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複雑な想い 「もしもし、熊谷さんのお宅ですか?」 「はい、そうですが?どちら様でしょうか?」 受話器から礼子の声が聞こえた途端、博嗣は受話器を下ろそうとしたが、危機予知アンテナが瞬間作動して、それは電話機に収まる手前で停まった。 極道の世界に身を置く人間に必然的に所与される危険予知機能である。 「もしもし、平博嗣ですが、永らくご無沙汰しています」 礼子は受話器から発せられる第一声で、声の主が博嗣であることを直感で察知していた。 「まあ、めずらしいこと!博嗣君?」 礼子は平静を装って話しながら、相手を誘う。 「・・・」 博嗣は詰まった。 「泰隆に用事?」 余計なことを一切言わない。 「・・・」 頭の中がパニック寸前だ。 「それとも主人の比呂志に用事?」 敢えて「比呂志」の名前を出す。 「泰隆君が怪我をして病院に一緒にいるんです」 腹を据えると馴れない言葉遣いまで自然に出てくるのは、修羅の世界を経験したものにしかできない芸当だ。 ここまで来ると、年齢や経験の差は雲散霧消して、女が男の世界に入り込む限界が襲いかかる。 「え!何ですって!」 今度は礼子がパニック状態に陥った。 堅気相手に極道の本領がここから発揮され、あとは独壇場と化する。 「大阪の難波駅近くで喧嘩騒ぎに巻き込まれたんです」 博嗣が冷静に一言ずつ話す。 礼子は冷静さを完全に喪失していた。 「怪我だなんて、命は大丈夫なんでしょうね?」 声が恐怖で震える。 「未だに意識が戻りません」 泰隆は一旦気を取り戻したが、再び気を失ったことは確かだ。 「何ですって!」 礼子の悲鳴にも似た叫び声に、博嗣も一瞬躊躇ったが、すぐに我に返った。 「泰隆君のお父さんは確か心斎橋のデパートにおられると聞いたんですが、電話番号を教えて頂けませんか?」 礼子は想った。 『若しものことがあったら・・・』 礼子の脳裏に泰隆の顔が急に浮かんでくると、自然に涙がぽろぽろと零れ落ちる。 「ちょっと待ってください・・・ゴトッ!」 礼子の狼狽える様が受話器を落とす音で判かる。 「もしもし!6684の7111です!」 「ハア!ハア!ハア!」 息を切らす音が聞こえる。 「わかりました、すぐにお父さんに連絡を取って病院に来てもらいます」 電話を切ったあと、礼子から教えられた電話番号を押した瞬間(とき)、博嗣は複雑な気持ちだった。 |