第四章  補欠合格

警察に、捜索届けは立場上出せないが、正太郎のことが気になって職務を休んだ一郎だったが、午後になって首藤次官から電話が入ってきた。
「大臣。如何なさったんですか?お体の具合でも悪いんでしょうか。大臣は政治屋ではございませんから、省の者はみんな心配しております。政治屋大臣は、ただの飾りだけですが、大臣は、わたしたち省員の支えです。何か困った事がお有りになるなら、お申しつけください」
さすがに最高峰の大蔵次官OBは、絶大なる権威を持っているようで、現役省員、特にキャリアーと言われる第1種国家公務員たちにとっては雲の上の存在で、誰もが夢見る頂上である。
しかも一郎は大臣にまでなったとなると、一般の政治家とは違う。
大蔵大臣でも、大蔵官僚上がりでなければ、ただの飾りとしか思っておらず、事務次官がトップだと思っている。
戦後、特に大蔵省が権力を持ったのは、単に金庫番というだけではなく、他の省の次官も大蔵省から送り込む不文律が省庁間でできてしまったからだ。
実質、日本国軍である自衛隊を管轄する防衛庁の次官は、同期のトップが大蔵次官になるのに対して、七番目のランクの者が送り込まれることになっていた。
金を握る者が軍隊も握る。
『この国の実質支配者は我々だ。だから被支配者である国民は我々に年貢を納めるのが当然だ』
大蔵省国税庁の官僚は、本気でそう思っている傲慢さだ。
それには理由がある。
国税庁の上には主税局があるが、主税局長から次官にはまずなれない。
なるのは主計局長からである。
この風潮は江戸時代から、何にも変わっていない。
各藩の代官が年貢を取り立てる役目に対して、奉行職や家老職は藩内の重臣が勤める。
藩内の重臣・家老が主計局員・局長であるのに対して、その中の勘定奉行が主税局長であり、年貢取りたての現場監督の代官が国税庁員であり、地方に散らばる税務所である。
だから主計局に対する妬みや嫉妬が、悪代官やその手下を生むのである。
主計局長から次官になり、政治家にならなくても、東京証券取引所の理事長のポストが約束されている。
一方、悪代官は野に天下り、今まで手心加えてやった民間企業の顧問になって、節税(実際には脱税)ノウハウを伝授する報酬として、しこたま金を稼ぐ。
外様は金をやるが権力はやらない。譜代は権力をやるが金はやらない。
徳川家康の採った天下の治め方だ。
建設省や農水省の技官には金をやるがポストはやらない。せいぜい局次長止まりだが、そのクラスなら与党の参議院議員のポストを餌としてやる。
何故、役人がそんなことを出来るのか。
政治家が役人に使われている。
これが、この国の裏の実体だ。
そんな中で、一郎は大蔵省の希望の星だった。
「正太郎坊ちゃまが、東京大学入試に失敗されたようですね」
首藤次官が何故そんなことを知っているのか不思議に思った一郎だが、「実はそうなんだ。それだけなら仕方ないんだが、ショックで家を飛び出してしまったまま帰って来ないんだ」
正直に首藤に告白した。
「正太郎坊ちゃまなら、今ここにいらっしゃいますよ」
一郎は仰天して、「ええ!何だって?」と叫んだ。
「昨夜、わたしの家に来られて、泊まられ、お話しを伺い、大体の事情は分かりました。それでここに来てもらったんです」
「何で正太郎が君の家に行ったんだ?」
一郎は、何がなんだか分からなくなっていた。
「今、ここに東大総長の細川さんにも来てもらっています」
一郎は首藤の余りの大胆不敵さに戦慄した。
彼と正太郎の魂胆が読めたからだ。
「首藤君。それは良くないよ」
一郎は本気でそう思ったが、首藤は、「東大総長も、桜が満開と、散る間のグレーゾーンがあると言ってますから、そんな神経質におなりにならなくてもいいんじゃないでしょうか」と平然と言ってのけた。
「正太郎坊ちゃまは、あとニ・三日お借りしますがいいでしょうか。大臣は安心なさって明日から出省してください。それでは失礼致します」
エリートの道を一直線に歩んできた一郎だったが、この国の実態がこんなところまで腐敗していたかと思うと、自責の念どころでは済まされなかった。
しかし、正太郎の行動に驚いた一郎は、『あんな計算が出来るんだから、正太郎は、やはりまともだったな』と思った。
正太郎は、小さい頃から変質狂的な面があって、宇都宮家の業が原因ではないかと思うことがよくあった。
一方、正二郎は呪われた一族に生まれてきたのに、素直に育ってくれたと思っていたのが、二人の兄弟に対して結果的には差別をしていたのだ。
ところが遺訓を言い渡した時から、二人の態度に変化が生じた。
理屈を超えた生理的な症候のように感じていた一郎の観察は当たっていた。
「正太郎兄さんは、結局は東大に合格するんでしょう?」
一郎と首藤の話を聞いていた正二郎が訊いた。
「何だ、お前聞いていたのか?」
一郎は正二郎の態度に鳥肌が立った。
三日後、正太郎が喜色満面の表情で帰って来た。
手には、東京大学文一合格通知書を持っていた。
正二郎にこれ見よがしに合格通知書を手渡したら、正二郎はにやりと笑って、「正太郎兄さんは補欠合格なんだね。結局は実力で合格したわけじゃないんだ」
正二郎から、馬鹿にされたような言われ方をした正太郎は、「何が補欠合格なんだ。僕は堂々と合格したんだ」と啖呵を切った。
「だって、この通知書の右上に○に補の字が入っているでしょう。これは補欠合格という意味なんでしょう?」
正太郎はまたヒステリーを起した。
まるで正太郎をからかっている様子だった。
「私立大学なら、補欠合格というのはあるけれど、国立大学でそんなこと聞いたことがない。まして東京大学で補欠入学なんて前代未聞だ。多分不正行為による合格でしょう。僕は慶応義塾に進んでほんとに良かった」
事実をずばずばと指摘された正太郎は、完全にしゃっぽを脱いで、今度は逆に取り込み作戦に出た。
「まさか、兄弟なんだから、そんなことを世間に晒すことなんかしないだろう?」
体を震わせながら、正二郎に懇願する正太郎だった。
「もちろん、そんなことしないさ。どっちみち呪われた一族なんだから、世間に知れたら大変なことになるぐらい僕にだってわかるからね」
正太郎は少し安心したらしく、作り笑いをしながら、こう言った。
「呪われた一族だとは、僕は思っていないよ。首藤さんだって、それは返って光栄なことで、宇都宮家は選ばれた一族だと言って感心していたよ」
自慢気に言う正太郎の能天気さに、あきれ返る正二郎だった。
「お父さんに、そのこと言ったの?」
何のことか分からない正太郎はぽかんとした表情で、「そのこと、て何のこと?」と訊いてきた。
「宇都宮家の遺訓のことを、首藤さんに話したんだろう?そのことをお父さんに話したのかどうかだよ」
あきれて喋る正二郎に、「いや、話していないけど、話しておかないといけないかなあ?」と言う正太郎は、事の重大さをまったく解っていないと思う正二郎だった。
「話さない方がいいと思うよ」と言ってニタッと笑った正二郎に圧倒された正太郎は、ただ頷くだけだった。
正二郎は何か深く考える様子だった。