独りだけの幸せ

仕事を休んだ比呂志は貞光駅で敦子を待った。
「博嗣を学校に送り出してから、貞光駅に行きます」
鳴滝で比呂志と別れたあと家に帰ると、博嗣が玄関先で待っていた。
「お父さんは、もう出かけたよ!」
清重の仕事場は以前住んでいた貞光町の家であり、一宇町から毎日通っていた。
「お父さんは何時に出かけたのか、博嗣ちゃん知っている?」
警戒心が強くなっていた所為か、敦子は念には念をいれた。
「お母さんが出かけたあと、すぐにお父さんも・・・」
博嗣も怪訝そうな表情に変わって言う。
『まさか!』
普段の自分に戻ったが、すぐに気を取り直して、博嗣の手を持って言った。
「さあ、学校に行きましょう」
一宇小学校一番の腕白少年の博嗣でも、母親と一緒に学校に行くのが余程嬉しかったらしい。
「わあ!お母さんと一緒に学校に行くの!」
一宇橋まで出て来たふたりは、泰隆と出会った。
敦子は博嗣と泰隆を連れて一宇小学校の正門まで行き、そこでふたりと別れた。
一宇橋まで戻り、辺りを見回し、人の気配を感じないのを確認して、停留所でバスを待った。
『貞光駅まで30分掛かる・・・』
『あの人は待っていてくれるだろうか?』
『前はわたしが裏切った・・・』
『その前はあの人が裏切った・・・』
多くの想いが次から次と浮かんでくる。
時計を見るとまだ3分しか経っていない。
3分の間にこれだけの想いが去来する。
『ハッ!』
何かに気づいた。
『この想いが、ふたりの人生を狂わせてきたんだ!』
敦子は思い切り首を横に振って、去来する想いを払拭しようとした。
それでも想いはしぶとく襲ってくる。
『夫の清重が監視しているかも知れないぞ!』
『父の洋平が聞いたら哀しむぞ!』
その度に首を横に振る。
首を振っている瞬間だけでも、想いを断ち切ることができる。
それでも想いはしぶとく襲ってくる。
『あの男は今ごろ家に戻って・・・』
『あの男は前に裏切っただろう・・・』
負けずに首を横に振ると、想いはその瞬間だけでも消えてゆく。
『ブーブー!』
目覚まし時計が鳴り、敦子は目が醒めた。
バスがやって来たのだ。
無心でバスに乗り込み、座席に就き、『ホッ!』と一息ついた途端、『ハッ!』と気づいた。
『なあんだ!『さっきまで大変なことになった!』と思っていた想いを忘れてしまっていた!』
『大変なことなんて人生にはひとつも無かったんだ!』
そう思うと急に気分が楽になっていく。
あっという間にバスは貞光駅に着いていた。
窓から駅を眺めていると、プラットホームに比呂志が立っているのが見えた。
目頭が急に熱くなっていくのも忘れて、敦子は一目散に走り出した。
『これが本当の幸せなんだ!』
比呂志も夫も博嗣も誰もいない、自分独りだけの世界だった。