女(母)と男(子)

抱きしめたい思いを必死に堪えて、比呂志は敦子の正面に立った。
「まるで仁王さんみたいですね!」
微笑ながら言う敦子の頬は、真紅の熱い涙と貞光川のせせらぎが放つ紺碧の冷たい飛沫で濡れていた。
『奇麗な人だな!』
純粋にそう思える気持ちに戸惑いながらも、小学生の頃の記憶に残る甘酸っぱくも懐かしい子供の無垢さゆえの感動が、大人に脱皮した比呂志の脳裏をやさしく刺激する。
『しばらくこのままでいたい!』
時を止めたいと思う経験が一生の中で何度かある。
世界は無常に時が流れて行く。
自分だけの世界を見つけた者は、時が流れない世界を見出す。
一生の中で何度か経験する、時が止まる想い。
はじめの経験が、生れるとき。
おわりの経験が、死ぬるとき。
はじめとおわりは、まさに自分だけの世界。
その狭間でふたりだけの世界で時が止まる経験をすることもある。
それが男と女の真実(ほんとう)の恋愛だ。
『奇麗な人だな!』
男は子供になって思う。
『しばらくこのままでいたい!』
女は母親になって思う。
『家に来てもらおうか?』
女は心の中で迷うが、言葉に出すことで止まった時の目を醒まさせたくないと感じる。
「剣山までもう一度案内してもらえませんか?」
止まった時を再び動かすのは必ず男の方だ。
世間をリードする男の世界の宿命なのだろうか。
そんな男の真心に真心の女は惚れる。
偽者の男は、女の家に直行する。
そんな男の嘘に嘘の女は惚れる振りをする。
「少し時間が遅いけれど、いいですよ」
敦子は真心の女だった。
敦子の運転で剣山道である一宇街道のドライブをふたりは楽しんだ。
半時間ほど走ると、せせらぎの音が一段と大きく聞こえてきた。
三段構えになって身をくねらせるように落ちて行く鳴滝が見えてくる。
「憶えておられます?ここで写真を撮ったのを・・・」
敦子が頬を薄紅色に染めて言った。
『抱きしめたい!』
再び同じ衝動が突然湧いてきた。
その瞬間(とき)、車がひとりでに静止した。
大人の理性が働くのはここまでである。
況してや、子供の心に戻った男の理性は雲散霧消する。
況してや、母親の心に戻った女の理性も雲散霧消する。
ふたりは車の中で抱き合った。