時空と空間の記憶

黒い薔薇一色のモノクロの夢を観た敦子の脳裏に、時空を超えた記憶が甦ってくるのを、ホテルの部屋の薔薇の絵が教えてくれた。
所謂現実の世界に居続ける、もう一人の敦子が、無理やり現在という“時”に引き寄せた。
ホテルをチェックアウトせずに、敦子は舞浦に向かった。
舞浦駅に着いてから、電話をしようと思ったが、時空を超えた記憶が何故か妨げるのだ。
『あの時もそうだった!』
二十数年前に、比呂志に会いにやってきた時のことである。
『このバスの停留所で、わたしはずっとあの人のやって来るのを待っていた・・・』
両親から見合いの話を進められて、比呂志のことを恋人だと嘘をついて、見合いの話から逃れようとした。
『それは事実だった・・・』
そうすると時空を超えた記憶が言葉のない悶着をつける。
『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』
そうすると空間だけの記憶が、もう一人の自分に連れられてやって来る。
『あの時と同じことをしてはいけない・・・』
『黒い薔薇の夢を忘れたの?・・・・・・』
敦子は咄嗟に待っていたバスに乗り込んだ。
「前原町一丁目に行きたいんですが、どこで降りればいいんでしょうか?」
バスの運転手に訊くと、愛想のない返事が返って来る。
「前原一丁目という停留所があるよ!」
辺りの景色を独り楽しむつもりで、敦子は最後部の座席に就いた。
車窓から見える鬱蒼とした景色は、昔と変わってはいなかった筈だが、静止した景色と、動いている景色とではまるで違う場所のように見える。
映写機が猛烈なスピードで回転すると、静止画一枚一枚がまるで生き物のように動きはじめる。
生きるということは、死という静止画面の積み重ねたものが動き出すことであり、一瞬一瞬の死の連続が生きるということなのだ。
敦子は、車窓というスクリーンの中で動く景色を観ながら、時空を超えた記憶に自己の精神を独占されていた。
『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』
沈黙のメッセージだ。
「次は前原町一丁目です。お降りの方は停車ボタンを押してください」
女性の声で空間の記憶が醒めた。
「お客さん!次が前原町一丁目だよ!」
運転手が大きな声で敦子に向って言った。
「すみません、降ります!」
座席を離れながら、運転手に言うと、意地悪な運転手は急ブレーキを掛けた。
敦子は、地震が襲って来たような錯覚に陥り、そのまま気を失ってしまった。
ホテルで失神した同じ症状が起きたらしい。
「敦子!敦子!」
比呂志が呼んでいるが、体が動かない。
「敦子!敦子!」
比呂志が手招きしているが、体が動かない。
「敦子!敦子!」
懐かしい比呂志の手触りが感じられるが、体が動かない。
「敦子!敦子!」
イタリアレストランで比呂志と食べたパスタの味がするが、体が動かない。
「敦子!敦子!」
線香の匂いがすると、体を動かすことができ、夢から醒めた。
茶色の木目の板が目の前に拡がり、その真中に比呂志の顔があった。
「気がついたようだね!」
優しい声がやっと実感できた。
「ここは?」
交錯する記憶の中にいたために、実空間を実感することができないでいるのだ。
「バスの運転手が君を連れて来てくれたんだ」
バスの急ブレーキで転倒した時に、気を失ったことをやっと思い出したが、バスの中での白昼夢の状態は依然続いたままであった。
「お葬式に参ったつもりが、却ってご迷惑を掛けてしまったようで、すみません」
比呂志の顔を見た途端、時空を超えた記憶が何処かに消えてしまい、空間の記憶だけが甦った。