めぐりあい

その夜、敦子は再び夢を観た。
今度は本当に夢を観た。
「比呂志さん、わたしをどこかへ連れて行って!」
叫びながらも追いかける比呂志から逃げて行く。
夢を観ている自分が呟く。
『どうして逃げるの?』
必死に逃げる自分に必死に叫ぶ。
「どうしてあなたが逃げるの!比呂志さんが追いかけて来てるのに、どうして逃げるの!」
叫ぶ自分の手のひらが自分を追いかけるのが目の前に見える。
追いかける姿はますます遠くなり、比呂志の姿までが見えなくなっていく。
「待って!比呂志さん!」
逃げる敦子を追いかける比呂志、そのうしろ姿を手のひらが追いかける。
「比呂志さん!」
敦子は夢から醒めた。
「お母さん!どうしたの!」
博嗣が傍で叫ぶ。
「ぼくを呼んでたけど・・・」
我に帰った敦子は、部屋のまわりを見渡し、状況を掴んだ上で、静かに博嗣に答えた。
「ヒロシちゃんの夢を観ていたみたい」
博嗣は怪訝そうな表情で言う。
「ぼくのことヒロシさんって呼んでたけど・・・変な気持ちだったなあ・・・」
子供でも大人以上に違和感を持つことがある。
理由はないのだが、身体が感じるのだ。
『このままではいけない!』
敦子は決意した。
夢から醒めたまま眠らないで朝を迎えた敦子は、泰隆から聞いたことを思い出して、一宇橋の袂にあるバス停留所に向かった。
「お父さんは、いつも毎朝6時45分のバスにここから乗るんだよ」
腕時計を見ると、「6時35分」を指していた。
胸の高鳴りが頭まで響くのがわかる。
普段気がつかなかった回りの景色が視界の中に無理やり飛び込んでくる。
鬱蒼とした木々が貞光川の上まで伸び、深い谷と相俟って高い空を遮る。
そんな景色が村人の心を複雑にするのだろうか、一宇村は昔から外人村(げにんむら)と呼ばれていた。
日本人とはおよそ掛け離れた、肌の白い彫りの深い村人が多く住んでいる。
「白人神社」
はくじん神社とも読める。
「外人村」
がいじん村とも読める。
敦子の脳裏に一宇村での10年間のことが次から次へと現われては消えてゆく。
一宇橋に着いた敦子が時計を見た。
「6時43分」だった。
動悸が秒針と同じ間隔で打つのがわかる。
耳の傍で大太鼓を叩かれているようで、その響きに耐え切れずに体を反らしたとき、泰隆と一緒に歩いた道から、比呂志がやって来るのが見えた。その一瞬、大太鼓の響きは鳴り止み、貞光川のせせらぎの音も遮断する程の沈黙が襲ってきた。
比呂志も敦子の姿に気がついたらしく、一瞬早足に変わった。
走る男と走る女。
「どうしてもお会いしたくて・・・」
走る男と走る女には余計な言葉など要らない。
ふたりはいつの間にか、タイムトンネルに入ったかのように、鳴滝の傍にやって来た。
はじめてふたりが抱き合った場所である。
人間にもやはり走性があるらしい。
だが鈍感になり過ぎた現代人の走性は完全消滅してしまったらしい。
激しく水しぶきをあげる三段の滝から発する音が、ふたりに言葉の無意味さを教えてくれる。
抱き合うことで、お互いの肉体の温もりを感じる。
肉体が意識を上回ると、お互いの肉体の塊を感じるが、意識が肉体を上回ると、お互いの肉体の温もりを感じる。
プラトニックラブは決して心の作用ではなく、肉体の作用である。
相手の肉の塊を感じるか肉の温もりを感じるかで、セクシャルラブかプラトニックラブかがわかる。
成熟した男と女が相手の肉体の温もりを感じている。
これこそふたりの世界だ。
世間の雑事は一切関りない、時の刻みが止まった、ふたりの世界である。
敦子は黙って自分を抱き締めてくれる比呂志で充分だった。
『何の言葉も要らない!』
10年前の抱擁のときは、ふたりは不安に駆られた。
『これからどうなるんだろう・・・』
10年後の抱擁は、ふたりをもっと過酷な状況に引き摺り込む筈なのに、抱き合ったふたりが感じる温もりの向こう側で響く高鳴りは、しっかりとゆったりとしていた。
めぐりあいの感動だけが与える瞬間だった。