言霊の力

敦子・清重夫婦は、比呂志が観た夢とは違って卯建(うだつ)で有名な貞光町に居を構えていた。
貞光町は昔から修行のため剣山に上る役の行者の出発点としても有名だが、江戸時代に阿波藩が剣山を中心にした祖谷山連峰の広大な山間部の支配のために代官所を置いた地であり、この貞光代官所を中心に葉たばこを産業にした商業が栄えた阿波藩屈指の郷町である。
貞光町に建つ豪商の屋敷の二層の卯建は全国的にも珍しいもので、段になった防火壁に立派な屋根がついた重厚なものだ。
「(卯建)うだつが上がらない」という言葉の発祥の地である。
東祖谷村の村長をしている敦子の父親・平洋平は、以前から葉たばこの商売を貞光町でしていた。
清重は婿入りしたわけではなかったが、洋平の薦めもあり貞光町で商売の修行をすることになったのである。
「『婿入りするのではなく、嫁として迎えたい』なんて偉そうなことを言ったけど、これじゃ婿入りと同じだなあ!」
頭を掻きながら、清重は笑った。
「・・・」
敦子は黙っていた。
ふたりが結婚して1年が経過していたが、ふたりの間にはまだ距離があった。
清重が7年間出家の身であったことに対する敦子の引け目がひとつの理由であるが、敦子の心の中に比呂志の陰が残っていると思い込む清重の心の凝がその原因でもあった。
ふたりは本当の夫婦関係にはなかったのである。
そんな歪な関係に罪悪感を持っていた敦子は、自分の気持ちを確かめるために比呂志に会いに行った。
「こそこそとしたくない!」
敦子は清重に言った。
「じゃ、わたしも一緒に行こう!」
絶対の自信はなかったが、心の制御はある程度できると思っていたから出来たことだ。
最後に別れの挨拶を交わすまでは、心の揺れは微塵たりとも感じていなかったのだが、「お幸せに・・・」と比呂志が言った最後の言葉で、敦子の心に激震が走った。
「お父さんのところへ行って来る」
清重は黙っている敦子に、口調を変えて言った。
「いってらっしゃい。山道だから気をつけてね」
精一杯の言葉だった。
清重が出かけると、敦子の心はますます騒ぎ出した。
電話の受話器に何度も手を掛けるが、上げることはできない。
『わたしは酷い女なのだろうか?』
自問するが、答えるのも自分なのだから、答えはわかりきっている。
卯建の上がった古風な屋敷に似合う大きな掛け時計が、「カチッ、カチッ、カチッ」と、敦子の鼓膜を突き破るように響く。
屋敷の前の道路を挟んで吉野川の上流である貞光川のせせらぎも共鳴して、「ザアア、ザアア、ザアア」の音が聞こえる。
我に帰った敦子が視線を下ろすと、黒い昔風の電話が響いている。
咄嗟に受話器を上げて、「もしもし」と言った。
「もしもし」
相手側も言った。
相手が誰なのか敦子には一瞬わからなかった。
「もしもし。比呂志ですが・・・」
この言葉で敦子の心は大きく傾いた。
「もしもし、熊谷ですが・・・」と言われたら、彼女の心は反対に揺れ動いたであろうが、比呂志が意図したわけではなかったが、運命の振り子は時計と反対方向に大きく揺れ出したのである。
言葉は魂を持っているという。
言葉が魂を持っているのではなくて、言葉を発する「想い」が波動となって、目に見えない空間を光以上の速度で飛び交う。
光以上の速度で飛び交う波動を言霊と言うのであろうか。
比呂志の「想い」の波動が言霊となって、敦子の心に突き刺さった。