現実か悪夢か

母の末子に夢心地を破られた比呂志は、憮然とした表情で階段を降りてきた。
「先程、橋本課長さんから電話があって、『今日は大丈夫ですか?』って訊かれたので、『はい、大丈夫です』と返事しておいたわよ」
「何だって!?」
夢心地を破られた挙げ句に、現実の夢も駆逐され、追剥に遭ったような気分になった比呂志は、無性に腹が立ったが怒りをぶつける相手がいなくて、テーブルに出された朝食と睨めっこするしかない。
焦げたトーストが恨めしく見えると、トーストも想いがあるらしく、彼を睨みつけているように見える。
こんな精神状態の時は、見ざる、言わざる、聞かざるだけでは到底追いつかない、その上に思わざるが要る。
思わずトーストに喰(ぱ)くついた途端、「ぎゃあ!」という悲鳴が家の中に轟き亘った。
真黒に焦げたトーストの辺(へた)が口角に突き刺さったのである。
泡を食った末子が呆然としていると、憮然とした表情で比呂志が言った。
「ひょうもおほくなふよ」
今度は豆鉄砲を食った鳩のようになった末子の前を通り過ぎ、比呂志は風を切るように家を飛び出して行った。
「ひょうもおほくなふよ!」
意味不明の言葉を繰り返すうちに、意味がわかってきた末子は、思わず吹き出してしまった。
「『今日も遅くなるよ!』と言ったんだわ、あの子!」
人間というものは、感情が振れると、言葉まで震れるらしい。
朝食も採らずに家を出ていった比呂志は、バスにも乗らずに舞浦駅まで歩いて行った。
歩くと思考回路に変化を来す。
そんなことも露知らず森の中を歩いていると、森林浴の効果も相俟って、想いが連なってどんどんスピードアップしていく。
連なった想いというものは外観と共鳴するらしく、人込みの多い都会では想いの輪が膨張して限りない渦となって拡がっていく。
人の想念が遠心力となって渦を拡げていくからだ。
緑で覆われた森では、草木の葉から発散する酸素と想いが相俟って、強い求心力となり、渦となった想いの輪が収縮していく。
渦が収縮すると中心付近に近づき、渦巻く速度がアップして、やがて動きが水平線から垂直線に変わっていき、喧騒の世界から静寂の世界に誘われていく。
比呂志の想いも喧騒の世界から静寂の世界に誘われたらしく、静かな想いに変化していった。
『彼女との約束は午前11時だから、それまで職場にいて、それから何か理由をつけて出かければいい・・・』
次から次と好いアイデアが浮かんでくると、鬼に見えた母の顔が嘘のように思えた。
気を取り直した比呂志は舞浦駅に着くのを待ち切れずに、携帯電話で家に電話をした。
「比呂志ちゃん、電話をくれてよかった・・・」
電話に出るなり、母の末子が言った。
比呂志は嫌な予感がした。
「橋本課長さんからまた電話があって、今日はデーバン社に直行して、そこで落ち合いたいので、あなたに連絡して欲しいと言ってたわ」
「それで・・・」
比呂志は再び末子に憮然とした口調で応えた。
「あなたはもう家を出てしまって、連絡は取れないと申し上げたのよ・・・」
一気に明るくなった。
「あとでもう一度電話を下さるようなので、あなたに連絡が取れたと言っておくわ・・」
暗雲が立ちこめた。
「ちょっと・・・」
言い掛けたあと残った音の余韻は、無残にも「プーッ、プーッ、プーッ・・・」だけだった。
携帯電話の小さなモニター画面を覗き込むと、「圏外」という冷酷な文字が映し出されている。
一気に暗くなった。
冷汗だくになった比呂志は、舞浦駅に着くや否や、公衆電話の受話器を取り上げ、家に電話をした。
「比呂志ちゃん、電話をくれてよかった。あの後すぐに橋本課長さんから電話があったので、あなたに伝えておいたこと報告しておいたわよ・・・」
「ガチャ!」
末子の掴んでいた受話器から発する無残な音だった。
暫く、身体が硬直して身動きできなくなってしまったらしく、舞浦駅の看板を見つめながら、比呂志は呆然自失の状態だった。
比呂志は頬をつねってみた。
『現実だったのか?悪夢だったのか?』
頬はまったく痛くなかった。
『やはり悪夢だったんだ!』