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第五章 歴史の偽り マッカーサーがワシントンの国防省・空軍基地から沖縄に飛び立った同じ日に、母親を失って天涯孤独になった石嶺夏子に会いに、ひとりの男が沖縄にやって来た。 海部兵庫。 125代続く天皇家に匹敵する名家・海部家の血を引く人物である。 海部家のルーツは出雲であり、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)伝説で有名な須佐之男命(スサノオノミコト)の五男で末子の大歳(オオトシ)の流れを汲む一族であり、出雲から丹後半島へと流れて居着いた。 更に東へと流れていった一族には尾張一族や諏訪一族がいて、日向の西都原にもその一族の流れは及び、日向の隣の薩摩、そして海を渡って奄美から琉球にまで拡がっていた。 海部兵庫は那覇で生まれたが、旧制一中に入学するために東京に移り、それ以降、沖縄に帰ることはなかった。 旧制一中から一高を経て東京帝国大学に入った兵庫は、法学部に進級する時点で、失踪事件を起こした。 麻布の海部本家邸に居候していた兵庫が二十歳の時である。 何があったのか。 海部一族の人間は誰も知らなかった。 兵庫が麻布の本家邸に再び姿を現した時には、十四年の歳月が経っていた。 何処で何をしていたのか、本人の口から一切の説明はない。 ただはっきり言えることは、軍人になっていたことだけである。 再び姿を現した時に軍服を着用していたからだ。 日本軍の軍服でもない、アメリカ軍の軍服でもない。 特に十数人の部下が彼のボディーガードとなり、厳重な警戒態勢を敷いている様相は、一種異様な雰囲気を醸しだし、一族の者たちは畏怖感を持った。 恐怖感とも畏怖感とも感じさせる彼の雰囲気は、それ以後ますます助長されていった。 天皇家に匹敵する海部家の系図は国宝になっているだけに、天皇家も兵庫の一件には注目していた。 彼が十四年ぶりに姿を現したことを知った宮内庁は、麻布の海部本家に使いを出した。 今上天皇が兵庫を謁見したいと言う。 天皇と兵庫の会見は丸一日に及んだが、会見の内容は誰も知ることができなかった。 天皇との会見後、海部兵庫は「無任所相談役」という訳のわからない役職を宮内庁から賜った。 天津神と国津神という言葉が神道にある。 日本の公式歴史書である古事記と日本書紀いわゆる「記紀」の神話編に登場する、日向の西都原にあった高千穂の峰に降臨した天孫降臨系の神を天津神系と称し、出雲系の神を国津神系として、国津神系の神々が、日の本の国の統治を、天津神系の神々に譲る、いわゆる、国譲り物語だ。 天皇家の先祖が天津神系であり、その始祖が天照大神(アマテラスオオミカミ)である。 海部家の先祖が国津神系であり、その始祖が大国主命(オオクニヌシノミコト)であるが、因幡の白うさぎの物語で有名な大国主命(オオクニヌシノミコト)は、須佐之男命(スサノオノミコト)と大日霊女貴命(オオヒルメナムチノミコト)との間に生まれた三人の媛の末子・多紀理媛の入り婿であり、実権を持っていたわけではない。 実権を持っていたのは、須佐之男命(スサノオノミコト)の末子である大歳(オオトシ)であり、大歳(オオトシ)の流れを汲む海部一族である。 まさに古代の日本の国を天皇家と二分した勢力が海部一族なのだ。 太平洋を眼下に見下ろしながら、マーカーサーは海部兵庫を思い浮かべていた。 「閣下!もうすぐ沖縄です」 パターン号のパイロットが報告のアナウンスをした。 『いよいよ海部と再会の瞬間(とき)がやって来たな!』 南西太平洋方面・連合軍総司令官として東南アジアで日本軍と戦っていた時に、マッカーサーはフィリピンで海部兵庫と会った。 日本軍のマニラ攻撃を受けたマッカーサーは家族を引き連れて、コレヒドール島からオーストラリアに脱出した。 脱出の手助けをしてくれたのが、日本人の海部兵庫だった。 「マック!私は日本の為に、敢えて君を助けるんだ!」 「兵庫、わかっている!必ず戻って来る(I shall return)」 二人は抱き合って別れを惜しんだ。 歴史は過酷な偽りを残す。 ハル国務長官の日米和平提案を理由もなしに退けたルーズベルトは、「一兵も残さずに中国より撤退せよ!」という「ハルノート」を日本に突き付け、真珠湾奇襲を皮切りに、日本人悪人説をでっち上げ、太平洋戦争を聖戦のように捏造した。 ルーズベルトの卑劣な行為に、軍人としてのマッカーサーは怒りを覚えた。 第一次大戦後、一度は退役していたマッカーサーを現役に引き戻したのは、他ならぬルーズベルト大統領だった。 アメリカ国内で絶大な人気を誇っていたマッカーサーに、アメリカ大統領史上初の三選を狙っていたルーズベルトは危機感を覚えていた。 「デビッド!マックをもう一度現役軍人に引きずり出すんだ!」 副大統領のトルーマンがルーズベルトに進言した。 かくしてマーカーサーはアメリカ軍史上初めての二度の大将になったのであるが、ルーズベルトの卑劣な行為を知った時は既に遅かった。 マッカーサーのその後の歴史における悪評は、ルーズベルトの三選の為の生け贄であったのだ。 1950年に朝鮮戦争が勃発すると、マッカーサーは国連軍総司令官として仁川上陸作戦を成功させ、京城(ソウル)を奪還したが、翌年4月11日にルーズベルトの死の後を継いだトルーマン大統領によって更迭される破目になった。 毛沢東の中国への“原爆使用を主張した”のが更迭の原因である。 広島と長崎に原爆を使用する決断をポツダムでした張本人が、マッカーサーを“原爆使用を主張した”という理由で更迭したと歴史は嘯く。 1951年5月3日。 日本国憲法記念日の日に、アメリカ上院軍事外交共同委員会において、マッカーサーは、朝鮮戦争における中国海上封鎖戦略についての答弁の際に、「日本が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだった」と発言し、太平洋戦争が日本の自衛戦争であったことを暴露したのである。 1945年8月30日。 マッカーサーはパターン号に乗って厚木飛行場に降り立つ前に、上空からマニラの海部兵庫に一通の電報を送った。 「不条理な我が国の陰謀の埋め合わせは、わたしが直々に日本に赴いてやります」 マッカーサーが複雑な想いを胸に連合国軍最高司令官司令部(GHQ)の総司令官として日本に進駐した日である。 嘉手納空軍基地に降り立ったマッカーサーは、その足で那覇に向かった。 那覇市内にある首里病院で海部兵庫と会うためである。 彼を乗せた軍用ジープが安謝川の河口を横に見ながら走り抜けようとした時、運転をしていた軍曹が神妙な口調でマッカーサーに言った。 「石嶺礼子が自殺した安謝川の河口です」 マッカーサーは河口の方をじっと見つめながら黙っていた。 『海部兵庫と石嶺礼子は一体どんな関係なのだろうか?』 敗戦国の日本人であろうが、海部兵庫がマッカーサーにとっての命の恩人であることに変わりはない。 マッカーサーを乗せたジープはやがて首里城の真横にある首里病院のロータリーに入って行った。 真っ白な三階建てのビルの正面に、真っ黒なスーツを着た男が立っている。 「海部兵庫だ!」 マッカーサーの手は震えていた。 |