夢のゴング

「博嗣ちゃん、元気がないけど、どうしたの?」
一宇村一の腕白坊主で通っていた息子が自棄に落ち込んでいる。
敦子は貞光町から一宇村に引っ越したあとに博嗣を生んだ。
比呂志と決別したあと暫くは貞光町で暮らしていたが、敦子が最初の子供を宿したのを切掛けに、実家のある東祖谷村に近い一宇村に移ったのである。
「うん、今日ね・・・・、白人神社に行った帰りに、徳島から転校してきた奴と会ったんだけど」
いつもと違って歯切れが悪い。
「そいつのお父さんの名前が、ぼくと同じヒロシって言うんだって」
敦子は内心、『ギクッ』とした。
「そいつの名前はね、クマガイヤスタカって言うんだ」
一宇村に移ってからの10年近くは、まさに一宇村に相応しい静寂の中の沈黙と鬱蒼の宇宙だった。
貞光川のせせらぎが時として喧騒を招き入れる貞光町の生活の中で、敦子も混沌(ざわめき)を一片(ひとひら)招き入れたこともあった。
人間特に女という動物は環境に対する順応性に長けていることが、畢竟、自己の性(さが)に決別させる勇気というのか度胸というのか、大胆不敵さを醸し出させる。
「そう、それでクマガイヤスタカ君がどうかしたの?」
敦子は博嗣に引き摺られるように相槌を打つ。
「うん、そのヤスタカって言う奴がね、お父さんの話になると突然変になるんだ」
身体を乗り出して訊く敦子。
「お父さんのこと好きなんだわね、その子」
人生は思わぬところに落し穴がある。
絶対予想できない中に落し穴がある。
「そう、それでクマガイヤスタカ君がどうかしたの?」
ここで止まっていれば落し穴は待っていない。
「お父さんのこと好きなんだわね、その子」
ここまで踏み込めば落し穴に真逆だ。
「だって、うちのお父さんは・・・」
博嗣がまだ言い終わっていないうちに、敦子の胸が騒ぎ出した。
『しまった!』
10年近くなかった胸の喧騒が暴れ始め、首筋に稲妻が走ることでリングの兆候(ゴング)を力強く打った。
「だって、うちのお父さんは、僕のこと嫌いなんだ!」
敦子は泣きじゃくる博嗣を強く抱き締めながら、独り言を呟いた。
『あなたのお父さんはね・・・』
独り言が断続的にしかならないのは、当の本人がいちばん承知している。
「お父さんは、あなたのこと好きであっても、嫌いなはずがないでしょう」
博嗣は、ことあるごとに敦子のこの言葉によって刹那的生き方の習い性を植え続けられてきた。
習い性の反動はボディーブローの効き目がある。
11ラウンドまでは、必死に堪えてきたボディーブローだったが、最終ラウンドになってのボディーブローだった。
「もうそんなこと信じられない!」
博嗣は終にノックダウンした。
敦子は比呂志に会う決意をした。
敦子はその夜変わった夢を聞いた。
音だけの夢だった。
「カアーン、カアーン、カアーン・・・・・・・カアーン」
ボクシングのゴングの音が10回響くだけの夢だった。
「どうしたんだ!」
夫の清重が言った。
汗びっしょりになっている敦子を、心配そうに眺めている。
「何か、鐘の音が鳴っているような寝言を言っていたよ」
清重にとっても変な寝言だった。
女がボクシングの夢など観よう筈がない。事実、ボクシングをしている映像などなく、ただゴングの音だけだ。
「夢を観ていたのかどうかも憶えていないんです」
敦子の言葉には事実嘘はなかった。