時の落し穴

「お前、名前なんて言うんだ?」
腕白そうなガキが、ひ弱そうな少年の胸に、指を刺して訊く。
指を刺した少年の胸に「熊谷泰隆」と書かれた名札があったが、腕白ガキには読めない。
少年は全身汗びっしょりになって我慢していた。
「お前、すごい汗掻きなんだなあ!」
腕白ガキは何処で会得したのか、人の弱味につけ込むヤクザの十八番を既に身につけていた。
「おれの名前はなあ・・・。へへへ・・タイラヒロシってんだ。だからお前の名前を言えよ!」
胸を少年の目の前に突き出しながら不敵不敵しい表情で言う。
その胸にぶらさがっている名札には、「平博嗣」と筆文字で書かれてあった。
「ヒロシ?」
少年がはじめて口を開いた。
『お父さんと同じ名前だ!』
少年は、大好きな父の名前と同じ「ヒロシ」というだけで、腕白ガキに親しみを感じたらしい。
「ぼくの名前は、クマガイヤスタカと言うんだ。ぼくのお父さんの名前も、お前と同じヒロシと言うんだよ」
腕白ガキも、嬉しそうな表情で喋る少年に、急に親近感を持ったらしい。
ふたりは一宇小学校二年生の同じクラスで、泰隆が徳島市内の小学校から転校してきたのだ。
「そうか。お前のお父さんもおれと同じヒロシっていうのか」
腕白ガキは急におとなしくなった。
「どうしたんだ?」
一転ひ弱な少年の方が積極的になった。
「おれんちのお父さんは・・・」
腕白ガキはそう言って走り去って行った。
あとに残された泰隆には、腕白ガキの想いを推し量るすべもなく、ただただ新しい友達ができた嬉しさでいっぱいだった。
「お帰りなさい、お父さん!」
玄関先まで走って迎えに出た泰隆は最初に、父の比呂志に報告したかった。
「どうしたんだい?何かいいことあったのかい?」
そこへ妻の礼子がキッチンから出て来た。
「お帰りなさい!」
比呂志の勤めるデパートがスーパーに進出したのは3年前のことだった。
日本で最も古い老舗デパートだった比呂志の会社は、スーパー進出に二の足を踏んでいたが、新興のスーパーが多くのデパートを食い潰していく中で重い腰をやっとあげたのである。
徳島郊外でも有力な郷町である貞光町にスーパーを開業することが決まったのが1年前のことで、半年間の突貫工事で晴れて開業の運びとなり、比呂志は新しいスーパーに転勤になったのである。
「新しいお店で疲れたでしょう?」
礼子も比呂志のことを気遣った。
「お風呂の用意をしますから、先に入ったら・・・」
礼子がそう言ってキッチンに戻ると、泰隆は、『待ってました!』とばかりに話を続けた。
「新しい友達ができたんだ!」
転校する少年が必ず陥る鬱症状が昨日まであっただけに、比呂志はひと安心した。
「そうか!すぐに友達ができてよかったな!」
比呂志も自分のことのように嬉しかった。
「それで、その友達はどんな子なんだ?」
人生は思わぬところに落し穴がある。
絶対予想できない中に落し穴がある。
「そうか!すぐに友達ができてよかったな!」
ここで止まっていれば落し穴は待っていない。
「それで、その友達はどんな子なんだ?」
ここまで踏み込めば落し穴に真逆だ。
「タイラヒロシって言うんだ!」
比呂志は「タイラヒロシ」という子が誰の子であるかすぐにわかった。