夢か現実か

比呂志は母の末子と徹夜で話をしてしまった。
二日続けて職場放棄するわけにもいかないと思い、自分の部屋に戻って背広を着替えたが、気持ちが一向に落ち着かない。
敦子のことで頭がいっぱいになっていることは自分でもわかっているのだが、胸の辺りに何か痞えている感触が強くあって気持ちが落ち着かないのである。
四年ぶりの再会と言っても、恋人同士の再会ではない。
たった1日剣山の頂上まで敦子に案内してもらっただけの間柄であったから、恋人同士どころか初対面のふたりに近い。
敦子をホテルまで送り届けて、別れる際にも淡々としていた筈なのだが、母の末子と徹夜で話をしたのがきっかけなのかはっきりわからないが、胸に痞えるものがある。
比呂志は、朝の5時半過ぎだということも忘れて、思い切って携帯電話のダイヤルを押してみた。
「1215号の平敦子さんの部屋にお願いします」
自分の名前を告げずに言った。
「お客さまの部屋にお繋ぎ致します」
ホテルの電話交換嬢が言った。
最近のホテルは、プライバシーの問題からか、宿泊客の部屋の番号と名前さえ言えば、それ以上のことを訊かないのが普通だ。
電話の呼び出し音が一回鳴っただけで、受話器を取り上げる音がして、敦子の声が聞こえた。
「もしもし」
じっと電話の相手の声を待っているのが息を切らす音でわかる。
比呂志にプレッシャーが余計掛かる。
「もしもし。朝早くから申し訳ありません」
受話器に口をつけて小さく言った。
「いえとんでもない。ずっとお電話を待っていたんです」
敦子の言葉で気持ちが楽になり、冷静になれた比呂志は、『ハッ!』と気がついた。
「ずっと?一晩中眠っておられなかったんですか?」
「ええ」
敦子の短い言葉から紅潮した色の熱い息が比呂志に伝わってくる。
「今日もう一日お会いできませんか?」
比呂志も深紅の色の熱い息を言葉にして敦子に送った。
「はい、よろこんで」
敦子の言葉には、シンプルだが、溢れるような想いが篭められていて、それが比呂志には心地よい微風(そよかぜ)のように感じられ、ふたりで何処かに飛び発って行きたい衝動に駆られるのだった。
『今日もう一日、無断欠勤だ!』
比呂志は再び肚を括った。
「早くしないと遅れますよ!」
母の末子が台所から二階の比呂志に優しい声を投げかけた。
比呂志は頬をつねってみた。
『夢だったのか?現実だったのか?』
頬は確かに痛かった。