夢から醒めた夢

『そうか、そうだったのか!』
比呂志は夢を信じた。
『これは正夢だ!』
徳島に転勤命令が出た時、現実が悪夢だと思った。
転勤命令を言いわたした上司が閻魔大王に見えた。
あれから悪夢のような日々が続いたが、好いことも悪いことも永くは続かないのが天の摂理である。
そもそも好いも悪いもないのが天の摂理であり、天にとってあるのは摂理だけである。
摂理とは、取って代わって処理するという意味であり、天の下にある生きとし生けるものすべてに取って代わって天は処理してくれているのだ。
すべてに取って代わる事柄に好い悪いの違いがある筈がない。
そんな違いがある世の中だから天下というのかも知れない。
徳島に移ってからの1年間という時(とき)は、天が比呂志に取って代わって処理をしていてくれた季(とき)のめぐりあいだった。
荷物をまとめて家を出る間際に、母親の末子から餞別の言葉を貰った。
「父さんは、いつも淡々と生きていた。どんなことが起きても表情ひとつ変えなかった」
齢六十の峠を間もなく越そうとしているのに、天真爛漫さが残っている母の表情が眩しかった。
齢二十六の真直な登り道を歩いている筈なのに、疲労困憊が残っている己の表情が忌々しかった。
『やっと長いトンネルから抜け出られる・・・』
『もう二度と同じ撤は踏まないぞ・・・』
職場に赴いた比呂志の顔から橙色の鈍い輝きが放たれているのに気づいた同僚の高木礼子が話し掛けてきた。
「熊谷さん、今日はどうしたの?顔が輝いているわよ、何か好いことでもあったのね・・・」
失意の中で赴任して来た比呂志を、この一年間支えてきてくれたのが礼子だった。
高木礼子は一昨年徳島大学を卒業して就職した、阿波の国から一歩も出たことのない純粋の阿波っ子である。
神戸で生まれ、京都で学び、大阪で就職した比呂志は、礼子にとって憧れの存在だったようで、彼が徳島支店に転勤して来た時から注目していた。
比呂志も礼子のことを悪く思っていなかったが、それ以上ふたりの距離が近づくような惑不惑(わくわく)するような出来事は未だ起こっていなかった。
貧すれば鈍するのが人生であれば、窮すれば通ずるのも人生であり、それが人生の妙であると言える。
しかし比呂志は、惑不惑(わくわく)することなく、褌を締め直して不惑の境地に自分を置くことにした。
『やっと長いトンネルから抜け出られる・・・』
『もう二度と同じ撤は踏まないぞ・・・』
独り言のように呟く様子に怪訝な変化を感じ取った礼子だったが、阿呆踊りの阿波っ子にしては至って冷静な女性だった。
大阪支店までやって来た敦子の噂は、先輩の女性たちから礼子の耳に入っていて、昨日売り場にやって来た女性がその女(ひと)であることを察していたが、比呂志の前で決して口には出さなかった。
一度でも修羅の場の経験をすれば、人間誰でも慎重になり、賢明になる。
それを以って大人というなら、人生とは寂しい限りである。
寂しい人生の入り口から二軒ほど既に入った比呂志が、入り口の前にも立ったことのない筈の礼子と対峙する。
男の女の妙なるめぐりあいとは、こんな節目から新芽が出るのかも知れない。
しかし今の比呂志は、そんな悠長なことを言ってる場合ではなかった。
『敦子さんは、自分のことを待ってくれているんだ』
胸が心地よく締めつけられる。
『前の例があるだけに、敦子さんは自分を試しているんだ』
焦燥感から来る冷や汗ではなく、緊張感からくる熱い汗が全身内外に激しく流れるのを音感する比呂志だった。