悲劇の綱渡り

「お客さまにお電話が入っております」
ホテルの交換嬢が事務的に言った。
「はい」
敦子は落ち着いて返事した。
「もしもし」
受話器の向こう側から聞こえてくる声は確かに比呂志のものであり、いつもと同じ物哀しい口調に変わりはなかったが、どこか違っていた。
「何かあったんですか?」
口を開くのは必ず敦子からであり、比呂志は沈黙を守るだけの、10年間同じパターンを繰り返して来たふたりだった。
「博嗣がどうかしたんですか?」
自分の分身のことが最初に浮かんでくるのは動物の本能なのか、それとも愛情の深さゆえなのだろうか。
男にはわからない永遠の謎だ。
心の中に新しい波が騒いだのが切掛で、比呂志がやっと口を開いた。
「泰隆が殺されたんだ!」
比呂志は軽い冗談を言う人間ではないことは、敦子は百も承知だが、それでも信じられなかった。
今度は敦子の口が重くなった。
「病院なんだが、博嗣君も一緒だ」
「何ですって!」
鳴咽していた敦子が叫咽した。
「まさか、博嗣が泰隆ちゃんを・・・」
極道の息子を持つ親は加害者恐怖症に必ず陥る。
「そうじゃないよ・・・彼が泰隆を助けてくれたんだが・・・」
明るい声と哀しい声が交錯して聞こえてくる。
「泰隆の大学の友達が暴力団の親分の息子らしく、その息子を狙って襲ってきた暴漢に、泰隆が巻き込まれたんだ」
「暴力団」という言葉を聞いただけで、敦子は博嗣の顔が浮かんでくる。
「博嗣と関係がある暴力団ですか?」
「・・・」
比呂志が黙ると余計に加害者恐怖症が頭を擡げてくる。
「どこの病院ですか?」
「芝田町の済生会病院だ」
敦子にはわからない。
その時、受話器の向こう側から博嗣の声が聞こえてきた。
「博嗣!」
敦子の声が震えているのを察した博嗣が言った。
「お母さん、泰隆が死んだよ。僕が守ってやれなかったんだ!」
博嗣の言っている意味がわからない。
「泰隆の大学の友達が狙われたんだけど、僕は友達の方のボディーガードをしていたため、泰隆まで守ってやることが出来なかったんだ・・・・」
博嗣も鳴咽している。
一瞬のうちに走馬灯が猛烈に回転しつつ、ひとつ一つの光景がはっきりと見え隠れする。
意志の力だけで生きてきた10年だったが、頑丈に織ったつもりの麻の糸がぷっつりと切れた。
「・・・」
「お母さん!お母さん!」
「・・・」
比呂志も叫んだ。
「敦子!敦子!」