不安の中の安らぎ

『これからどうなるんだろう・・・』
ふたりは内心思った。
欲望が解消されると不安が一気に噴き出すのが人間の悲しい性であるなら、欲望を制御すればいいのだが、何度遭遇しても懲りない人間という動物は賢いのか愚かなのか誰も判断できない。だから神を捏造って神に責任を擦り付けようと言うのか。
責任逃れのお釣は大きいが、それをお布施という形で片付けるというなら、宗教は搾取する側も搾取される側も相身互である。
「剣山頂まで登れますか?」
比呂志は気を取り直して敦子に訊いた。
「ええ、大丈夫だと思いますが・・・」
合点が行かないまま生返事をしたが、比呂志の表情を観ていると安心感が湧いてくるようだった。
「平家の馬場で思い切り深呼吸しましょう!」
敦子の運転する車は再び一宇街道を走りはじめた。
曲がりくねった一宇街道を走り、東祖谷村と剣山頂へのドライブウェイの分岐点にやって来た。
敦子が迷わずハンドルを右に切ると、「剣山ドライブウェイ」という標識が見えてきた。
道路は急な登り坂になり、窓外の殆どが真っ青な空になる中、ふたりの気持ちはひとつになっていた。
この辺りはスキー場としても有名なところで、四国のみならず中国地方や九州からもスキー客が冬になるとやって来る。
大きなロッジを右に眺めながら、敦子の運転する車はますます急坂になる道を登って行った。
「もうすぐ夫婦池が左手に見えてきます。そうしたらもう見の越です」
剣山は源平合戦で敗れた平家の名目上の頭領・安徳天皇の剣が隠された山という伝説から剣山と名づけられた。
古代ユダヤ人がイェルサレムのソロモン神殿に安置されていた契約の聖櫃を持って、シルクロードの長い旅をして辿り着いた地が死国の淡の国であり、剣山は彼らが得意としていた土木建築技術力でつくりあげた人工の山だという伝説もある。
夫婦池は、契約の聖櫃を安置してある山頂の地下の大きな瓶の水の補給池であるとも言われているだけに、自然が織り成した池とは思えない水の色と姿形をした珍しい池である。
学生時代にはじめてやって来た時に、敦子からふたつの伝説を聞かされたことを思い出しながら、比呂志は夫婦池を見ていた。
夫婦池をぐるりと回るように走る道の前方がやがて広がって行くと、眼前に壮大な剣山頂が見えてきた。
リフトの見の越駅の手前にある駐車場に向かおうとした敦子を制して、比呂志は言った。
「大剣神社の階段の手前で降ろしてください」
「さきほどタクシーに乗せてくれた新田さんと馬子さんが大剣神社にいるかも知れないので、ちょっと寄って来ます」
怪訝な表情で見る敦子に、比呂志は丁寧に説明した。
貞光タクシーの看板のついたタクシーが食堂の前に停まっていたからだ。
敦子は、大剣神社の長い階段の前に停車して待つことにした。
五分もしない内に三人が階段を下りてきた。
「敦子さんじゃないかい!」
老人が驚いた様子で言った。
「馬子さん!」
敦子も驚いた様子で言った。
「そういうことだったんですか!」
大阪からやって来た、新田という男性だけがひとり冷静な口調で言った。
「平家の馬場に行こうとやって来たのです」
比呂志は新田に説明した。
「平家の馬場とは、面白い話ですね!」
新田は関心を示したが、老運転手との約束を思い出して、「わたしはやめときます」と言った。
大剣神社の前でタクシー組と別れたふたりはリフトに乗った。
一気に海抜200メートルも上がるリフトはおよそ15分掛かって到着する。
独り独りになった比呂志と敦子にとっての15分は一年の長さに感じられた。
ふたりにとってはその反動か、リフトを降り山頂へ向かう急坂でも、まるで1分か2分程度の短くも楽しいハイキングだった。
午後5時を過ぎていたので山頂へ向かう客は殆どいなくなり、平家の馬場には比呂志と敦子だけがいた。
平家の馬場から、遠く室戸岬、瀬戸内海、紀伊半島が眺望できる。
これからやって来る運命の荒波を乗り越える覚悟をしたのか、ふたりはそっと手を繋いで、峰から峰に続く馬の背の細い道に視線を送っていた。