攻守交替

『お父さんだ!』
敦子は咄嗟に受話器を下ろしたが、すぐに後悔の念が脳裏を走った。
夫の清重からの電話なら出るつもりはなかったが、父親の洋平だと話は別である。
だからと言って、自分から掛け直す気までなれない。
敦子はしばらく電話に釘づけされたままでいた。
柱時計が10時半を報せる鐘を一回鳴らした。
『もうあれから半時間近く経っているんだ・・・』
時間というものは神と同じぐらい気紛れだ。
時の流れを止めて欲しいと思ったときにはより速く流れ、時の流れを速めて欲しいと思ったときにはなかなか進まない。
神の恵みを求めたときには与えてもらえず、神の恵みなど要らないときに押しつけがましく与えてくる。
それでも愚かな人間は懲りもせず、初詣、お彼岸、お盆、大晦日と神社仏閣の賽銭箱を潤わせる。
中でも酷いのは、普段は社会正義に反する行為をしている輩が神の恵みを求めてやって来るが、それを歓迎する宮司・住職は一体何者か。
「ジイーン、ジイーン、ジイーン」
敦子は我に帰って受話器を取るなり叫んだ。
『お父さん!』
「敦子かい、さっきはどうしたんだ?急に電話が切れてしまったが」
敦子は黙っていた。
「清重君から概ねの事情は聞いたが、今更よくないね」
敦子の足もとに滴がポトポトと止めどもなく落ちた。
「だけど・・・」
『だけど、あの人はこの一年で大きく変わったの』
そう洋平に言いたかったのだが、言葉が出ない。
「お前の気持ちはわからないでもない。しかし今更よくないね」
親の殺し文句を二度までも言われた子供は降参する。
「そうね、今更よくないわね・・・」
「わかりました」
「もういいですか?」
洋平の方から黙って電話を切った。
その夜、敦子は一睡もできなかった。
「今日は、独りで家にいますから・・・」
比呂志との別れ際に言った言葉を何度も思い出していたが、比呂志からの電話はなかった。
柱時計が5時半を報せる鐘を一回打った。
「ジイーン、ジイーン、ジイーン」
意識が朦朧とした中で、敦子は比呂志からの電話の夢を観た。
受話器を必死に取ろうとするが、なかなか取れない。
「もしもし」
敦子は自分の声で夢から醒めた。
「もしもし、比呂志ですが・・・」
「ガチャッ」
比呂志は、一年前の現実か夢かの心地をもう一度味わいたいと思い、朝の5時半まで寝ずにいた。
そして満を持して電話をしたのだ。
父親の洋平からの電話より先に、比呂志が電話をしていれば、敦子の心が揺らぐことはなかっただろう。
敦子は思った。
『一年前には、あの人が会社のためにわたしを犠牲にした・・・』
涙が止まらなかった。
『一年後には、わたしが家族のためにあの人を犠牲にした・・・』
比呂志がそんな敦子の気持ちを理解できる筈もなかった。
人生は攻守交替のゲームであるとはこんなものであろうか。