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第五章 奇怪な行動 晴れて東京大学文一に入学した正太郎は、まるで別人のような明るい青年になっていった。 スポーツクラブにも入り、勉強にも励み、将来に夢を持った、活き活きとした清々しい青年に変身していた。 『やり口は決して誉められたものではないが、結果的には東京大学に入れたことが、正太郎をまともな青年にしたんだから、まあいいか』 一郎はそう思うことにした。 『代々、宇都宮家の遺訓はこうやって継承されてきたんだろう』 仕方ないと思ってしまう自分に、何となくやるせない気持ちになるのだが、日々の忙しさがそれをも忘れさせる。 そうやって六十年近く生きてきた。 諦観と言ってしまえば、それまでだが、今回の正太郎の東大受験で一郎自身の考え方にも変化が出てきた。 弟の正二郎の素直さを評価して、屈折した正太郎を疎んじてきたのに、二人の評価が逆転してしまったのだ。 微妙な変化を察知した正二郎は、徐々に内向的な性格に変化していった。 ある日、正二郎の学校から家に電話がかかってきた。 一郎はいなかったが、栄子が出た。 「もしもし、宇都宮正二郎様のご自宅でしょうか。こちらは、慶応義塾大学付属普通部の教務部です。ご両親はいらっしゃいませんでしょうか」 栄子は、何の疑問も持たずに答えた。 「いつも息子の正二郎がお世話になりまして、ありがとうございます。わたしが正二郎の母ですが」 何か嫌な予感がした栄子は、用件を訊こうとはせずに、相手が喋り出すのを待っていた。 「ご子息はどこか具合が悪いのでしょうか。もう十日も休んでおられるのですが」 栄子は、『ええ!』 内心叫んだ栄子だが、政治家の、ましてや日本国の首相を務めた男の娘であるから、そう易々と腹の中を見せない。 「はい、ちょっと夏風邪をこじらせまして、熱が下がらないのでございます。迷惑をお掛けして申し訳ございません」 その場限りの嘘をついてしまった。 「ああ、そうですか。それなら良いんですが。お家の方からも、本人からも連絡がまったくなかったもので、失礼だと重々承知の上でお電話させて頂いた次第です」 相手の教務部の女性は、疑いもせずに納得した。 内心ほっとした栄子は、「誠に申し訳ございません。主人もわたくしも暫く留守にしていたものですから。本人が連絡しているものと思っておりました」 「そうでございますか。それではまだ暫くは、お休みになるということにしておきます。失礼致しました」 相手の女性は電話を切った。 受話器を持ったまま、栄子は呆然としていた。 主人の一郎に相談する気にもなれず、肝心の正二郎は帰っていない。 家の中をうろうろしながら、正二郎の帰って来るのを待つしかなかった。 一時間ほどして、勝手口の方で音がしたので、栄子は飛んで行った。 正太郎が帰って来たのだ。 「なんだ!正太郎かい」 がっくりする栄子に、正太郎はいぶかしげに言った。 「お母さんは、僕が帰って来ても嬉しくないのかい?」 皮肉たっぷりに言う正太郎に事情は言えないと思った栄子は、「ごめんね。ちょっとしたことがあったものだから。悪気はなかったのよ」 正太郎は一郎のことを尊敬していた。 そして宇都宮家の遺訓を聞いて、母の栄子には内緒になっていたから、母であり、元総理大臣の娘であっても、宇都宮家の方が遥かに格式が高いと思っていた。だから、栄子を舐めていた節がある。 「ああ、別に構わないよ。どっちみち僕は宇都宮家の嫡男だから」 正太郎の言っている意味を解せない栄子だったが、気持ちは正二郎の方にあったから、正太郎の言葉を聞き流していた。 「ふん!」 と言って正太郎は自分の部屋に入ってしまった。 またまた栄子は、玄関と台所の勝手口をうろうろしながら、正二郎が帰って来るのを待った。 それから二時間が経った。 一郎が帰宅するのは、いつも午前さまだ。 仕事なのか、愛妾宅なのか、今の栄子にとってはどっちでも良かった。 表門のチャイムが鳴った。 『ひょっとしたら、あの人が!』 栄子は一郎のことを、「あの人」と内心呼んでいた。 「はい!」と返事をすると、「お母さん、僕だよ。開けてよ」 「正二郎!」と大きな声を出して、「ちょっと待って。すぐに行くから」 栄子は玄関のドアを開けて門まで裸足で走って行った。 門を開けると、「お母さん、どうしたの!裸足なんかで」 正二郎が、苦笑して言うと、「正二郎!あなた学校へ行ってないでしょう!」 と泣きながら栄子が言った。 「学校から電話があったんだね」 冷静に話す正二郎に対して、栄子は完全に動揺していた。 「まあ、とにかく裸足なんてみっともないよ。家に戻ろうよ」 正二郎は飽くまで冷静に振舞った。 玄関のドアをそっと開けた栄子の様子を見て、「誰かいるの?」 と訊いた。 「正太郎が帰っているの。あの子には知られたくないでしょう?」 普段は、何の表情も余り示さない栄子が、こんなに動揺しているのを見て、逆に嬉しく思った正二郎だった。 「おかあさん。僕の部屋に行こう。事情を話すから。ねえ」 二人でこっそり玄関ホールの奥にある二階への階段を上がって行った。 正二郎と正太郎の部屋は同じ二階だが離れていた。 二階に上がった二人は、忍び足で正二郎の部屋に向かった。 その姿を部屋のドアの隙間から、正太郎が見ていた。 その時の正太郎の表情は、以前のヒステリックなものだった。 「正二郎!あなた十日も学校を休んでいるなんて、どういうことなの?」 小さな声だが、栄子の口調は厳しかった。 「休んでいるんじゃなくて、辞めたんだよ」 ますます動揺する栄子は、何がなんだかわからなくなっていた。 「僕は来年、日比谷高校を受験するんだ。その為に受験勉強しなければならないから辞めたんだ」 もう栄子には、正二郎を説教する力はなかった。 「だってあなたは、慶応義塾大学に進むんじゃなかったの?」 正二郎はゆっくりと栄子を言い含めるように喋りだした。 「お母さんは、正太郎兄さんが、東大受験に一旦落ちたのに、どうして入学できたのか知っている?」 栄子は、子供のことも入れて家庭のことには一切タッチさせて貰えなかった。 それが宇都宮家の代々の方針であった。 それでも自分のお腹を痛めた子供のことは気になる。 栄子は亡き父・小平洋平の腹心だった人間を使って独自に一郎の政界での動きを監視していた。 政略結婚は、この国の政界と官界では、依然常識であったから仕方ないと思っていたが、やはり女心は持っている。 若い頃に、父・洋平から言い含められた時には反発した。 「お父様。わたしは人間じゃなくって政治の道具なんですか?その為に生まれてきたのですか?」 「その通りだ。女に生まれたのが不運だと思って諦めることだ」 はっきり父・洋平から言われて栄子は屈服した。 まだ栄子が東京女子大学の学生だった頃だ。 栄子には好きな相手がいた。 成蹊大学の学生で、校舎が東京女子大学と近かったので、大学祭で知りあったのだ。 父の洋平は、そのことを知っていたが、放任していた。 そして、ある日突然、宇都宮一郎と婚約することを言い渡された。 「結婚は、相手がまだ大蔵省の若手だから、若様修行の旅を終えてからになるだろう。だからその間は、その成蹊大学の阿呆学生と遊んでいてもいいが、最後の線だけは絶対に守ることを命じておく」 平然と言いきる父・洋平を栄子は憎んだ。 何度も、その大学生と駆け落ちをしようと考えたこともあった。 そして父の命令を無視して、その学生に体を許した。 そのお釣りが、一郎との峻烈で屈辱的な結婚生活を一生送る羽目になるとは、若い栄子には想像もつかなかった。 高級官僚は、最初から政略結婚するのが当然だと思っている。 そして相手の婚約者には絶対に純潔を要求する。 それが彼らの恋愛できない青春に対する代償だと思っているからだ。 初夜は、彼らにとって、暖かい家庭をつくれるかどうかが決まる重要な夜で、それは、一重に新婦の純潔にかかっている。 期待通りであれば、彼らの青春が遅咲きするわけだが、期待外れであれば、心が氷のようになる。 その氷のような心が、仕事に向けられる。 日本の高級官僚が冷血動物に変身するのが政略結婚による精神傷害が大きな原因なのである。 チェコのプラハのユダヤ人街で一生を過ごした青年カフカが、自分が虫になる小説「変身」を書いたが、日本の高級官僚は、プラハのユダヤ人街ではないが、受験・受験の世界から、東大に入り、また東大で第1種国家公務員の資格試験の勉強、そして遂に霞ヶ関と進む道は、プラハのユダヤ人街を毎日ただ散歩するだけで一生を終ったカフカの人生に通ずるものがある。 虫という冷血動物に変身するのである。 『こんな屈辱的な仕打ちを受けるのがわかっていれば、あの時、一時の感情だけで男に体を許す愚かなことをしなければ良かった』 栄子は何度も悔やんだ。 結婚した相手の一郎が、性格の良い相手で、結婚してからだんだん好きになっていったから余計悔やんだ。 しかし、もう過去のことは消すことは出来ない。 栄子は思った。 『自分の一生は終った』 そして、終った人生の残り火が、子供の行く末だった。 「日比谷高校に行って、そして東京大学に進むつもりなの?」 正二郎はきっぱりと答えた。 「そうだよ。一切勉強しないで、東京大学に正太郎兄さんと同じように不正入学させてもらうんだ」 栄子は、正二郎の言葉に戦慄した。 |