第八章  坂をごろごろ

どんな人間でも、少年・少女の頃には異性に対して淡い想いを必ず持つ。
時には学校の先生に対して、また女の子は同級生や上級生に対して、男の子なら同級生か下級生に対して持つ想いだ。  
正太郎のような、特殊な環境で育った少年は極端な場合が多い。
遊び慣れた軟派な少年か、がちがちの真面目な少年かどちらかだ。
正太郎は19才になっていたのに、女の子と話をしたこともない少年として育った。
小学校の時も、中学、高校の時もそれなりに淡い想いを持った女の子はいたが、すべて片想いで終り、卒業と共に自然に忘れていった。
それよりもいつも頭の中を占めているのは、如何に東京大学生になれるかしかなかった。
今、それが遂に達成できた為、これからの目標を見失いかけていた。
青春時代を受験だけで過してきた少年が、ゴールの大学に入学すると、目標を無くしてしまって心の中に穴がぽっかり開いてしまう。
大学という最高学府は、最高の専門知識、実力を養うためにあって、入学してからが本番であるのに、入学することが最終ゴールと思って受験勉強の為に、青春を犠牲にしてきた少年たちは、事の本質を勘違いしている。
入学して、卒業証書さえ手にすれば目的を達成したと思っているから、もう二十歳前後で人生のゴールを目の前にしたような、老けた精神になっている。
正太郎の場合は、父親の一郎という目標があるから、東京大学が最終目標ではなく、法学部でトップクラスの成績を上げないと大蔵省に入れない。また大蔵省でも次官という目標がある。
次から次へと目標があるところが、宇都宮家という選ばれた一族の強みだ。
エリート官僚の良い点は、努力するというところだ。
一般凡人は、諦めが先にたって、目標を持っていない。仮に持っていても目線を下げて、余り努力をしないから、選ばれたエリートとは努力度に雲泥の差が出る。
日比谷高校生の頃の正太郎は、正に選ばれた人材候補生だった。
東京大学には合格したが、エリートの道に傷をつけるような不正合格をしたことが、正太郎から心の余裕を奪ってしまった。
明るく振舞ったり、クラブ活動に入ったのも、その傷を他人にも、自分にも見せたくなかったからだ。
その結果、村上美香という女性と出会うことが出来たとも言える。
人生何が正解か、最後までわからない。
とにかく、正太郎にとって毎日の通学に、とてつもない楽しみができたことは確かであった。
翌朝、午前の授業はないにも拘らず、朝早く家を出た。
駒場のキャンパスに着いたのは10時前だった。
美香も同じ文1だと聞いていたから、クラスを調べるために教務課に入って行った。
「あのう、すみません。村上美香さんは文1のどのクラスでしょうか?」
教務課の事務員が、不審気な表情で、「あなたは?」と訊いてきた。
「僕は文1Aクラスの宇都宮正太郎です」
名前を聞いただけで、男性の事務員は顔色を変えて、おどおどした態度になった。
「ちょっと待ってください。調べてきますから」
正太郎が教務課の中で待っていると、まわりでひそひそ話声が聞こえてきた。
「宇都宮大蔵大臣の御長男よ。あの学生さん」
「へえ、次の総理大臣と呼び声の高い、あの大蔵大臣の・・・」
『自分のことを噂しているんだ』
正太郎は、何か自分が偉くなったような気分になって、悠然として待っていたら、さっきの事務員が頭を下げながら戻ってきた。
「村上美香さんですね。文1Cクラスです、はい。他に何か?」
まるで御用聞きのようなへつらった態度に、ますます正太郎は気持ちが高揚して、調子に乗ってしまった。
「今日の文1Cクラスの授業はどこでやっていますか?」
普通なら、そんなことにいちいち答えてくれるはずがない。
「すぐに調べてきますから、少々お待ちを」
事務員は走って行った。
一郎の威厳で東京大学の事務員が走り回ってくれていることは重々分かってはいたが、まだ二十歳にもなっていない正太郎は、まるで自分が王様になったような気分になった。
「お待たせしました。村上美香さんは、ロシア語の授業に出ておられます。いま確認しました。なんならお呼び致しましょうか?」
ますますサービスがよくなる。
ここで止めておけばよかったのに、正太郎は暴走してしまった。
「それじゃ、宇都宮正太郎が呼んでいると、伝えてください」
話しぶりまで横柄になっていた。
それから十分も経たない内に、教務課に村上美香が姿を現した。
「なんだ!宇都宮君じゃない。どうしたの、こんな処で?」
いぶかしげに正太郎の顔を覗いている美香の前に立つと、何も喋れないで黙っていた。
またまた、例の事務員が、横から口を挟んだ。
「よろしければ、応接室をどうぞお使いください」
美香は驚いて、事務員に言った。
「いえ、結構です。宇都宮君、用事があるなら出ましょう!」
美香は正太郎の腕を掴んで、教務課を出た。
「一体、どういうつもり?こんなところへ、しかも授業中に呼びだすなんて!」
怒った表情の美香を見て、初めて正太郎は自分のしでかした事の愚かさに気がついた。
「いや、ただ僕は、君のクラスを知りたくて聞きに行っただけなんだ」
精一杯答えた正太郎だったが、美香は興奮して怒りが治まらない。
「何よ!ちょっとキスをしてあげただけで調子に乗らないで!あんなこと誰にでも挨拶程度にするだけよ」
吐き捨てるように言って、その場を立ち去った美香のうしろ姿を見ることも出来ないほど動揺していた正太郎は呆然と立っていた。
ほんの12時間前には、天国の心地だったのが、今は地獄の底に突き落されたような気持ちになっていた。
『こんな状態にしたのは、あいつだ!』
例の事務員の顔を思い出した正太郎は、教務課の戸を開けて入って行った。
その時、首藤次官のところで会った井川総長のことを思い出した。
真っ赤な顔をして、正太郎は教務課の事務員に、「井川総長を呼んでくれませんか?」
さっきの事務員は、「はあ!?」
狐に抓まれたような顔をしていた。
あっけない正太郎の半日の恋だった。
まるで急坂をごろごろ転げ落ち、目が眩むような、こんな経験は、東京大学受験結果の、「桜散る」の電報の時とは、まったく質の違うものだった。
胸が締めつけられるような、やるせない気持ちだった。
大学受験を落ちた時は、怒りがあったから、その気持ちをぶつける対象があった。
だから、一郎の部下だった首藤次官のところに走った。
しかし、今度は怒りではなく、痛みであった。
その痛みを、和らげてくれる相手が誰か、経験の無い正太郎には想像もつかなかった。
痛みの気持ちを、あの時の怒りの気持ちと一緒にした為、井川総長を相手にしたのだ。
そしてその残り滓は、大きな波紋となって広がって行った。