第十二章 新しい世界観

田島八郎は石嶺リエに案内されて、沖縄最南端にあるひめゆりの塔に行った。
太平洋戦争の末期、アメリカ軍は読谷村、嘉手納村、北谷村と繋がる海岸線から上陸、首里城に集中砲火を浴びせながら南進、追いつめられた日本軍は南部へ撤退した。
そこで沖縄住民を巻き込んだ悲惨な戦いが繰り広げられた。
撤退してきた日本軍を洞窟の中で看護したのが、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒たち219名である。
アメリカ軍が打ち込んだガス弾で多くの女子生徒が亡くなった中で、石嶺リエの曾祖母・石嶺礼子がアメリカ軍の兵隊にレイプされる事件が起きた。
その洞窟の上にひめゆりの塔が建っている。
石嶺リエの心の傷は、曾祖母・石嶺礼子がレイプされたことではない。
曾祖母・石嶺礼子を自殺するまで追い詰めたアメリカ人の血が、自分の肉体の半分を占めていることの自虐感からである。
朝目が醒めた瞬間(とき)に最初に目にする自己の肉体。
シャワーを浴びようとバス・ルームで衣類を脱いだ瞬間(とき)に最初に目にする自己の裸体。
沖縄では珍しくない混血娘に対する他人(ひと)の目を感じた瞬間(とき)にふと見返す自己の外観。
夜眠りに就く瞬間(とき)まで一日中続く自虐感が、彼女の心の傷の正体。
女は常に外観を意識する生き物。
女の意識し過ぎる外観が皮肉という悲劇を呼び、皮肉という悲劇が自虐感の正体であることを男は知らない。
男の悲劇はそこから始まる。
まるで鼬ごっこ。
アラブの国ではホモ・セクシャルは常識。
女性に対する熾烈な純潔要求が原因である。
女性を娶るには大金が要るから、お金のない男は結婚することも侭ならず、婚前交渉を絶対禁止する社会慣習と相俟って、男同士の性交渉に走ってしまう。
文明の最先端である欧米諸国でもホモ・セクシャルは常識。
女の意識し過ぎる外観が皮肉という悲劇を呼び、皮肉という悲劇が自虐感の正体であることを男が知ったから。
女に内在する皮肉という悲劇の犠牲になるのは女ではなく、他ならぬ男であることに気づいたから。
田島八郎と石嶺リエは、形而下学的世界では、共に戦う戦士であるが、形而上学的世界では、新しい男と女の世界を築きあげていく共同体の運命を背負った同士である。
男と女がオスとメスの二元論補完関係から運命共同体の有知性一元論関係に回帰するか否かの鍵を握った二人になった。
「おまえの曾祖母がここでレイプされたのか?」
八郎はリエに訊ねたが、リエは黙っていた。
八郎が純粋の男なら、リエの反応を到底理解できない。
純粋の男など不可能な話。
純粋の女など不可能な話。
男の精子と女の卵子で人間が生まれる限り。
オスはそのことをただ知っている。
メスはそのことを熟知している。
女はそのことを膣で知っている。
男はそのことを脳で知っている。
膣で知ることは体験すること。
脳で知ることは想像すること。
レイプされた女の気持ちを男の脳で知ることは不可能な話ゆえ、男は悩む。
レイプされた女の気持ちを女の膣で知ることは可能な話ゆえ、女は悩むことがない。
八郎は黙ってリエの肩を抱いた。
リエは腕をだらりとしたまま、八郎の腕の中に身を任せた。
八郎の為すが儘に我が身を任せたリエのエネルギーがやがて八郎の身に流れ込み、八郎も為される儘に我が身を任せる。
二つのエネルギーの流れが一つに合流すると、エネルギーという川が大海という宇宙に溶け込む。
愛の交歓とはまさにこのこと。
凸が凹の中を弄り侵入するのは愛ではなく、食う食われる捕食行為だ。
一つが二つ、二つが三つ、三つが四つ、四つが五つ・・・と際限(きり)が無い。
二つの川が大海に溶け込むことこそが愛の交歓。
一つが二つ、二つが一つ、一つが二つ、二つが一つ・・・と容赦する。
一つが二つ、二つが三つ、三つが四つ、四つが五つ・・・と際限(きり)が無い愛は、恋愛という自己中心の男と女の愛。
一つが二つ、二つが一つ、一つが二つ、二つが一つ・・・と容赦する愛は、自他の区分けが一切無い人と人との愛。
オスとメスなんて区分けは一切要らない。
一体誰がオス・メスなんて区分けをつくったのか?
地球には自転と公転という二つの運動がある。
月には自転と公転という二つの運動はない。
月にとっては自転も公転も一つの運動。
動いていても動いていない。
自転周期と公転周期が同じ尽数比こそが鍵。
月の世界ではオスもメスもない。
月の「想い」であるテンシが憑依した冬子の世界が、新しい価値観を地球上の人間に創造する。

「ひめゆりの塔」の前で抱き合っていた八郎とリエを遠くから見ていた連中がいた。
“Hey! Japps male and female are hugging!(おい!ジャップスのオスとメスが抱き合っているぜ!)”
リエの体が一瞬震えた。
英語が理解できない八郎でも、奴らが何を言っているのか凡その見当がつく。
沖縄では日常茶飯事の光景である。
本土では戦後だけの光景である。
沖縄は100年近く経った今でも戦後なのだ。
依然戦いの匂いがプンプンする。
リエの容姿に親しみと憎しみを同時に感じた一人の兵士が、八郎を黙殺してリエの腕を掴みかけた。
八郎とその男は、まるで子供と大人だ。
“Hey! Nigger yankee!(おい!そこの黒ん坊!)”
子供のような八郎が、大人のような黒人の手首を捻あげると、“ヒェー!”と悲鳴をあげる。
悲鳴は英語も日本語も同じだ。
理性から発する音は人間だけにある言葉だが、感情から発する音は地球すべてに通用する。
八郎がひとたび行動に移すと、問答無用の結果になる。
“ヒェー!”という生き物の悲鳴が、“ギャァ!”という断末魔の人の声になった。
2メートルを超える巨漢の股座からどす黒い血しぶきが、“サーッ!”という清々しい音と共に吹き出した。
仲間の連中も、一瞬の出来事だったので、何事が起きたのか理解できず呆然と立っている。
問答無用の仕業が続けられる。
アメリカ人にしては「チビ」の部類に入るような白人の男の口に、八郎の口が近づいた。
リエは一瞬嫉妬の念に駆られたが、それも束の間、“ウグッ!”という擬声音が地面を這うように響いた。
八郎の口元から真っ赤な血と、腐ったようなどす黒い肉片の塊が同時に吐き出された。
“ペッ!”
下品な音だ。
“Hey! Japps male and female are hugging!(おい!ジャップスのオスとメスが抱き合っているぜ!)”
ほげたを吐いた男に対する、まさに、“目には目、歯には歯、口には口”のお仕置きだ。
この「チビ」男から口を奪われ、無言の懺悔の人生だけが残された。
人類だけにあるお仕置き。
それが、“目には目、口(歯)には口(歯)、耳には耳、鼻には鼻、舌には舌、肌には肌”である。
旧約聖書にある「戒め」と「目には目、歯に歯」の教義は、人類が五感で以て自覚をしている映像生き物であると示唆している。
錯覚する生き物と言ってもいい。
文明が、科学が進めば進むほど、錯覚が激しくなる。
錯覚は細分化の亢進によって助長する。
文明・科学の進歩とは細分化に他ならない。
細分化が進めば進むほど分裂症状が助長する。
二十一世紀の人類は分裂症状の極致に達しようとしている。
極致現象は破滅兆候に他ならない。
極致現象はアメリカではじまり、日本が追随し、中国が追いかける。
他の国はすべて、その兆候を苦々しく見守る。

“もうやめて!”
リエは八郎に叫んだ。
リエの叫び声だけで八郎は我に帰った。
“そうだね・・・”
囁きのつもりが呟きになっていた。
男と女の境界が失くなった瞬間だった。
囁きのつもりが呟きになった。
“そうだね・・・”
男と女の境界が一朝一夕に失くなるわけがない。
“もうやめて!”
リエの叫び声に我を失いかけた八郎が吐いた台詞を飲み込むわけにはいかない。
我に帰った八郎は、その場を取り繕うことに集中した。
地面を這いずり、のたうち回る大男と「チビ」男に八郎が一言二言囁くと、彼らは痛みも忘れて咄嗟に立ち上がったと思いきや、「ひめゆりの塔」に向かって黙祷をしはじめた。
咄嗟の行動に仰天したリエが彼らに近づこうとするのを八郎は制止して、彼女にも一言二言囁いた。
“自分を失うんだ!”
“他人(ひと)を思い出すんだ!”
八郎の意図を図りかねていたリエに「チビ」男が近づいて何事か呟いた。
“Leave yourself! (自分を失うんだ!)”
八郎と同じことを言う。
“Self-remember! (他人(ひと)を思い出すんだ!)”
八郎の言うことと違うが同じらしい。
一方で自分から離れろと言い、片方では自分に戻れと言う。
三人は明らかに同通している。
日本語と英語の違いがあっても、意志は通じ合っている。
この世の中には訳のわからない出来事が頻繁に起こる。
訳がわからないのは、訳をわかろうとするからであり、訳を訳と捉えなければ、訳そのものが消滅する。
自然の世界は人間にとっては訳のわからないことばかりだろうが、自然には訳のわからない訳が厳然と在り、石ころや岩にも、草木にも、そして生き物にも理解できる訳のわからない訳がある。
人間だけが訳のわからない訳をわかろうとするから精神分裂症に陥る。
日本語の『訳』とい文字は言葉の尺度という意味を語源として持つ。
英語の『訳』は“reason”若しくは“cause”だ。
“reason”は推論するという意味もある。
“cause”は原因と結果の原因である。
我々日本人が使う『訳』は“cause”の方だけである。
もっと“reason”を使わなければ西欧人を理解することは無理。
日本人の本質は短絡的(simple)。
西欧人の本質は懐疑的(skeptical)。
近代世界が西欧社会によって産み出されたのは、彼らが懐疑的だったからであり、明治維新という張り子の虎を金科玉条として守ってきた近代日本の短絡さでは太刀打ち出来なかったのは当然の帰結である。
八郎の言うことを理解する彼らと、八郎の言うことを理解できなかったリエ。
新しい男と女の関係の産声が今まさに発せられようとしていた。

ひめゆりの塔での事件は大きな波紋となって、日本のみならず世界を呑み込もうとしていた。
独善の国アメリカが動き出した。
独善行為は必ず世界を巻き込む結果を生む。
聖書をバイブルとする宗教は独善を生む地盤を潜めている。
地震のメカニズムとまったく同じ。
アメリカの参戦によって二度の世界大戦を二十世紀が生んだ。
オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子暗殺事件に過ぎなかった事件にイギリスとフランスが頭を突っ込むことで欧州戦線となり、アメリカが頭を突っ込むことで第一次世界大戦となった。
ナチス・ドイツのポーランド侵攻がイギリスとフランスが頭を突っ込むことで欧州戦線となり、アメリカが日本と開戦することで第二次世界大戦となった。
独善の国アメリカが動き出すと必ず大戦争になる。
1480年から1941年までの450年の間に、イギリスは78回、フランスは71回、ドイツは23回、日本は9回の戦争をしたが、二十世紀の100年の間でアメリカが戦争をしていなかった平和な時期は5年と続かない。
悪魔の国・アメリカが再び動き出した。
鬼神四郎の出現に呼応するように、アメリカに黒人大統領が出現した。
クレー大統領だ。
彼は太平洋戦争における真珠湾攻撃の真実を公表し、原爆投下と併せて、日本に正式謝罪した。
2024年に日米同盟が破棄され、日本は晴れて世界で第四番目の永世中立国になった時、沖縄駐留のアメリカ軍が撤退したのもクレー大統領が出現したからだが、アメリカ大統領は8年しか続けられない。
2011年12月31日。
アインバーガー大統領の急死によって、副大統領だったシカアス・クレー氏がアメリカ史上初の黒人大統領になった。
2012年1月1日。
クレー大統領は衝撃的な就任演説をした。
「我が国はこのままでは天罰を食らうことは必定であります。まず最大の罪は原爆を日本に落としたことです。同じ白人同士の国なら敵国でも決して落とさなかったでしょう。これは二重の罪であります。ただ肌の色が違うというだけで差別をし、原爆を落とすような国が世界の民主主義国家の代表などと口が裂けても言えません。それを65年間言い続けてきたことは一アメリカ国民として汗顔の至りであります。わたしが黒人であるから言っておるのではありません。わたしはベトナム戦争のとき、徴兵を拒否して参政権を剥奪されたことがあります。
この国のやってきたことは、我が国とその仲間だけを人間とみなし、それ以外の国民は人間と思わない低劣極まりない行為でありました。
懺悔のつもりではありませんが、我が国は他の核保有国に先がけて核を廃絶することを宣言いたします。連邦議会の採決が必要であると思いますが、全員一致の採決が為されるものと信じております。他の核保有国も我々の決定に追従されることを期待するものであります」
アメリカの核廃絶は2年計画で完了すると発表された。
更に、アメリカ合衆国は日本に対しての原爆投下を公式に謝罪し、真珠湾攻撃に関する資料を公開した。
そこには、日本政府が正式に宣戦布告のテレックスを打っていたことを知っていながら、真珠湾攻撃を不意打ちのように見せかける工作をした事実、真珠湾にいた米軍が反撃することを禁止する指令を当時の大統領が出し、騙し打ちによって日本に対する米国民の感情を煽ったことなどが記録されていた。
12月7日の「パールハーバーを忘れるな!」記念日を、「卑劣な罠をしかけたアメリカを忘れるな!」記念日に大統領自らの提案で変更した。
2003年のエンパイアステートビル爆破事件も、真珠湾攻撃でアメリカが仕掛けた罠とまったく同じケースだった。
情報戦を重視するアメリカの得意な戦術で、これはWASPに化けたアシュケナジーユダヤ人だからこそ採り得るタルムード的発想である。
ゲルマンのヒットラー、白ロシアのスターリンでさえも良しとしない卑劣なやり口である。
クレー・アメリカ大統領は人種差別に関しての新しい法律を採択した。
人種差別の発言や態度を表わすだけで厳重に罰せられる。
2012年1月2日。
クレー大統領から鬼神四郎に電話が掛かってきた。
「何故アメリカ大統領から電話がかかってくるのですか?」とマイヤーがしつこく訊いても、四郎はただ笑うだけであった。
2012年1月17日。
今度はインドとパキスタンが突如和解し、両国とも信仰の自由を掲げ、イスラム教もヒンズー教も仏教も、両国の国民は自由に選べるようになり、同じく核の廃絶を発表した。
次々と核保有国の核廃絶決定は連鎖反応を呼びイギリスもフランスも、そして四郎の親友である安田正義の説得で北朝鮮も、核を保有していたことを公開した上で廃絶することを発表した。
核保有国として、唯一残ったイスラエルだけが沈黙を保っていた。
2012年2月28日。
クレー・アメリカ大統領は、イスラエルを説得するためにイェルサレムに向かったが、テルアビブ空港に着く1時間前にヨルダン上空で大統領専用機が爆発事故を起こし死海に墜落する事件が起きた。
『エンパイアステートビル爆破事件とまったく同じやり口だ。あの連中以外には考えられない!』
四郎は確信していた。
『あの連中はニューヨークのことならすべて知り尽くしている。あのビルの爆破はニューヨークのことを余程知らないと出来るものではない。ニューヨークのマンハッタンの地下は地殻構造のようになっている。それでないと、あれだけの高層ビルを密集して建てることは出来ない。それを知っているのは奴らだけだ!』
呼び戻し現象がアメリカに起きた。
人間社会には鬱憤が渦巻いている。
一人の人間に好い人と思われたら、百人の人間に悪い人と思われる。
クレー大統領を悪い人と思っていた百人の人間が動き出した。
アメリカという国は日本と体質が同じで外向き志向の国だ。
同じアングロサクソンのイギリスは中国と体質が同じで中庸の精神を具えていて、極めて狡猾な面を持っている。
クレー大統領の後を引き継いだのは、アンチ・クレー色一辺倒の連中ばかりだった。
鬱憤が今回の事件で爆発した。
バッシュ大統領が日本政府に難癖をつけてきた。