは、「愛別離苦」、「怨憎会苦」、「求不得苦」、「五陰盛苦」と言って、愛する者と別れなければならない苦、怨み、憎しむ者と出会う苦、求めたものを得られない苦、五陰とは五蘊とも言って、般若心経というインドの聖者が開いた宗教の教えの根本を表現した短いマントラの中で、色、受、想、行、識という五つの人間が生きているときに感じる物質、精神の感覚を指している、いわゆる、五感に振り回される苦と言っていいだろう。
生きるということは四苦八苦することだと教えている。
人間のみならず、生きるものはみんな危険な状態より安全な状態におりたいと思うが、死というものだけは避けられない。
宇宙の星もその「想い」もその法則から逃れることは出来ない。
畢竟、死という絶対なるものを避けたいという不可能なことを可能にしたいという空しい想いからいろいろな苦悩が発生する。
空しい想いというのは、空しいことから逃げようとする想いであることを、よく理解しておくことだ。
空(クウ)とは何もないことであり、それを表から肯定的に言えば、すべてであり遍在することである。
死ぬということは空になることであり、絶対宇宙と一体になってすべてになるということである。
喜びであり快感であることが死の本質なのだ。
男と女の体が愛し合って一体になる時、喜びの快感を得る。
絶対宇宙と一体を感じるのは無上の喜びなのである。
死を恐れているのは死んだことがないからだ。
恐れる根本原因は無知から来ている。
知ったことはもう怖くない。
無知が恐怖の原因であることを理解すると、四苦八苦は苦でなくなる。
病気も四苦八苦のひとつだから、知れば苦でなくなる。
更に、死と病気とは何の因果関係もないということを知る。
病気は車のエンジンのオーバーホールと同じだ。
金属疲労すれば部品を交換して、擦り減ったところは埋めてやり、そしてまたリフレッシュする。
それが病気だ。
病気になるということは生きるために起きる現象であって、死ぬために起きる現象ではない。
ところが病気が死の原因だと誰もが思っているが、これは大きな間違いだ。
死の原因は寿命なのであり、命を全うした時の祝い事なのである。
そうすると病気も死も、苦ではなく、喜びなのだと分かってくる。
生きるということは、危険というワクワクする四喜八喜のエキサイティングな冒険の旅であるわけだ。
安全の中で生きたいのなら死んでいるのと同じだ。
危険の中で生きたいのなら本当に生きていることになる。
生きるということは、愛する者と別れる喜び、怨み憎しむ者と出会う喜び、求めるものが得られない喜び、運命の糸に振り回される喜びなのだ。
そうすると、死んで生まれるという肉体の交換が楽しくできる。
ここが大事なところだ。
人間は死ぬということを一体どのように捉えているのだろうか。
動物は自分が死ぬということを知らない。
危険を察知できる危機管理能力は人間など足下にも及ばないほど鋭いものを持っているが、死という概念は持ち合わせていない。
人間は死の概念を強く持ち過ぎて怯えているのに、普段の危機管理に関してはまったく能天気であり、その中途半端さがいろいろな苦悩を生んでいる。
他の動物と同じように、死の概念無しで生きるなら苦悩はなくなるだろう。
それとも、死と正面から対峙して死の恐怖を克服するかだ。
肉体も「想い」も死はある。
宇宙の星の場合、肉体である星と「想い」の死との間には同時性がある、つまり、星が死ねば「想い」も死ぬ。
太陽系惑星群はあと50億年ぐらいで死んでいく運命にあり、今がちょうど折り返し地点辺りで、人間でいえば40才前後の一番充実した世代である。
肉体としての星と「想い」の死が同時にやってきて、最初は爆発の連続で膨張し赤色巨星になり、そこから一挙に収縮して白色矮星になって、最後には原子核だけが集まった芯だけ残った中性子星からブラックホールになって死んでいく。
その時、超新星としての爆発が起こる。
これがブラックホールからトンネルを通って、ホワイトホールから別の全体宇宙へ出て行くときの新しい星の誕生である。
地球も太陽がブラックホールになるときに同じ運命を辿ることになる。
死というものは、新しい世界(宇宙)への旅立ちでもある。
新しい旅立ちというものは希望と不安が交錯するものだが、その旅がどういうものであるかを知っていれば、不安のないワクワクしたものになる。
死というものを、希望に燃えたワクワクした新しい冒険旅行の始まりだと捉えるべきで、死を恐怖に感じるようなことは一切しない方がいい。
この宇宙での役目を終えたことを満足に感じ、その褒美としてまた新しい冒険の旅に立てる祝いごとだと思うべきだ。
ところが人間は死を恐れ、その恐怖が原因で生きているときでさえもいろいろな苦悩に苛まれる。
これはまったく無駄なことだ。
人間の苦悩は99.99%エネルギーの無駄使いだ。
すべての出来事は起こるべくして起こる必然の現象であり、必然性のベースになっているのが宇宙の法則だ。
歯車の歯一枚という存在に過ぎない人間だけが違った動きなど出来るわけはなく、歯の動きは全体の動きに連動している。
歯一枚という人間の固有の問題などそもそも存在しない。
人間それぞれが苦悩している固有の問題は実体のない幻想であって、宇宙のメカニズムに対する無知からきており、たまたま死の概念を知ってしまったが故に、あれこれと無駄なエネルギーを使って悪循環の「想い」をしている、その悪循環の「想い」こそ「心」なのである。
「心」が、肉体という物質に閉じ込められたとき生じる空間と時間に振りまわされる。
特に時間に惑わされる。
過去と未来というまだ来ぬ、つまり観念だけであって実在しないものに振りまわされて、この瞬間という実在を見逃しているのが「心」なのである。
“世界の未来は進むだけ進み、
其の間、幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れる時がくる。
其の時人類はまことの平和を求めて、世界的な盟主を崇めなければならない。
この世界の盟主たるものは武力や金力ではなく、
あらゆる国の歴史を抜き超えた最も古く、また、最も尊い家柄でなくてはならぬ。
世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。
それはアジアの高峰、日本に立ち戻らねばならない。
われわれは神に感謝する。われわれに日本という尊い国を作って置いてくれたことを・・・”

天変地異も日本から始まり、日本で終焉する。
鉄の雨が日本に降った。
まさに、“Açu(鉄の出る国)”である。
そして、鉄の雨はヨーロッパに降る。
まさに、“Ereb(鉄の没する国)”である。

そしてその後に、月の世が出現する。
まさに、「ヨハネの黙示録」だ。
“イエス・キリストの黙示。
 この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになる、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。
 ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しとした。
 この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人 たちとは幸いである。
 時が迫っているからである。
 ヨハネからアジア州にある七つの教会へ。
 今おられ、かつておられ、やがて来られる方から、また玉座の前におられる 七つの霊から、更に、証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地 上の王たちの支配者、イエス・キリストから恵みと平和があなたがたにある ように。
 わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わ たしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭祀としてくださった方  に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。
 見よ、その方が雲に乗って来られる。
 すべての人の目が彼を仰ぎ見る。
 ことに、彼を突き刺した者どもは。
 地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。
 然り、アーメン。
 神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言 われる。
「わたしはアルファであり、オメガである」”
“ヨハネからアジア州にある七つの教会へ”
アジア州とはどういう意味だ。
「わたしはアルファであり、オメガである」
当時の言葉はラテン語、つまり、古代ギリシャ語であり、ギリシャ語のアルファベットの最初の文字がα(アルファ)であり、最後の文字がω(オメガ)である。
英語で言えば、Aであり、Zである。
日本語で言えば、“あ”であり“ん”である。
最初と最後。
出発点と窮極。
そして、全体・総体を意味する。
畢竟、
主なる神とは全体・総体のことであり、我々人間は部分のことである。
アジア州にある七つの教会とは何を象徴しているのか。
七つの教会とは円回帰運動を象徴している、つまり、八の法則(オクターブの法則)のことだ。
オクターブは永遠の円回帰運動をする。
ド・シ・ラ・ソ・ファ・ミ・レそしてドに円回帰する。
アジア州とは、“Açu(日の出る国)”、つまり、日本のことだ。
“Açu”はフェニキア語であり、フェニキア文字はギリシャ文字に取り入れられ、今日のローマ字の基礎となった。
フェニキアとは、現在のレバノン山脈の西、つまり、シリア地方の地中海沿岸に沿った狭長な地域の古代の称であり、セム系のフェニキア人が紀元前3000年頃に建てたシドン・ティルスといった都市国家の総称であり、航海に長じ、紀元前13世紀から海上貿易を営んでいたが、紀元前8世紀にギリシャの台頭によって次第に衰え、紀元前64年にローマ帝国に併合された。
彼らこそ、ヘブライ人がカナンの地を捨ててエジプトに移住する原因をつくった地中海の海賊(Pirates)ペリシテ人、つまり、パレスチナ人(Palestine)の先祖である。
イスラエル・パレスチナ問題は5千年を超える問題なのであり、その鍵を握るのがアジア州にある七つの教会、つまり、日本なのだ。
天変地異は日本ではじまり、日本で終わる。
日本がアルファであり、オメガである。