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第三章 忌まわしい遺訓 正二郎から、日比谷高校を受験したいと言われた時、一郎は四十年近い前のことを思いだした。 一郎は一橋大学に入りたかった。 本当は福沢諭吉の慶応義塾大学に入って経済の勉強をし、将来は事業家になるのが夢だったが、どうしても父親の宇都宮軍三が私学を認めないので、一橋大学ならいいだろうと高を括っていたのだ。 東京商科大学が前身の一橋大学は、商業つまり事業に役に立つ勉強が出来ると思ったからで、父親の軍三にそのことを言ったら、言下に一喝されてしまった。 その時に代々伝わる遺訓を教えられたのだ。 『自分たち一族は、本当に日本人なのだろうか?日本人なら、こんなひどいことを延々とやってきたのは何ゆえなんだ!』 まだ十八才だった一郎は悩んだ。 『明治の初めから、我々一族が売国奴のような役割をさせられてきた原因は一体何故?』 そのショックから、一郎は親の言う通り、東京大学法学部に入学した。 暫くは、焼け糞になって、大学なんてどうでもよかった。 しかし、時の経過は人間の心を変えてしまう。 東京大学の卒業を間近に控えて、就職のことを考え始めた頃から、一郎の心の中に、悪魔が入ったように、自分でも驚くほどの変化が生じていた。 『どっちみち呪われた一族なんだから、上手く生きてゆけばいいんだ』という気持ちが強くなっていくのだった。 そして大蔵省に入省した時には、呪われた一族のイメージさえもプラス思考に思えるようになっていった。 そうすると逆に、『自分たちは選ばれたる一族なんだ』と本気で思い込んでしまうようになっていくのだった。 ある日、自分の心の変化を、父の軍三に告白すると、軍三はしんみりとした顔をして言った。 「わしも若い時、わしがお前に言い渡したことを、お前のお爺さんから言われて、余りの衝撃で、暫くは立ち直れなかった。だが百年以上こんなことをやらされ続けてきた一族だと、だんだん諦めの境地になっていき、結局は、それで良かったのだ、と思うようになってしまった。人間には、生まれながらにして与えられた業というものがある。我々一族は、断絶するまで、この業を背負って生きてゆかなければ仕方ないいのだ」 こうやって、宇都宮家は明治以来、いやひょっとしたら千数百年間続いてきた家系なのかも知れない。 「お前たち兄弟に言っておきたいことがある」 正太郎と正二郎に相対して一郎は、来るべき時が来たという覚悟を決めて、忌まわしい遺訓を話し始めた。 同じ両親から生まれて、同じ環境で育った兄弟であってもまったく違う性格になる。 これは持って生まれたものなのであろう。 正太郎と正二郎の反応はまったく違っていた。 正太郎が嬉しそうな反応を示したことも意外だったが、正二郎はまったく無表情であったことの方が一郎にとっては不気味であった。 「お父さんは、僕を政治家にしたいんでしょう?僕が日比谷高校に行きたいと言ったのは、もちろん東京大学に行きたいと思ったからだけど、政治家になりたいと思った訳ではないんです。だけど今の話を聞いて、僕は政治家になることに決めました。慶応義塾大学から政治家になるのがいいのか、それとも出来れば東京大学から政治家になって欲しいのか、どちらがいいんですか?」 十五才の子供とは思えない冷静さの正二郎の気持ちを、一郎は計りかねていた。 「お父さんは、これからの日本がどう変わっていくかを考えると、東京大学に行くより、慶応義塾大学に行ってから政治家になった方がいいと思う」 前から、その考えを持っていたからこそ、正二郎を幼稚舎に入れたのだ。 「それなら、お父さんは、僕が日比谷高校から東京大学に行くのを目指していることを知っていて、何故止めてくれなかったのですか?」 横から正太郎が、泣きそうな顔をして訊いてきた。 「それは、お前は政治家に向いていないと思ったからだ」 一郎の話を聞いて、正太郎は泣き出した。 「お父さん、それはあんまりです」 「どうしてなんだ?」と逆に戸惑って訊く一郎に、正太郎は吐いて捨てるような口調で言った。 「だって、僕よりも正二郎のことを買っているからじゃないですか!」 一郎は、『しまった!』と思った。 『この子たちはまだ幼過ぎた。また二人に同時に言うべきでなかった』 一郎のこの後悔はその後一生引きずることになるのだ。 あれ以来、二人の兄弟に変化が生じた。 正太郎は生来根暗の性格なのだがますます極端になった一方、正二郎は以前と余り変わりは無いように思えるのだが、正太郎と違って根暗でもないのに、どことなく暗い表情をかもし出すようになっていた。 だが、それが一郎から遺訓を受けた影響だと母の栄子は知らなかったから、余り深くは感じなかった。 大蔵大臣という職は、考えによっては何もしなくていい、こんな楽で名誉なポストはないのだが、大蔵事務次官の経験のある一郎は実務を知っているだけに、激務のポストであった。 その忙しさで、子供たちのことをフォローする暇がなかった。 そして、翌年、正二郎は慶応義塾の高校である普通部に入学した。 そして正太郎は予定通り、東京大学法学部を目指して受験勉強に励んでいた。 一見、何の変化も見られず、逆にあれだけ対抗心を燃やしていた二人の間が表面的には穏やかな雰囲気の状態が続き、一郎も仕事に専念出来、実に順風満帆の宇都宮家であった。 しかし、それは冷戦の状態であって、水面下では、ますます事態は悪化していたのだ。 二人の対抗心のそもそもの原因は、兄の正太郎にあった。 父の一郎を尊敬し、父のような政治家になりたいと思っていた正太郎なのに、父は正二郎のことを買っていると知ったのが、正二郎に対する対抗心と憎しみに火を点けたのだ。 日比谷高校から東京大学を目指したのも、父に認めてもらいたかったからだ。 それが、「お前は政治家に向いていない」と言われて、大きなショックを受けていた。 そしてそれから一年が過ぎた。 正太郎の大学受験の日が迫っていた。 高校側の見解では、東京大学法学部合格間違い無しであった。 また本人も自信を持っていた。 確かに誰でもそう思う正太郎の高校の成績だったが、正二郎は正太郎の変化をしっかりと観察していた。 心の支えを失った状態で努力をしているから、いざ本番となると学力は充分あっても、精神力が甚だしく欠如している。 だから必ず大きなミスをするはずだと見ていた。 そして受験結果を待つ日になった。 本人はきっちりと解答を書けたと思っていたらしく、自信満々で、もう東京大学の学生になったつもりでいた。 運命の糸はどこでどう結ばれているのか、誰にも解らない。 正太郎に届いた電報は、「桜散る」であった。 一郎も動揺していたが、当の本人の動揺ぶりは尋常ではなかった。 生来、ヒステリックな性格を持っていただけに、泣き叫ぶやら、家の中で暴れるやらで、母親の栄子はパニック状態に陥っていた。 しかし弟の正二郎は淡々として、「多分不合格だろうと思っていた」とふてぶてしく言うのだった。 それが、また正太郎の神経を逆撫でして、泣き叫び、暴れる一日が続いた。 日々忙殺されている一郎もさすがに、家に飛んで帰って来た。 一郎が家に帰った時には、正太郎は家を飛び出して、行方知れずになっていて、立場上、警察に捜索願いを出すわけにも行かず、どうしていいのかわからない八方塞がりの状態になった。 「お父さん、僕が探してきますから、安心してください」 正二郎は嫌に落ち着いて言った。 正太郎の居場所がある程度推察出来るらしいのを知って、「正二郎、頼むよ」と一郎は自分の息子に拝むように頭を下げて言った。 一郎のその姿を見ていた正二郎の表情は鬼のようなものに変わっていたが、両親共に気がつかなかった。 「明日探しに行きます。それでいいでしょう?」 両親は、正二郎の言いなりになって、頷くだけであった。 翌日,正二郎は正太郎を探しに行くと言って出かけた。 一郎と栄子は、心が定まらず、大蔵省からの迎えの車が来ても家から出る気になれなかった。 「悪いが、今日は一日休ませてもらう。決済はすべて次官に一任するからと、首藤次官に言っておいてくれ給へ」 首藤次官は、一郎の五年後輩で、主計局時代の部下でもあったから信頼をおいていた。 「栄子、お前、正二郎のこと最近おかしいと感じないかい?わしにはそう思えて仕方がない。正太郎の方がまともなような気がする」 栄子は中丸前総理の前の首相だった故小平洋平総理の娘で、四年前に心筋梗塞で急死した。 その後を継いだのが中丸総理だったが、彼も疲労から急死した。 そして、現総理の井川太郎からの要請で、当選一回の陣笠議員ながら大蔵大臣という要職に就いたのだが、中丸、井川共に、故小平洋平の派閥に属していたから、栄子には気を遣っていた。 しかし,栄子は地味な女性で、決して表には出ようとはしなかった。 それだけに、余計派閥の人間にとって、一郎は無視できない存在だった。 栄子が一郎の下へ嫁いだ時、宇都宮家の忌まわしい遺訓を知るはずもなかったが、故小平洋平は叩き上げの政党人であったため、宇都宮家という藤原一族の血を引く家系に何か、直感だが、感じていて、嫁ぐ栄子に耳打ちをしていたらしい。 代々の母方には、遺訓を一切口外しないのが決まりであったが、栄子はそれを知ってしまった。 それ以来、栄子は殻に閉じこもるようになっていった。 「いえ、別に」 そう言いながら、やはり自分の腹を痛めた子供のことは気になるから動揺していたが、一郎には心を開かなかった 一郎もそれは察していたが、所詮政略結婚だと思って、冷えた夫婦の穴を外で埋める、官僚から政治家になった連中と同じ生活を送っていた。 叩き上げの政党政治家は自力で選挙を勝ち抜いていかなければならないが、官僚から政治家を目指す連中は、ほとんどと言っていいくらい、政略結婚をする。 時には、自分の姓をかなぐり捨ててでも、政略結婚に応じる。 つまり養子になるわけだが、やはり若い男が、好きな女性ができないはずがない。 結局、昔の武家社会と同じで、正室は、その血統を守る子供を産むマシーンだけの存在で、それで満たされない分を、側室でカバーしようとする慣習を、彼らは依然続けているだけだと思っている。 だから、自分たちが、この世の中を支配していると思い込んでいるのである。 その日の夕方、正二郎が帰って来た。 「どこを探しても分かりませんでした」 とひとこと言って、自分の部屋に入ってしまった。 しかし、一郎も栄子も警察に捜索願いを出そうという考えは微塵もなかった。 |