第十八章 空白の4秒(24=16年)

1945年8月6日。
人類史上はじめて人間の住むど真ん中に原爆が投下された。
二十世紀の空白の16年の幕切れに相応しい出来事だった。
その瞬間(とき)から、世界の様相は一気に変わっていった。
世界の主役が宗教から科学に取って代わられた。
人類の文明の歴史は、古代から始まり、中世、近代を経て現代に至っているが、古代、中世の文明の主役は宗教であった。
近代幕開けの三種の神器であるルネサンス、宗教改革、産業革命によって、その主役の座は宗教から科学に移ったかに見えたが、実はそうではなかった。
宗教の力は、依然その後も堅持されていた。
産業革命とは、17世紀から18世紀前半に掛けての第一次産業革命、19世紀半ばから後半に掛けての第二次産業革命に分けられるが、第二次産業革命の方が圧倒的な発明・発見が為され、宗教が科学に本格的に取って代わられたが、実用化にまで至ったのは、1945年4月6日、つまり、二十世紀の空白の16年の幕切れの日以降であった。
本格的な科学の胎動は原爆の実用化で以って始まった。
科学技術の発展は学問研究で以って為されたのではなく、人殺しの道具、いわゆる、大量破壊兵器の開発で為された。
宇宙開発の途中で多くの発明・発見が為されたのと同じである。
宇宙開発は決して学問研究ではない。
宇宙開発競争は戦争の一形態に過ぎない。
結局の処、科学は宗教と同じで、政治の一つの道具に過ぎない。
2049年12月31日、月の想いである「テンシ」が四国の剣山に降り立った。
二十一世紀の空白の16年の幕切れに相応しい出来事だった。
「テンシ」の化身である鬼神冬子が、時には島田一郎として、そして田島八郎として、石嶺リエと共に四国剣山を眺めていた日である。
リエにとっては2033年12月31日であり、八郎、つまり、鬼神冬子にとっては2049年12月31日であった。
4=16年であり、4秒の差が二人の垂直時差。
この垂直時差である4秒の差こそ、16年=24の指数である4。
東京に鉄の雨が降った時と、広島と長崎に原爆を落とされた時との時差でもある。
16年の指数4秒の時差の間に、ようやく、新しい世界の出る芽が決定される。人間の感覚では16年が、宇宙レベルでは4秒に過ぎない。
その関係は、地球とその表面に付着している生きものの関係にも適用される。
更に、潜在能力の発揮度にも比例する。
猿の霊長類が猿類(アウストラロピテクス)に変貌した時点で、潜在能力の発揮度が先ず落ちた。
メスが女性になった黎明期である。
猿類(アウストラロピテクス)が人類(ホモサピエンス=マンカインド)に変身した時点で、潜在能力の発揮度が更に落ちた。
オスが男性になった黎明期である。
人類(ホモサピエンス=マンカインド)が人間(ヒューマンビーイング)に変節した時点で、潜在能力の発揮度が更に落ちた。
オス社会の黎明期である。
その結果、人間は潜在能力の発揮度が20%以下になってしまった。
更にそれに拍車を掛けたのが文明という化け物。
文明という化け物の正体は他でもない、我々人間が盲信してきた宗教と科学である。
ドイツのある哲学者が言った「軸の時代」が働いた時期がそれぞれの黎明期に当たる。
個別意識の更に下にある地球意識という集合意識が強く働いた時期が「軸の時代」である。
計算上では二十一世紀が「軸の時代」の軸になる世紀になる。
人間の感覚では16年の倍数になり、16年*50=800年が「軸の時代」のサイクルになるが、宇宙レベル、つまり、地球レベルでは、高々、4秒*50=200秒=3分20秒に過ぎない。
前々回の「軸の時代」の締め括りとしてイエス・キリストが登場してから、月の「想い」である「テンシ」すなわち鬼神冬子が登場するのに、高々、200秒=3分20秒しか経っていない。
愚かな人間は再びイエス・キリストを十字架に架けるのであろうか、その布石は彼女の父親の鬼神四郎が既に打っておいたのであるが・・・。
2000年前に、人類は足で正しく立って生きている人間を血祭りに上げ、挙句の果てに、十字架に架けて殺した。
自分たちが頭で立って生きているから、足で立って生きている人間が逆さまに見えたのに、自分たちが足で立って生きていると錯覚したため、足で正しく立って生きている人間が逆さまに見えた。
その結果、十字架に架けた。
それなら、十字架に逆さに架ければいいものを、足を下に頭を上に正しく十字架に架けたのはどうしたというのだろう?
どうやら、頭で立って生きている人間は、足で正しく立って生きている人間が登場すると十字架に架けたいらしい。
しかも、正しい十字架の架け方で殺してしまう。
地動説を唱えたコペルニクスやガリレオを十字架に架けようとした大衆は、やはり頭で立って天動説を信じている人間だった。
人類は、四本足の生き方から二本足の生き方に変わることによって、大脳が発達して知性を獲得したはずなのに、殆どの人間が頭で立って生きているなら、頭の位置は四本足の生き方の時より下がり、大脳は退化している。
大脳には何重もの皮があって、頭の位置が相対的に高くなると、地球の重力の影響が軽減されて、木が天(太陽)に向かって伸びていくように、新しい皮が次から次へ発生していく。
哺乳類には大脳古皮質があるのは、両生類や爬虫類よりも頭の位置が高い生き方をしたからである。
両生類や爬虫類には大脳古皮質がなく、大脳旧皮質しかないのがそのことを証明している。
生きものの進化は頭の位置の変化に関わっているわけだが、地球の重力の影響に深く関わっていることを示唆している。
地球の重力の影響が小さくなると、生きものの知性は進化する。
地球の重力の影響が大きくなると、生きものの知性は退化する。
このことは何を意味しているのか?
地球の重力の影響が小さくなることは、地球とより離反化すること。
地球の部分観になること。
自己が生きるということ。
地球の重力の影響が大きくなることは、地球とより一体化すること。
地球の全体感になること。
自己が死ぬということ。
人類が死を知って、死を怖れるようになったメカニズムである。
この事実に気づいた人間だけが、正しく足で立った生き方をしようとするのだが、気づいていない頭で立った生き方をする人間には理解できないで、どんどん退化していく。
知性には、進化する知性と、退化する知性の二つがあることに、人類は二十一世紀には気づくことになるだろう。
2000年前の人間の数はおよそ3億だった。
足で立っている人間の数はおよそ30だった。
1000万人に一人の割合。
当時の日本人の数はおよそ100万人だったから、足で立って生きている日本人はいなかった。
日本人の数が1000万を超えたのは平安時代に入ってからで、聖徳太子の時代でも500万人弱だったから、聖徳太子が渡来人であることは間違いない。
足で立って生きる日本人が平安時代に入ってはじめて誕生した。
それが空海。
聖徳太子が空海を生み落とす土壌を事前につくった。
聖徳太子と空海は同時代の人間ではないのに、聖徳太子居る処に空海が必ず居るのは、こういった「軸の時代」の意識が地球レベルで働いたからである。
世界に目を向ければ、イエス・キリストがやはり中心に「軸の時代」の意識が働いている。
ペルシャにゾロアスターが誕生したのも、サウジアラビアにマホメットが誕生したのも、インドに釈迦が誕生したのも、ギリシャにソクラテスやプラトンが誕生したのも、中国に孔子・孟子や老子・荘子が誕生したのも、すべては、イエス・キリストを中心にした「軸の時代」の意識が働いた結果である。
イエス・キリストと聖徳太子が同一人物視される根拠が決定的であるのは、こういった観点からである。
地球上のすべての生きもの、つまり、鉱物・植物・動物は悉く地球そのものに他ならない証明。
人類だけの歴史だなんてお笑い草である。
人間一人を個人だなどと定義することが、そもそもおかしい。
すべては同一体。
実際に存在するのは地球だけである、
地表で生きているすべてのものは、すべからく映像に他ならない。
部分観はすべて実在しない、映像そのものに他ならない。
全体感で誕生してくる生きものは、1000万人に一人の割合。
現在の人口が90億に達しているから、足で立って生きている人間がおよそ900人ということになる。
現在の日本の人口がおよそ6000万人だから、足で立っている人間がおよそ6人。
二十世紀の空白期間は、1929年8月6日から1945年8月6日の16年間であり、先ず、世界大恐慌が発生した。
1929年10月24日のニューヨーク株式市場の大暴落、その前の9月3日のダウ平均381ドル17セントの最高値を付けた時から始まった。
ゼネラルモーターズの足下に火がついたのが大暴落の引金であり、その引金を引いた日が、8月6日の火曜日のデトロイトだった。
世界最大の自動車メーカーの内部で権力闘争が起こったのが直接の引金。
そして空白の16年を締め括ったのが、1945年8月6日の、アメリカによる広島への原爆投下の日である。
二十一世紀の空白期間である、2033年12月31日から2049年12月31日までの16年間。
2033年12月31日は、東京に鉄の雨が降った日であり、2049年12月31日は、月の想いである「テンシ」が四国の剣山に降り立った日である。
その時、「テンシ」の化身である鬼神冬子が、時には島田一郎として、そして田島八郎として、石嶺リエと共に四国剣山を眺めていた日である。
二十世紀の空白期間をつくった連中が、再び、空白の16年を二十一世紀にも惹き起こし、最終仕上げの段階に入った。
最終仕上げを、四国の剣山で実行しようというわけだ。
『シオン賢哲会合の議事録(プロトコール・シオンスキフ・ムドレーオフ)』の第三章が奇しくも言う。

第三議定書
今日余は諸君に対し我々の目的の完成は数歩の眼前にあると報道し得る。余す所の距離は僅少である。我々の辿り来た道は、わが民族の象徴たる神秘的蛇の輪を結合せんとしている。此の輪の結合せらるる時こそ、全欧州諸国は頑丈な箍で締め付けられた如うになるであろう。
現代の憲法の秤皿は間もなく転覆するであろう。何故ならば、我々はその秤を、それが安定しないようにと不正確に仕組んで置いたからである。我々は秤の支柱が磨滅してしまう迄其秤が動揺を止めぬように仕組んだのである。非ユダヤ人は、秤の支柱を充分丈夫に鍛えたと思い、秤がやがて釣り合いを取るのであろうと期待していた。然るに秤の支柱なる王者等は、かの無制限且つ無責任な権力に有頂天になって、あらゆる愚挙を敢えてする自己の代表者等によって隠蔽されている。然も彼等がこの無制限且つ無責任な権力を獲得するのは、宮廷内に侵入した恐怖的行動即ちテロに依ってである。為政者等は人民に接近し、其社会内に入ることが出来ないので、人民と協議することは出来ず、また権力を求める野心家等から身を守ることも出来ないのである。我々の策謀した離間策は、目の見える主権者の力と盲目的なる大衆の力とを引き離したので、両方共その意義を失ってしまっている。何故ならば、どちらも一方だけでは、杖を失った盲人にも等しく無力であるからである。
権力を愛する者を刺激して、権力を濫用せしむる為には、我々は不羈独立を獲んとする彼等の自由主義的傾向を鼓吹して、あらゆる勢力を対立せしめた。此の方面に向かって我々は凡ゆる計画欲を刺激し、各政党を武装し、政権をすべての功名心の目標たらしめ、各国を撹乱の巷と化した。やがて、到る所に騒動と財政の破綻とが起こるであろう。
蕪言を弄して盡くる所を知らざる饒舌家は、国会と行政庁の会議とを舌戦場と化し去った。大胆な新聞記者や、無遠慮なパンフレットの発行者等は、毎日行政官を攻撃している。権力の乱用は斯くて官庁の没落を誘致しつつある。而して五里霧中に彷徨する群衆の一撃の下に万事転覆するのであろう。
世界各国の非ユダヤ人は、奴隷制度又は農奴制度よりも遥かに強く貧窮の為に苦役に繋がれている。彼等は、奴隷制度や農奴制度からは兎に角解放される事が出来たが、しかし貧困からは絶対脱することが出来ない。我々は民衆のため名のみであって実際でない権利を憲法に挿入した。所謂『民権』なるものである。民権は只だ概念として存在し得るのみであって、決して実際に実現することは出来ないのである。
実際我々の命令や、我々の密使に選挙される人々の為にする投票に対して、我々の喰い残りと食卓から投げ与える一片のパンの外に、下層民が憲法より得る所のものは何もないとするならば、饒舌家が気炎を吐く権利を得る事や、新聞記者が事実を書くと同時にあらゆる愚論を書き並べる権利を得る事は、苦役の下に背が曲がる運命に翻弄さるる下層労働者に取って何の利害関係があろうか。共和制の権利は貧乏人に取っては皮肉である。如何となれば、日々の衣食に追わるる関係上其権利が利用することが出来ないで、雇主等或いは同僚等の結託に左右せられ、確実な常収入を失うからである。
貴族は人民の幸福と密接の関係ある自己の利益の為に人民の自然的保護者であり、又人民の扶養者であった。それを人民は我々の指導の下に撲滅した。今や人民は貴族の撲滅と同時に労働者に取って無慈悲な成り上がり者、詐欺漢なる富裕農民の圧迫の下に呻吟している。
わが社会主義的マッソン結社の主張する所謂一般人道博愛主義を口実として、常に援助を与えている社会主義者、無政府主義者、共産主義者より成る我が軍隊に参加することを労働者に勧誘する時において、我々は労働者をこの圧迫より救済する者の如くに仰がれるであろう。由来労働者の労役を利用して之を自己の権利と認めていた貴族は、労働者が衣食足り、健康頑丈ならむことを慮かった。我々はそれと反対に非ユダヤ人の衰退を謀るものである。我々の権力は労働者の慢性的栄養不良と体質虚弱とにある。如何となれば、之れによって彼等を我々の意思に従わしむるもので、彼等は自己の力を以ってしては我々に反抗すべく力も精力も見出すことが出来ぬからである。飢餓が労働者に対して資本の権利を揮はしむる事は、合法的の王権が此の権利を貴族に与うるよりも確実である。我々は生活難と之れより生じる嫉妬憎悪の念とを利用して群衆を動かし、其の手を借りて我々に進む道を遮る者を撲滅するのである。
我々の全世界の主宰者が戴冠する暁には、同一の手を借りて我々の主宰者に妨ぐる者を撲滅せん。
非ユダヤ人は、我々の科学的助言なしに物を考えることが出来なくなっている。それ故に彼等は、我々の世界支配が達成された暁に、我々が一歩も譲歩することなく確保するであろう所のものが如何に痛切な必要事であるかを認めていない。即ち小学校においては、唯一の真実な科学、何よりも重要な科学、換言すれば人生の機構即ち分業を要求し、その結果として人間が階級又は身分に分類されるに至る事を要求するような社会生活の機構に関する科学を教授しなくてはならない。また何人の頭にも必ず叩き込まねばならないのは、人間の目的がそれぞれ異なるが故に、人間の平等などは決して存在し得ないということと、法律に対しても人によりて其責任が一様でない、即ちその行動によって全階級の名誉を毀損する者と、これによって唯自分の名誉を傷つける外何人にも損害を及ぼさない者とでは、その責任も違って来なければならないと云う事である。
我々が非ユダヤ人に秘している所の、正当なる社会的機構学の教える所によれば予備教育と職業との間の不調和が人間苦の根源とならないが為に、職業の場所も労働も一定範囲の人間に限られるべきであって、もし国民が此学説を受け入れたとすれば、国民自ら進んで主権と主権が立てた国家秩序に服従するであろう。科学が現状の如くであり、またそれが我々が与えた方向を辿っているので、無知単純な人民は盲目的に印刷物を信じ、また自己に教唆された迷論を信ずるのみで、各階級の価値を解せざるが故に、自己の上にあると思われる凡ての階級に対して極度な憎悪と敵愾心を抱くのである。斯様の敵愾心はあらゆる取引及び工業を萎縮せしむる。経済的危機の襲来する時に至れば一層烈しくなるに違いない。この時我々は、一般的経済危機を惹起し、同時に全欧州諸国において労働者の失業大群を街頭に投げ出すであろう。そうすれば之等の大衆は其無知と単純な心持ちからして、幼少以来嫉視していた有産階級や資本階級の血を流すのを喜び、而して其者等の所有物を略奪破壊する事は考えるまでもない。
しかし此時において、我々の仲間は之等の大衆によって襲われる事は絶対ないであろう。何となれば、我々には襲撃の時刻が機敏なる我々の謀者によって予め判っているので、時機を失せず吾党の者の保護対策を講ずるからである。
我々はこれまで、進歩が非ユダヤ人を理性の国に連れて行くであろうと力説して来た。我々の強圧政治は、左様なるものであろう。何となれば理性の峻厳さによってあらゆる暴動を鎮圧し、すべての官庁より自由主義を根絶する手段を講ずるであろう。
民衆が自由の名の下に、自己に対するあらゆる譲歩と寛大とが眼前に展開して来るのを見て、彼等は自己を主宰者と思惟し、権力を獲得したものと妄想したが、しかし凡ての盲人と同様、予期せざる無数の障碍にブチ当たった。そこで指導者を見出さんと焦ったが、しかも旧制度に帰る事を思わずして、遂に権能を我々の足下に投げ出したのである。我々が『大革命』の名を付したフランス革命を想起せられよ。
此の革命準備の秘密は我々の能く知る所である。何となれば此の革命は実に我々の手の所業であるからである。
あの時以来我々は、諸国民を幻滅から幻滅へと導いているが、それは彼等が我々からも離反して、我々が全世界の王として準備している所の、シオンの血を亨けた専制帝王を歓呼して迎えるようにするが為である。
現代においては、世界的勢力としての我々マッソンは不死身である。何故なら、若し我々が或る一カ国から攻撃される事があれば、直に他の諸国家が我々の味方になってくれるからである。我々に独立不羈を与えてくれたのは、非ユダヤ諸国民の限りない卑劣さであって、それは権力の前には叩頭するが、弱者に対しては無慈悲で、過失には厳罰を加えても、犯罪は之を寛大に断罪し、自由な社会秩序の矛盾を我慢する事はしないが、大胆な専制政治の暴虐には殉教者となっても顧みぬ程の忍耐をもって対するのである。彼等はその最小なものに対してさえも二十人の国王の首も刎ね兼ねまじき程の権力濫用な現代の独裁なる首相に対しても忍耐している。
斯くの如き外見上一様なものと思われる出来事に対する大衆の態度が、終始一貫していないと云うことは、何を物語るであろうか。云うまでもなく独裁者等は自己の密使を通じて、国家を変革せんとする彼等の目的達成のためであると、人民に意識させるからである。そして其の目的とは人民の幸福、協同一致、平等の権利を実現する為に国家の基礎を危機に陥れるのであると云うのである。しかし斯くの如き
結合は我々マッソンの支配下においてのみ組織されるであろうと云うことは、勿論人民に告知さられる事は絶対にない。
斯くて人民は正義の人を有罪にしたり、有罪者を無罪にする。
また人民は次第に増長して、自らの欲する事は、総てなし遂げられるものと信じるようになるから、このような事情の下において人民はあらゆる着実な発展を破壊して、一歩一歩新たなる無秩序を喚起して進み行くのである。
『自由』なる標語は、人間社会をしてあらゆる権力と抗争せしめ、神及び自然の威力に対してすらも闘争せしめる。それ故に我々ユダヤ人が一度王位に就かんか、我々はこの標語を人類の語彙の中から抹殺しなければならぬ。何故ならば此標語は、大衆を恰も血を好む猛獣の如く化せしめる。動物的暴力の結晶であるからである。しかし之等の猛獣に給餌すると眠ってしまうから、容易に鎖に繋がれる事が出来るが、何時までも血を吸わせないでおく時は、彼等は眠らないで闘い狂うのである。