仇敵

上野山の福祥寺、通称須磨寺は平家一族が源氏との戦の陣地とした所であり、背後に一の谷がある。
須磨寺の門を潜った敦子は、左手に広がる有名な源平の庭の茶席に座っていた老婆に訊ねた。
「東祖谷村から来た平敦子と申しますが・・・」
敦子の名前を聞いた途端、老婆の表情が変わった。
「あなたが敦子さんですか・・・」
老婆は嬉しそうに敦子の顔を見上げて言った。
「ここには、はじめてですか?」
老婆の問いかけに敦子は素直に答えた。
「はい、はじめてです」
昨日、比呂志と近くまでやって来たことが脳裏を去来したが、敢えて言う必要もなかった。
「ここが有名な源平の庭ですよ。ほら、左のお方が、あなたのご先祖の平敦盛さまで、右の武将が敦盛さまを討ち果たした熊谷直実です」
老婆が言った、「熊谷」という名前を聞いた敦子の表情が青くなった。
自分が平敦盛の末裔であることは父親から聞かされていたが、敦盛を討ち果たした武将が熊谷直実という名前であることは知らなかった。
『源義経だとばかり思っていた・・・』
しばし呆然としていた敦子に遠慮をしていた老婆は、その合間に本堂の修行僧を呼び、指示をした。
深々と老婆に頭を下げた修行僧は石段を掛け上がって行った。
「熊谷直実が、あなたのご先祖さまの仇ですから、よく見ておかれますように・・・」
意地悪そうな表情に変わった老婆が、敦子に囁くように言った。
敦子は黙っていた。
「やあ!あなたが敦子さんですか!」
背後から声がした。
「平清重です」
敦子の両親が婿として迎えようとしている宮崎県椎葉村の平清重である。
「はじめまして、平敦子です」
東祖谷村を発つ時、敦子の両親から神戸に行ったら是非とも立ち寄るようにと言われていたのである。
「ご両親から、あなたのことは伺っています・・・」
敦子は思った。
『実に誠実そうな方だわ・・・。だけど両親は何を言ったんだろう?』
平清重は7年前に椎葉村から神戸にやって来て、須磨寺の修行僧として出家したのであるが、飽くまで修行のためであって、僧として一生を過ごすつもりはなかった。
7年の修行を終えて、いよいよ椎葉村に帰ることになった時、敦子との縁談が持ち上がったのである。
「いつ椎葉村にお帰りになるんですか?」
敦子が訊ねた。
「今年の大晦日の除夜の鐘をついてから帰るつもりです」
敦子の質問にも、屈託なく清重は答えた。
『もうあと2ヶ月ちょっとだ・・・』
自分の胸の中と頭の中にふたりの自分がいることに気づかない。
その瞬間(とき)、老婆の敦子を呼ぶ声がした。
「お父上から、お電話ですよ」
不思議な微笑を浮かべている老婆の顔をまじまじと見つめていると、「電話は本堂にあります、案内しましょう!」と横から清重が敦子に優しく声を掛けた。「もしもし」
受話器を取り上げた敦子が言った。
「敦子か?さきほど熊谷さんから電話があったよ・・・。彼のことだろう?何か急な用事だったようだけど・・・。そっちで会ったのではないのかい?」
受話器を震わせながら、敦子は黙っていた。