晩秋の木枯らし

敦子は久しぶりに大阪に出るために、20数年前に泊まったホテルを予約しておいた。
そのホテルから比呂志が勤めるデパートが見える。
昼の12時過ぎにチェックインして、御堂筋を挟んでホテルの向かい側にあるイタリアレストランに入った。
「いらっしゃいませ、おひとりですか?」
店員が敦子に訊ねる。
敦子は黙って首を横に振り、奥のテーブルに視線を送り、そのまま足を進めた。
敦子の雰囲気が店員を圧倒した所為か、店員は黙ってその場に立っている。
「お待ちになりました?」
奥のテーブルに比呂志が先に待っていた。
「いや、ほんのちょっと前に来たところだよ」
敦子が頷いた。
「お仕事は慣れました?」
敦子の問い掛けに比呂志は頷くだけだった。
ふたりは淡々と食事をしているのだが、実に楽しそうでもあり、ゆったりとした雰囲気を醸し出していた。
「お仕事はいいんですか?」
敦子は腕時計に目をやりながら訊く。
「うん」
比呂志は頷くだけだ。
「それよりあの子が極道になるって言うこと聞かないんで仕方なく・・・」
敦子は項垂れて言う。
「ああ、そのことなら石井さんから聞いたよ」
石井一は博嗣のことで大阪の新田のところに相談に行った。
「熊谷さんに話された方がいいでしょう」
新田が一言助言を与えたため、石井はデパートに比呂志を訪ねた。
「新田さんが、あなたに話をした方がいいと言われたんですが・・・」
石井は新田の言うことなら何でも聞くが、比呂志の煮えきらない態度には以前から疑問を呈していた。
「石井さん、あなたのおられる世界では、熊谷さんのような男性は許されないでしょうね」
微笑の柔らかいオーラの中心から鋭い眼光が一直線に石井の瞳孔を突き刺すと、蛇に睨まれた蛙のように石井は硬直した。
『極道の世界でも、こんな恐ろしい眼光を発する人はいない!』
新田は続ける。
「平敦子さんが偉いんでしょうね。やはり平家の血でしょうか」
石井は大きく頷く。
「熊谷さんもよく頑張ったんじゃないでしょうかね」
空を見上げて深呼吸をしてから、新田は静かな口調で言った。
「ふたりのために、一肌脱いであげてください」
石井は頷くばかりだった。
「新田さんがそう言ったんですか?」
敦子が驚いた。
「うん、そうらしいよ」
比呂志は苦笑しながら小さく呟いた。
“人生に奇跡はない”
人は言う。
“生きていることが奇跡だ”
新田は言う。
“どんなことでも可能だ、やる気さえあれば、それが奇跡だ”
新田は更に言う。
“やる気そのものが奇跡だ”
この言葉を支えにふたりは10年間を生きてきた。
“やる気”だけで生きてこられたのだ。
まさに10年間の出来事は奇跡以外の何者でもない。
そしてふたりはある域に到達した。
「新田さんがそう言うんだから、いいんじゃないかなあ・・・」
比呂志は気負うこともなく淡々と言った。
「そうですね」
敦子も落ち着いた様子だった。
イタリアレストランの中でふたりは別れ、南へ向かう比呂志の背中と、北へ向かう敦子の背中に晩秋の木枯らしが吹いていた。