第四章 軍人の良心

「ジャップスを徹底的に躾直すんだ!」
トルーマン大統領が日本占領軍最高司令官ダグラス・マッカーサーに怒鳴った。
大統領執務室の机の前で叫ぶトルーマンに軍事・主席補佐官のドワイト・アイゼンハワーが宥めるように言った。
「大統領!日本のことは占領軍総司令官に任せましょう!」
アイゼンハワーがまだ陸軍中佐の頃、マッカーサーは既に陸軍参謀総長の将軍であり、彼が最も尊敬する軍人であった。
自分が副大統領の頃、ヨーロッパ連合軍総司令官のアイゼンハワーが大統領のフランクリン・ルーズベルトから全幅の信頼を得ていたことを承知していたトルーマンは、主席とは言え、補佐官に過ぎない人間の諫言を受け入れた。
『デビッドはなぜアイゼンハワーを贔屓したんだろうか?』
トルーマンの脳裏から決して離れない疑問だったが、その疑問が晴れないまま、ルーズベルトは終戦を見ずして急死してしまった。
トルーマンは1945年7月17日から8月2日までドイツ・ベルリン郊外にあるポツダムのツェツィリエンホフ宮殿で行われた米英ソ首脳会談のことを思い出していた。
ルーズベルト大統領が突如脳卒中で急死し、副大統領であったトルーマンが大統領になったのが同じ年の4月12日であり、5月にドイツが降伏した結果のポツダム会議であっただけに、トルーマンにとっては暗中模索の日々であった。
「大統領!わたしの部下のゲオルグ・ジューコフを紹介します」
ソビエト共産党書記長ヨシフ・スターリンがツェツィリエンホフ宮殿の会議室でトルーマンに歩み寄って言った。
顎で合図をしたスターリンに若いロシア青年が言った。
「はい!ジュガシヴィリ様!」
「今は亡き前大統領のお気に入りだったんです・・・」
意味深な表現をするスターリンの言葉をさほど深く取らなかったことを、トルーマンは今になって思い出す。
フランクリン・ルーズベルトとヨシフ・スターリン。
米国大統領とソビエト共産党書記長。
ドワイト・アイゼンハワーとゲオルグ・ジューコフ。
ヨーロッパ連合軍総司令官とソ連軍総司令官。
ポツダム会議が開催される一日前の7月16日にマンハッタン計画は成功裡に終わった。
マンハッタン計画が終了した時点でドイツは既に降伏していた。
ナチス・ドイツに核兵器開発の先を越されることを怖れたハンガリー人科学者レオ・シラードは、当時コロンビア大学の物理学教授であったアインシュタインに働きかけ、ルーズベルト大統領に原爆開発の進言をさせた、そして生まれたのがマンハッタン計画であるにも拘わらず、原爆はドイツに落とされずに、日本の広島と長崎に落とされた。
ドイツの首都ベルリンに「広島通り(Hiroshima Straβe)」という名の道がある。
西ベルリンと東ベルリンを分断するブランデンブルグ門のすぐ近くにあるのが象徴的である。
ベルリンの身代わりに広島がなってくれた記念の通りである。
トルーマンは走馬燈のように展開される映像に想いを馳せていた。
1941年12月7日の真珠湾攻撃によって開戦された太平洋戦争の翌年の2月に、大統領命令9066号が交付され、カリフォルニア州に住む日本人及び日系アメリカ人約12万人が、「軍事上の必要性」という理由で強制収容された。
ナチス・ドイツによるユダヤ人強制収容と同じことを、アメリカは日本人に対して行っていたのである。
ルーズベルトは、第一次世界大戦以降順調に成長を続けるアメリカ国内の日系人社会と、その背景にあった日本人のアジアに対する勢力拡大にあからさまな警戒心を抱いていた。
黄禍論(黄色人種に対する偏見)や日系人排斥運動といった人種差別運動にルーズベルトは同調していたのである。
強制収容政策は、第二次世界大戦の敵性外国人であったイタリア系およびドイツ系アメリカ人といった白人系人種に対しては行われなかったため、黄色人種である日系アメリカ人に対する人種差別政策であったことは明白である。
民主党大統領だったルーズベルトのこういった政策を、それから46年後の1988年に共和党大統領ロナルド・レーガンが、「日系アメリカ人の市民としての基本的自由と憲法で保証された権利を侵害したことに対して、アメリカ議会は国を代表して謝罪する」と謳われた「市民の自由法(日系アメリカ人補償法)」に署名した。
日系アメリカ人に対する強制収容政策を「人種差別を背景とした違法行為」であったことを認め、強制収容された日系アメリカ人に謝罪し、損害賠償を行ったことは、民主党大統領と共和党大統領では、同じアメリカでも天と地の差があることを象徴している。
20年間も続いた民主党大統領に対して、『政権交代のない国は必ず独裁国家になり、政府は肥大化していく』と憂慮したアイゼンハワーは1952年の大統領選挙に、自分を買ってくれていたルーズベルトの民主党から出馬せず、敢えて共和党から出馬した。
軍人出身でありながら、アイゼンハワーが大統領を辞任した最後の演説は有名である。

“第2次世界大戦まで、アメリカは軍需産業というものを持ったことがなかった。というのも、アメリカでは、時間的な余裕があったため、平時に鋤(すき)を作っていたものが、必要に応じて、戦時に剣を作ることですますことが出来たからである。
しかし現在では、一旦緩急になってから急に国防の備えをなすという危険を冒すわけにはいかなくなっている。
その点、我々は大規模な恒久的な軍需産業を創設することを余儀なくされている。
我々は、アメリカの全会社の年間純総所得を上回る額を、軍事費のために年々消費しているのである。
こうした大規模な軍事組織と巨大な軍需産業との結合という現象は、アメリカ史上かつてなかったものである。
その全面的な影響力・・・経済的な政治的なさらには精神的な影響力までもが、あらゆる都市に、あらゆる州政府に、連邦政府のあらゆる官庁に認められる。
我々としては、このような事態の進展をいかんとも避けられないものであることはよく解っている。だが、その恐るべき意味合いを理解しておくことを怠ってはならない。
政府部内の色々な会議で、この産軍複合体が、意識的にであれ無意識的にであれ、不当な勢力を獲得しないよう、我々としては警戒していなければならない。この勢力が誤って台頭し、破滅的な力をふるう可能性は、現に存在しているし、将来も存続し続けるであろう。
この産軍複合体の勢力をして、わが国民の自由や、民主的な過程を危険ならしめることがあってはならない。何事も仕方のないこととしてはならない。
警戒心を怠らぬ分別ある市民のみが、この国防上の巨大な産業と軍事の機構をして、わが国の平和的な手段と目的とに合致せしめ、安全と自由とを共に栄えしめることが出来るのである。”

トルーマンの日本人差別発言である「ジャップス」を苦々しく思っていたのは、アイゼンハワーだけではなく、マッカーサーも然りだった。
執務室を出たマッカーサーは後ろをついてくるアイゼンハワーに言った。
「アイク!わたしは占領軍総司令官の職を解かれても、大統領の言う通りはできないよ!」
「将軍!わかっております」
「沖縄で日本の女性がアメリカ軍人にレイプされた一件で裁判が行われ、彼らは無罪放免されたが、その女性は自殺したそうだ」
苦渋の表情でマッカーサーは言った。
「我々軍人は、戦争がなくなると常軌を逸した思考と行動をするようです。戦争を職業とする男の社会の宿命でしょうか・・・」
「そうだな!」
マッカーサーはワシントンの国防省・空軍基地から沖縄に飛び立って行った。

その頃、母親を失って天涯孤独になった石嶺夏子に会いに、ひとりの男が沖縄にやって来た。