第二章  明治政府の光と陰

日本の近代国家の形態は、英国の議会制民主主義を採り入れ、独国の憲法を模範にしたものを基礎にしていた。
太平洋戦争で、米国から完膚なきまでに叩き潰された日本は、敗戦後、英国を模範にした議会制民主主義の形態は貴族院が参議院という名前に変わったが、ほとんどの精神は維持された。
しかし、独国を模範にした憲法は徹底的に排除され、世界に類の無い矛盾に満ちた憲法を米国から押しつけられてしまった。
戦後を生きる日本人は、この矛盾だらけの憲法を国家のバックボーンとしてきた結果、国家形態を成さない、従って国家意識を持たない、ばらばらな民衆に成り下がってしまった。
国家意識を持つ国民は、民衆ではなく大衆である。
主権在民の民とは、国家意識という、一つの意識を持つ大衆のことであるのに対して、国家が頽廃していくと、一つの意識を持っていた大衆は国家のことより、己個人のことしか考えられないようになっていく結果、ばらばらな意識になる。それを民衆と言うのである。
国家が頽廃して破綻して行くと、国民は必ず大衆から民衆に成り下がり、結果、暴動が頻発する現象が現れてくる。
日本の矛盾した憲法が、現在の日本が抱える病気の原因とするなら、病気になったのは戦後であるが、発病したのは、昭和39年の東京オリンピックから、昭和45年の大阪万国博覧会が開催された時期で、この二つのイベントは、まさに発病の症候を顕していたのである。
そして、慢性の不治の病までなってしまったことを象徴したのが、バブルの発生とその崩壊である。
あとは、放っておいても、坂をころげ落ちていった。
なに故、ここまで放置するような政治家しか、日本には生まれなかったのか、その原因はいろいろ考えられる。
戦後教育制度が、その中で最大の原因であることは衆目の一致するところだ。しかし、それは飽くまで表面に出ている要因であって、表面に決して出ない処では、もっとどろどろした悪意が潜んでいたのだ。
その本は、明治政府の陰の部分である。
岩倉具視を団長にして欧米視察に行った,後に明治政府の要人となっていった連中が、その二年に亘る視察旅行で何を植えつけられたのか。
特に、岩倉具視と維新の元勲・大久保利通に何があったのかを知る者は、この日本には最早いない。
彼らは、明治政府の輝く光であったが、同時に陰の役をも演じさせられてきたのだ。
その明治政府の光の部分は、戦後、完全に消され、陰の部分だけが綿々と現在まで引き継がれているのである。
宇都宮家も表面的には、光の面を呈しているが、実体は陰の部分の一族であった。
代々の遺訓を伝えられた、若き頃の宇都宮一郎は愕然としたが、慣れは恐ろしいものだ。
正二郎が日比谷高校を受験すると聞いた時、若い血潮に燃えていた一郎を絶望のどん底に陥れた忌まわしい遺訓を、今、自分の息子たちに伝える時期が近づいていると感じるのであった。