大胆な女

その日、敦子と比呂志は貞光駅で別れた。
剣山から暗くなった一宇街道を一気に下り、貞光駅に着いたのは夜の8時前だった。
「気をつけて帰ってください」
徳島駅行きの電車が貞光駅に入ってきたとき、プラットホームまで一緒に来た敦子が言った。
青天井のプラットホームが電灯もなく真暗だった所為か、敦子の顔色が一段と蒼白く見える中で彼女の目元が光っていた。
『今度いつ逢えるんでしょうか?』
比呂志は胸の中で呟いていた。
どうしても言葉に出せないのだ。
『もう逢えないと言われたらどうしよう!』
心身障害を来した人間がよくやる一人芝居をしていることにも気づかない。
比呂志はドアーが開いた電車に飛び乗り、彼女の目を見つめて呟いた。
『今度は神戸で逢いましょう!』
彼の気持ちが通じたのか、ドアーが閉まる直前に敦子が大声で叫んだ。
『もう一度薔薇園に連れて行ってください!』
電車の中から比呂志が思い切り手を振ると、プラットホームを走る敦子の姿がいつまでも見えた。
若い比呂志には夫の清重の存在は気にならなかったが、敦子はやはり人妻だ。
素直に気持ちを言葉に表わせないもどかしさが募る。
男の誠意と言ってもいいのか、男のだらしなさと言ってもいいのか、男の純粋さと言ってもいいのか、男の臆病さと言ってもいいのか・・・。
『同じ撤を二度踏むことはできない』
一年前からの比呂志の座右の銘である。
敦子は比呂志と別れたあとも、すぐには家に戻らなかった。
東祖谷村の敦子の実家に泊まっている筈だから、家に戻っても夫の清重は帰っていない。
敦子が貞光駅でダイヤを見て言った。
「8時27分貞光発、徳島着10時5分という電車があります」
比呂志が徳島の独身寮に着くのは10時半過ぎだということを知っていて、それまで家に帰る気にはなれなかった。
敦子は、駅の駐車場に停めてある車の中で時間が経つのを待つことにして、今日一日のことを思い出していた。
『あの人は一年前のことをずっと悔やんでいる』
胸が痛くもあり、快くもある。
胸の痛さが彼女の「想い」を蜂のように刺す。
胸の快さが彼女の五感を孔雀の羽のように撫でる。
一年前に受けた胸の傷の痛みと、今の胸の快さが交錯して、既に開放した肉体とそれに伴う意識が敦子を大胆にする。
戦士になった男は奴隷になった女には大胆になるが、子供になった男は母親になった女に傳き、母親の大胆さを女は発揮する。
そうなると女は妻であることを完全に忘却して子供のための母親に徹する。
『別に家に帰ってもどうってことはない!』
自分に言い聞かせてから、敦子は車のエンジンを掛け家路に就いた。
貞光の昼の町並みは美しいが、夜は真暗闇で何も見えない。そんな中を一台の車が卯建(うだつ)に見守られて昔の屋敷に入っていった。
真暗になった母屋に入り、電灯を点けた途端、電話が鳴った。
壁に掛かっている大きな柱時計を見やると9時を過ぎたばかりで、意識して受話器を取り上げようとしない。
電話の呼び出し音は永遠に鳴り続けるかのように力強く、そして怒りが篭っているのだが、彼女の心は微動だにしない。
彼女が柱時計を見て10時5分を過ぎるまでに、電話は断続的に鳴り続けたが、見向きもしなかったのに、10時5分を過ぎた直後に鳴った電話の受話器はすぐに取り上げる。
「もしもし」
彼女から口を開く。
「もしもし」
敦子は受話器を下ろした。