第九章  正二郎の本領

正太郎は、怒りのはけ口を求めて、暴走してしまった。
駒場の教務課から本郷の教務課に連絡が行き、そこから井川総長のところに事の詳細が報告された。
苦りきった表情で、井川総長は大蔵省に電話をして、首藤事務次官のデスクに繋がれた。
「やはり無理して入れると駄目ですな」
井川総長が強気に首藤に言った。
首藤から大蔵省に呼び出され、宇都宮大蔵大臣の長男だから、何とか合格させてやって欲しいと頼まれ、総長のポストもあと1年で後継者に譲らなくてはならなかった井川は、気持ちの焦りから、首藤の要求を受けてしまったのだ。
しかし、気持ちの中では良心の呵責で、よくうなされる夜があった。
天下の東京大学で不正入学が、しかも総長直々に為されたとなると世間の批判の風は相当なものになると思うと、夜も眠れないことがあった。
そこへ、こんな問題を起されたから、神経過敏になっていた井川は、首藤に助け船を求めたのだ。
しかし、大蔵省の事務次官になるほどの男は、白い巨塔の世界とは格が違う。
『俺は、この国の支配者組織の頂点に立っている男だ。それが学生ひとりの不正入学如きで寝言を言ってくるな!』
内心、井川の動揺している声を聞いて、呆れていた。
「そのような些細なことで忙しいわたしの時間を取らないでください。教務課長程度で片付けるものですよ。井川さん。教務課長から、ぐずぐず言うなら退学させると一言言えば、すぐに尻尾を巻いて退き下がりますよ。あんな坊主は」
確かに首藤の言う通りだった。
教務課長が出て来て正太郎を応接に通して言った。
「井川総長に相談しました処、総長は激怒されまして、すぐに退学処分にするよう指示されました。しかし事が些細なことから起こったことですから、わたしの方で処置をすると言うことで、総長の怒りは収まりました。宇都宮正太郎さんと言ったですね?どうしますか?」
見る見るうちに正太郎の顔から血の気が引いて真っ青な顔になった。
「すみません。もう二度とこんなことはしませんので、退学だけはお許しください」
応接室の床に土下座して、床に頭をつけて正太郎は許しを乞うた。
内心、教務課長もびくびくしていた。
『もしも居直られたらどうしよう』
と思っていたのだ。
みんな自分の保身だけに汲々としている連中だ。
しかし、今の正太郎はもっとびくびくしていた。
教務課の部屋を出る時には、いろいろ便宜を図ってくれた例の教務員に頭を下げて平謝りをする正太郎に、その教務員は態度を急変して強気の態度で言った。
「今度、こんなつまらないことで教務課に来たら、承知しないからね」
椅子に座りながら言い放った。
正太郎は頭を下げるだけであったが、同僚の教務員は、余りの態度の急変に呆れ返っていた。
村上美香に袖にされたのと、大学から退学処分にすると言われたダブルパンチで大きな心の傷を負った正太郎が、自宅に帰ると正二郎だけが帰っていて、リビングでテレビを見ていた。
正太郎の表情を察知した彼は、「正太郎兄さん、どうかしたの?顔色が悪いけど」
と如何にも、同情している様子で訊いてきた。
歳は正太郎の方が上でも、世間づれでは正二郎の方が一枚も二枚も上だ。
事情を正太郎から聞きだした、正二郎はニヤリと笑った。
「何がおかしいんだ?」
怪訝な表情の正太郎に、正二郎は恐るべき提案をしてきた。
「正太郎お兄さん。兄さんが東京大学に合格した経緯を手紙に書いて、明日もう一度教務課に行って、教務課長に見せてやればいいんじゃないかなあ。そしたら一挙に形勢逆転して、その村上美香という女の子も自由に出来るようになるよ」
正太郎は、正二郎の恐るべき悪知恵に気づく前に、自分の都合だけを考える体質だったから、すぐに正二郎の案に乗った。
「正二郎。お前も、手紙を書くのを手伝ってくれよな」
態度は完全に下手に出ていた正太郎を、見下げるように正二郎は言った。
「ああ、いいよ。手伝ってあげよう」
正太郎の部屋で、ほとんど正二郎の喋るままに手紙にしたためていった正太郎は、書き終えた時には、傷心で帰って来た時の表情は完全に失せていた。
翌日、正二郎も一緒に駒場の教務課に入って行った正太郎の姿を見た、例の教務員が、立ちあがって、正太郎の方に走ってきて言った。
「君、あれだけ昨日注意しておいたのに、さっそくやって来るなんてどういう了見なんだ!」
怒鳴るように言ったので、部屋中の者が、3人の方へ視線を向けた。
教務員の勢いで、たじろいだ正太郎を見た正二郎が、その教務員に言い放った。
「あんたみたいなジャコを相手に出来ないから、課長さんを呼んでよ」
少年から、まるで小物扱いされ、仰天している様子を察知した正二郎は、タイミングを逃さず、例の手紙を教務員に手渡して言った。
「この手紙を教務課長さんに渡して読んでよ。あんたも一緒に読んだ方が、あんたの為になると思うけど」
ふてぶてしい正二郎の態度に圧倒された教務員は、その手紙を持って課長室の部屋に入って行った。
30分ほど、ふたりは待たされていた。
正太郎はだんだん不安になって来たが、正二郎はせせら笑って言った。
「時間が掛かっているのは、井川総長と電話で話しているからだよ。それの方がこちらに有利に展開しているということだよ」
「そうかな?」と首をかしげる正太郎だった。
しばらくすると、教務課長と教務員が部屋から出て来て、平身低頭にふたりの前にやって来て例の応接室に通した。
「昨日はいろいろ失礼なことを申しあげまして、まことに申し訳ございません。宇都宮大蔵大臣のご子息とは存知上げませんでしたのでつい・・・」
正二郎が口を開いた。
「僕は、正太郎兄さんの弟の正二郎といいます。来年日比谷高校を受験してそれから東京大学を受験する予定です。その節は正太郎兄さんと同じようによろしくお願いします。それから東京大学の井川総長さんから日比谷高校の校長さんに宇都宮正二郎をよろしくとお願いして頂くようお願いします。いいですか?」
唖然と正二郎の話を聞いていたふたりは、黙って頷いた。
「ありがとうございます。それでは本題に入りますが、正太郎兄さんは、昨日、村上美香さんのクラスを伺いに来ただけなのに、ここの方が気を利かせて、授業中の彼女をここまで呼びだしたんですね。それで彼女は激して正太郎兄さんを罵倒したんです。正太郎兄さんは彼女のことを好きだったので、そうだね兄さん?」
正太郎の方を向いた正二郎に、ただ頷くだけだった。
正二郎は続けた。
「正太郎兄さんの、プライドが大いに傷つけられた。それに対する善処をして欲しいのです」
白い巨塔で生き抜いて来た課長は察しが速い。
「おい、君。村上美香君と言ったね。構内にいるかすぐに探し給え。アナウンスしてでもいいから、速く!ここに呼びだすんだ!」
例の教務員は慌てて応接室を出て行った。5分もしない内に駒場構内全部に聞こえる教務員の声が響いた。
10分ほどして村上美香がやって来た。
正太郎と正二郎がいる応接室の隣の教務課長室に呼ばれた村上美香が課長室の部屋を出たのは1時間後だった。
今度は、彼女が真っ青な顔をしていた。
その様子を応接室のドアーの隙間から見ていた正二郎は、「正太郎兄さん、今日はこれで引き上げた方が良いと思うよ。明日かひょっとしたら今晩にでも彼女から優しい声でコンタクトしてくること間違いなしだ」
自信満々に言う、正二郎に初めて戦慄を覚える正太郎だった。
「もしもし。宇都宮正太郎さんはいらっしゃいますか。村上美香と申します」
正二郎の予想した通り、彼女から電話が掛かってきたのだ。