百害あって一利なし

敦子が職場に訪れた夜、比呂志は夢を観た。
会ったこともない老人が比呂志に話し掛けている。
「敦子が比呂志の職場に突然訪れたのは、それなりの理由があったのじゃ」
そのあとも老人は続けたが、比呂志は聞こえなくなった。
夫の清重が須磨寺の修行を終えるのを待って、ふたりは結婚したのだが、清重の要望通り敦子が嫁入りした。
しかしふたりは未だひとつ屋根の下に住んでいるわけではなかった。
敦子が清重に嫁入りする限りは椎葉村に住まなければならないのだが、両家の話し合いで当分の間は別々に暮らすことになり、敦子も実家の東祖谷村に住むわけにもいかず、学生時代を過ごした徳島市内に住んでいた。
平家の落人伝説の地が、九州の宮崎県椎葉村なのか、四国の徳島県東祖谷村なのか、江戸時代から歴史家の間で侃侃諤諤の議論が為されてきたが、未だに決着がついていない。
歴史家の間だけでの議論百出であり、両村とも自己主張するわけでもなく、却って有難迷惑の観が強かった。
そんな世間の喧騒の中で両村はお互いを立てるために縁威関係を結ぶことを思いついたのである、言わば政略結婚である。
こういった事情は当人の敦子も清重も重々承知していた。
敦子が須磨寺で修行する清重のところを訪問したのも、形式上の見合いであったと言える。
敦子は自分の心情を正直に告白して、清重に了解してもらうつもりだったのだが、比呂志が思いも掛けない愚行に出たため予定が狂ってしまったのである。
父親からの忠告と清重の協力もあって、敦子は暫く比呂志との距離を置くことにした。
そんな中で、比呂志が徳島にやって来たのだ。
『あの人がそれだけの人なのか、これは自分の一生の問題だ』
敦子は覚悟を決めていた。
大学時代から勝手知る徳島市内なのに、敦子は敢えて眉山の麓のマンションを借りて住み出した。
眉山から瀬戸内海や吉野川の夜景を見ることが好きだった学生時代の敦子には強い想いがあった。
『わたしは夜景が大好き!』
『愛する人と、ここからの夜景を共有してみたい!』
錐のように尖った山と、楔のように抉れた谷に囲まれた地で生まれ育った敦子には、眼下に拡がる海は優しい母の胸の暖かさと、強い父の背中の広さを髣髴させた。
高く聳える山と、深淵な谷に囲まれた地で生まれ育った敦子には、大きな想いやりと、強靭な忍耐力が備わっていた。
都会で育った若者には想像もできない程の大きな心の器が、自然によって育まれる。
その恩恵は計り知れないものがある。
だが大きな心の器を持っていても敦子は女性である。
ところが卑小な気持ちの器を持っていても比呂志は男性である。
女が男を好きになり、男が女を好きになることは実に不条理な出来事であり、実に不誠実な配剤である。
女が女を好きになり、男が男を好きになることは極めて道理の通った出来事であり、極めて公正な配剤である。
しかし天地を創造した神には性の区別がない。
性の区別のない神には、女の気持ちも男の心も到底理解できない。
そんな神が創った男女の縺れを解くのは一体誰なのか。
神など百害あって一利なしである。
「これでよかったのですか?」
清重は敦子に訊ねた。
「余計なことをさせてしまってごめんなさい」
敦子は素直に謝り、清重も心よく受け止めた。
しかし女と男の血はふたりには通わないのである。
老人の声が再び聞こえた。
「神など百害あって一利なしじゃ」
そして比呂志は夢から醒めた。