川のながれ

「ピーポー、ピーポー、ピーポー」
救急車のサイレンの音で敦子は目が醒めた。
「ここは?」
白いマスクをした男が、敦子の顔を覗き込んでいる。
「気がつかれましたか?」
「心筋梗塞の軽い発作が起きていますから、目を瞑ってじっとしていてください!」
ホテルの部屋で比呂志からの電話を受けたことまでは思い出した。
その後急に胸が苦しくなり、気を失ってしまったことも思い出した。
『泰隆ちゃんが死んだんだ!』
泰隆が死んだ事実を思い出した途端に、再び胸に激痛が走った。
「ウッ!ウッ!ウッ!」
敦子の呻き声で三人の救急士たちの動きが急に慌ただしくなる。
「ドン!ドン!ドン!」
鈍器が胸に打ち下ろされているような鈍い衝撃が続く。
太鼓が強打されるような音で敦子は再び気を取り戻したが、今度は口を開く力が湧いてこない、だから目をただ大きく開いているだけだ。
人間は視覚動物だけに、他の五感機能が極端に低下すると、視覚機能が反動で極端に抗進し目の瞳孔が大きく開く。
「もう大丈夫ですよ!」
救急士が敦子に囁きかけてくる。
そのまま気が遠くなっていくままに任せた。
芝田町の済生会病院に担ぎ込まれた敦子を、比呂志と博嗣が救急エントランスで迎えた。
「大丈夫なんでしょうか?」
比呂志が救急士に叫ぶように訊いたが、救急士はただ肯くだけだった。
救急治療室のドアーの上の赤い「手術中」のランプが点灯した。
待合室の長椅子に座った比呂志は憔悴しきっていた。
「泰隆の所へ行ってやってください!」
「ここは僕独りで大丈夫ですから!」
博嗣が気丈に言う。
『泰隆はもうこの世にいないが、敦子はまだ・・・・』
一日のうちに掛け替えのない人間がふたりも不慮の災難に遭遇する不運が襲ってくることは滅多にない。
「不運」という言葉だけが独りで暴走しはじめる。
『ここで我慢しなきゃ、何のための10年だったのか・・・』
比呂志は敦子との合い言葉を思い出した。
「じゃ、ここは君に任せるよ」
比呂志の言葉を充分に咀嚼した博嗣は頷いた。
「手術中」の赤いランプが消えたのは、比呂志が立ち去って間もなかった。
大きなドアーが開くと、医師に抱えられるようにして敦子が歩いて出てきた。
「お母さん!大丈夫?」
医師の方に視線をやりながら敦子を抱きかかえた。
「心筋梗塞なんかじゃなくて、急性の不整脈だっただけですから、もう帰られてもいいですよ」
不愛相な医師の言葉も、今の博嗣には救世主の福音の言葉のように思えた。
「余程、強烈なショックだったんでしょうな!」
「何があったのか知りませんがね・・・」
博嗣はどんな憎まれ口を叩かれても我慢ができた。
「ホテルに帰ろう!」
「・・・・・・・・・・・・・・」
博嗣の言葉に敦子は相槌を打った。
敦子と博嗣は病院に残された者のことも忘れて、肩を合わせて病院の門を出ていった。
そのふたりのうしろ姿が消えるまで、病院の窓から比呂志は見つめていた。