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第四十二章 古さと新しさ 流行は繰り返す。 歴史も繰り返す。 20世紀の出来事は、17世紀の出来事の繰り返しに過ぎない。 17世紀の出来事は、14世紀の出来事の繰り返しに過ぎない。 14世紀の出来事は、11世紀の出来事の繰り返しに過ぎない。 11世紀の出来事は、7世紀の出来事の繰り返しに過ぎない。 7世紀の出来事は、4世紀の出来事の繰り返しに過ぎない。 4世紀の出来事は、1世紀の出来事の繰り返しに過ぎない。 イエス・キリストが出現した1世紀の出来事が20世紀で繰り返された。 20世紀の特筆すべき点はここに尽きる。 21世紀の出来事は、15世紀の出来事の繰り返しに過ぎない。 ルネッサンスで始まり、宗教改革で弾みがつき、産業革命で仕上げられた近代の繰り返しが、21世紀に為されるというわけである。 近代社会の幕開けの三種の神器が「ルネッサンス」、「宗教改革」、「産業革命」なら、21世紀に幕開けされる新代社会の幕開けの新しい三種の神器は何になるだろうか。 古代社会、中世社会は、主観の世界であったから、宗教が支配者と匹敵する一大勢力になったが、古代、中世の反動で近代は一気に客観の世界に移行した。 客観性の追求の申し子が、「ルネッサンス」、「宗教改革」、「産業革命」であったわけだが、収斂してみれば、五感の客観性の追求と言える。 古代、中世が五感の主観性の追求であったのに対し、近代は五感の客観性の追求にあった。 宗教が五感の主観性の追求ならば、科学が五感の客観性の追求だ。 流行は繰り返す。 歴史も繰り返す。 21世紀に幕開けされる新代社会の幕開けの新しい三種の神器の核になるのが、五感の主観性の追求への回帰だ。 「アンチ・ルネッサンス」、「アンチ・宗教改革」、「アンチ・産業革命」が、新代社会の三種の神器の核になるだろう。 五感の主観性の追求の始点が宗教ならば、五感の客観性の追求の円周が科学であり、五感の主観性の追求の終点が宗教と科学を超えたものであることは間違いない。 「ルネッサンス」はどうして生まれたのか。 「宗教改革」はどうして生まれたのか。 「産業革命」はどうして生まれたのか。 ルネッサンスの先駆者は13世紀から14世紀にフィレンツェの政治家として活躍したダンテに遡らなければならない。 ダンテは政敵によってフィレンツェを追放され、流浪の旅の途中で「神曲」を完成させた。 ローマの詩人ウェルギリウスが煉獄巡りの案内人となって、魂の浄化をしながら天国へ昇っていく話であり、ローマ古典文学とキリスト教による救済との調和を図った一大叙事詩である。 そんな中で、建築家ブルネレスキがフィレンツェ大聖堂(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)に大ドーム(ドゥオモ)を架けた。 ウェルギリウスがドゥオモを辿って天国へ昇るというわけだ。 ルネッサンスを(文芸)復興と訳されるように、古典古代の時代こそ人間性が肯定されていた理想の時代であり、キリスト教が権勢を誇っていた中世は暗黒時代と考えられていた。 “人間はあらゆるものになる可能性を持っている”と説いた人文主義者アルベルティがルネッサンスの理想である「万能の天才」の先鞭を切った。 その後、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロが「万能の天才」の後継者となっていくのである。 暗黒時代からの脱却。 まさに、21世紀が暗黒時代からの脱却のリバイバル(繰り返し)劇の時代なのである。 天才とは、天賦の才能、つまり、人的努力で賦課され得ない天的能力のことである。 ところが、いつの頃からか、天才とは偏った才能のことだと歪曲されだし、変わって、秀才が人的努力で賦課され得る能力と考えられるようになった結果、「万能の天才」などそもそもないのが常識となった。 絵画の天才。 音樂の天才。 文章の天才。 三大天才である。 科学の世界に天才などそもそもいない。 なぜなら、科学は人の意図が働くからだ。 宗教の世界に人の意図が働くのと同じである。 絵画は映像の世界だ。 音楽は音の世界だ。 文章は味の世界だ。 そこに、匂いの世界と肌触りの世界が混じり合うと、混沌の世界が展開される。 五感が混在すると混沌が発生する。 人類から進化(退化)した人間が混沌の世界に突入したのは、五感が混在した所為である。 犬は匂いの世界に特化している。 だから、喜びの表現を尻尾でする。 猫は肌触りの世界に特化している。 だから、喜びの表現を喉でする。 蟻は味の世界に特化している。 だから、喜びの表現を足でする。 シマウマは映像の世界に特化している。 だから、喜びの表現を肌でする。 では、人間の特化している世界は何か。 何もない。 一喜一憂の表現を無機的にする唯一の生きものだ。 それが、人類から進化(退化)して混沌の世界に突入した人間だ。 差別・不条理・戦争が人間社会だけにある所以である。 五感が特化していないからだ。 器用貧乏とは、まさしく、五感の普遍化の為せる業である。 「万能の天才」が登場した16世紀のヨーロッパで近代化の波が押し寄せた原因がここにある。 欧米社会はいま岐路に立っている。 先進社会が岐路に立っている。 そんな中で、欧米世界に袂を分かつ動きがある。 そんな中で、日米中が新しい世界を構築しつつある。 世界の火種が大西洋なのか、太平洋なのか。 それを決定するのが、2012年に地球が突入したフォトン・ベルトなのである。 地球がフォトン・ベルトに突入して40年近く経過したが、最初の兆候が起きたのが地球温暖化問題とメタンハイドレートの溶解だ。 二酸化炭素を中心にした温室効果ガスが地球温暖化の原因と喧伝されていたが、内実はフォトン・ベルト突入による地球の大気圏の摩擦現象が、地球温暖化の本当の原因であり、合併症状として、海底にへばりついたドライアイス状のメタンハイドレートが解け出し、巨大な量のメタンガスが地上に噴出した結果、動物の生命線である酸素の欠乏と共に、温室効果ガスの一つであるメタンガスが大量に大気に溢れ出したのである。 2000年始め頃から徐々に世界の大気温が上がりはじめてはいたが、まだ、人間社会にさほど大きな影響はなかった。 人間社会が独自に惹き起こした自動車の排気ガスに含まれている二酸化炭素が温室効果を発揮し、大気温を少しずつ引き上げてきたのである。 ところが、2012年12月22日に地球がフォトン・ベルトに突入すると、地球の大気温が急激に上昇をはじめた。 2000年から2010年までの10年の間に起こった地球温暖化は、世界の平均気温が15℃から0.5℃上がっただけであった。 世界の平均気温が0.5℃上がるということは、人間にとって最も快適な生活を送ることができる温帯地域の真夏の平均気温が1℃上がることを意味する。 日本の真夏の秋田の最高気温がそれまで37℃だったのが38℃になり、東京の最高気温がそれまで38℃だったのが39℃になり、大阪の最高気温がそれまで39℃だったのが40℃になり、鹿児島の最高気温がそれまで40℃だったのが41℃になった。 ところが、2012年12月22日に地球がフォトン・ベルトに突入すると、地球の大気温が急激に上昇をはじめ、2013年から2023年までの10年の間に、世界の平均気温が2℃も上がり、更に2023年から2033年の10年の間に更に2℃上がったのである。 結果、日本の真夏の秋田の最高気温がそれまで38℃だったのが45℃になり、平均気温でも35℃、東京の最高気温がそれまで39℃だったのが46℃になり、平均気温でも36℃、大阪の最高気温がそれまで40℃だったのが47℃になり、平均気温でも37℃、鹿児島の最高気温がそれまで41℃だったのが48℃になり、平均気温でも38℃という、灼熱の砂漠の国である中東諸国の真夏並の気温になったのである。 2050年には、日本の人口は9000万人まで減少するとの嘗ての予想を遥かに上回って、2000年には1億3000万人を誇っていた人口は、高々30年強の2033年には半数以下の6000万人まで激減した。 当初の予想では9000万人に達すると言われた2050年には、何と1000万人を割ったのである。 9000万人の予想が1000万人以下の現実になったのである。 まさに絶滅の事態に陥ったのだ。 その原因は、2033年12月31日、午後11時55分に突如東京で起こった鉄の雨であり、鉄の雨も地球のフォトン・ベルト突入が原因だったのである。二十一世紀に突入した2000年には、1億3000万人を誇っていた日本の人口が、2050年には1000万人を割った。 因みに、二十世紀の100年間の世界の人口推移は、1900年には16億だったのが、1950年には25億、1960年には30億、1970年には37億、1980年には45億、1990年には53億、そして2000年には61億に達していた。 二十世紀の後半50年間では、25億から61億というおよそ3倍弱の増加を誇っていた人類が、二十一世紀の前半50年での日本の人口が16分の1まで激減したのである。 2000年に61億に達していた世界の人口も、2050年には16分の1のおよそ4億まで激減した。 人類という地球上最強の生きものが絶滅すれば、人類の下に甘んじている他の生きものたちも先に絶滅するのが、弱肉強食が掟である自然社会の食物連鎖の法則である。 嘗て、6000万年前に、当時の地上最強の生きもの・恐竜が絶滅した物語を再現するのか、知性ある人類が学習能力を発揮して絶滅の危機を回避するのか、そのターニングポイントが2033年から2050年のジャンプの時期なのである。 恐竜の絶滅の物語は、我々人類に深い示唆を与えている。 当時、地球は氷河期に差し掛かっていた。 地上最強の生きもの・恐竜が学習能力を発揮できなかった最大の原因がここにある。 氷河期になると、食物連鎖の法則を維持している自然界は負の循環に入り、自然界の総食べ物量が減少傾向に転じる。 冬になると食べ物が少なくなるから、冬眠をして厳しい時期を凌ぐように、あらゆる生きものが食べる量を制限しなければならない。 贅沢を一度憶えたら清貧に戻ることができないのが生きものの宿命だ。 贅沢を憶えた地上最強の生きもの・恐竜は清貧に戻ることができず、清貧に生きている他の生きものたちを食い散らかした。 「強者必滅の原理」が働いたのである。 2012年12月22日に地球が突入したフォトン・ベルトは地球に氷河期を齎すのか、灼熱期を齎すのか。 1万2000年前に地球がフォトン・ベルトに突入した時には氷河期を齎した。 今まさに、地上最強の生きもの・人類は、恐竜の二の舞をするかどうかのターニングポイントに差し掛かっているのだ。 フォトン・ベルトの信憑性を問わず、46億年前の誕生以来の地球大変動が起きていることは確かだ。 自然の食物連鎖の法則が崩れることは、過去に何度もあった。 ある種が異常発生することは、過去に何度もあった。 法則の本質は変化にあり、「範囲の世界」に基づく。 「範囲の世界」とは、「ミディアムの世界」であり、「運動の世界」であり、「生の世界」のことである。 「公差の世界」とも言えるだろう。 甲乙丙の円回帰循環が法則性の本質である。 ドイツの物理学者ウェルナー・ハイゼンベルグは、甲乙丙の円回帰循環を量子の世界において「不確定性原理」と名づけて理論化した。 まさに、「公差の世界」の話である。 「公差」とは「許容誤差」と言い換えてもいいだろう。 動いているものの位置を決めるには「許容誤差」なしでは不可能であり、止まっているものの速度を決めるにも「許容誤差」なしでは不可能であり、結局の処、近似値を確定値に決め込むしか方法はない。 人類誕生以来500万年なのか、50万年なのか、10万年なのか、それとも文明社会発祥の1万年なのか、近似値を確定値に決め込んだ犯人がいる筈だ。 爾来、我々人類は、錯覚の歴史を辿って来て、現在に至っている。 錯覚の生きもの・人類の歴史だ。 時には、宗教という錯覚の歴史であり、時には、科学という錯覚の歴史であった。 位置を決めるには静止するしかない。 速度を決めるには運動するしかない。 位置と速度を同時に決めることは不可能である。 位置と速度を相対的に観て近似値を確定値に決め込むのが、アルバート・アインシュタインの「相対性理論」である。 爾来、我々人類は、錯覚の歴史を辿って来て、現在に至っている。 「右の世界」と「左の世界」が別々にあるのに、それを「上の世界」と「下の世界」にして一緒の世界にしてしまったわけだ。 「神の概念」はこうして生まれた。 宗教がこうして生まれた。 科学がこうして生まれた。 古代・中世・近代の錯覚の歴史は二十世紀で終わった。 二十一世紀からは、まったく新しい歴史が始まる。 新代の歴史が始まる。 「右の世界」が「実在の世界」 「左の世界」が「映像の世界」 ところが、人類は、「右の世界」を「あの世」として、「左の世界」を「この世」として、「あの世」を「この世」の上に置いてしまった。 「あの世」が「上の世界」 「この世」が「下の世界」 あの世から見れば、我々が生きているこの世は下界というわけだ。 宗教が生き長らえている所以が上下の世界観にある。 上下の世界観が、人間社会だけに支配・被支配二層構造の差別社会を構築させたのである。 差別・不条理・戦争の根源は上下の世界観にある。 宗教が差別・不条理・戦争の根源であったのだ。 我々人類は、宗教が差別・不条理・戦争を解決してくれる唯一の道だと思い込んできた。 政治によって、差別・不条理・戦争が解決されるものではないと、宗教者たちは主張してきた。 だが、差別・不条理・戦争の根源である上下の世界観をつくった張本人は宗教だったのである。 「あの世」が「上の世界」 「この世」が「下の世界」 あの世から見れば、我々が生きているこの世は下界というわけだ。 そして、「あの世」に人知を超えた神や仏がいるというわけである。 だから、我々が生きているこの世は下界というわけだ。 そして、宗教を信じている者だけは、下界と上界を往来できると嘯く。 一般凡夫は下界にいるだけだが、彼らは下界と上界を往来できると騙る。 一般凡夫は彼らに従うしかない。 下界にいるだけの者が、上界を肯定も否定もすることは不可能だからだ。 生きている者が、死んだ後の世界を肯定も否定もすることは不可能だからだ。 それなら言った方の勝ちだ。 それならいっそ、みんなが言えばよい。 “自分も下界と上界を往来することができる!” 誰も肯定も否定もすることは不可能だ。 それなら、すべてが丸く収まる。 人類ひとり一人が教祖になればいいのだ。 誰も彼の宗教を肯定も否定もすることは不可能だ。 それなら、すべてが丸く収まる。 そして、みんながこう言って、宗教そのものが消えてなくなる。 “ああ!ばかばかしい!” 二十一世紀は個人の時代だ。 二十世紀までの近代社会は組織の時代だった。 組織の元祖が宗教である。 中世社会の支配勢力が宗教組織であった反動で、近代社会では、産業の組織化が進み、その延長線上に産業革命がある。 近代化はルネッサンスで始まった。 緒に就く常套手段は、非本質的(non-essential)な面からだ。 だから、芸術の世界から始まったのである。 人間の世界だけは、本質的(essential)な面より、非本質的(non-essential)な面が圧倒的に多い。 自然社会では、非本質的(non-essential)な面など一切なく、在るのは本質的(essential)な面だけである。 自然社会では、衣食住という本質的(essential)な面しかなく、豪華な屋敷とか、大きな車などといった非本質的(non-essential)な面は一切ないが、人間社会では、衣食住という本質的(essential)な面に関心はなく、豪華な屋敷とか、大きな車などといった非本質的(non-essential)な面に対する関心が圧倒的に多い。 だから、中世から近代への緒はルネッサンスといった非本質的(non-essential)な面で始まったのである。 本質的(essential)な面に関心を向けさせず、非本質的(non-essential)な面に関心を向けさせたのが宗教である。 だから、非本質的(non-essential)なルネッサンスの次に起こったのが宗教改革である。 そして、近代化の最後の仕上げが産業革命であり、近代工業化社会が登場したのが、十九世紀後半であり、その先駆者的役割を果たしたのが、十九世紀前半から始まった第二次産業革命だった。 二十世紀に到っても、その科学技術の基礎は、十九世紀前半から始まった第二次産業革命にその殆どを負っている。 すべては、組織の論理から生まれたものだ。 近代社会は組織の時代であったのだ。 ところが、これからは脱組織の時代、つまり、個人の時代がやって来る。 つまり、非宗教、非産業(非科学)の時代がやって来るのだ。 宗教や科学は本質的に非本質的(non-essential)なものだ。 二十世紀までの近代社会がそうであった。 二十世紀までの人間社会は所詮ニセモノ社会だったということだ。 非宗教や非科学が本質的に本質的(essential)なものだ。 二十一世紀からの新代社会がそうなるだろう。 二十一世紀からの人間社会がいよいよホンモノ社会になるということだ。 今までのホンモノは実はニセモノであって、今までのニセモノがホンモノになると言っても過言ではないだろう。 地動説を唱えたコペルニクスやガリレオは当時ニセモノだと弾劾され、死刑の目に遭いそうになったが、彼らはまだ幸運だ。 本質的(essential)なことを主張したイエス・キリストは磔刑という極限のリンチに遭った。 本質的(essential)なことを主張したソクラテスは自ら毒を飲むという死刑の目に遭った。 もうこういった不条理な人間社会は終わりにしなければならない。 そのためには、人間ひとり一人が本質的(essential)なことと、非本質的(non-essential)なことの判断をできるようにならなければならない。 エデンの園にあった善悪の判断をする禁断の実は知恵の実でもあったという。 成熟した知性が知恵であるとするなら、二十世紀までの人類は知恵のない只未熟な知性を有していただけのことで、知性の持つ功罪両面の罪的側面に過ぎなかったと断定せざるを得ない。 未熟な知性という罪的側面をこれ以上助長させるなら、地球温暖化といった全体感の問題に事は発展していくだろう。 「全体と部分の相対性の法則」が厳然と働く宇宙では、部分観の問題である間は、解決方法は見出せるが、全体感の問題に事が発展すれば解決は不可能になる。 必然の世界の問題から偶然の世界の問題にバトンタッチされる、すなわち、有限の世界から無限の世界にバトンタッチされる。 二十世紀までの人類には未知の「超」の世界だ。 二十一世紀からの新人類にとって、新代という「超」の世界だ。 中世は古代にとって新代だった。 近代は中世にとって新代だった。 現代は近代にとっての新代だった。 現代は現代のままだが、いずれは古代、中世、近代のような正式な名前がつけられるだろう。 だが、それは諡(おくりな)だ。 古代が終焉を迎えた時、古代と諡(おくりな)されたが、それまでは現代であった筈だ。 中世が終焉を迎えた時、中世と諡(おくりな)されたが、それまでは現代であった筈だ。 近代が終焉を迎えた時、近代と諡(おくりな)されたが、それまでは現代であった筈だ。 現代が終焉を迎えた時、何と諡(おくりな)されるか、それまでは現代であった筈だ。 現代と新代との相関関係こそが、諡(おくりな)の何たるかである。 現代と新代との間にギャップがあれば、それは諡(おくりな)になる。 現代と新代との間にギャップがなければ、それは新代そのものになる。 古さと新しさの相関関係がこのギャップにある。 二十一世紀のできるだけ早い時期に新代が登場することが、人類絶滅の危機が回避されるバロメーターになる。 いつまでも二十一世紀において現代が継続されるなら、人類絶滅の危機が迫っているバロメーターになる。 古さと新しさを超えた新しい人間社会がいよいよ登場する日が間近に迫っているのだ。 |