皮肉な運命

「熊谷君、ちょっと話があるんだが・・・」
橋本課長が比呂志を売り場の奥にある事務所に呼び出した。
「実は昨日の人事移動で、君に徳島支店への転勤命令が出た」
全国に50以上の店舗を誇る老舗のデパートだけに、転勤は日常茶飯事なのだが、選りにも選って徳島支店とは皮肉なものである。
比呂志は黙って橋本課長の御託を聞いていた。
「百貨店というところはね、納入業者と癒着関係が起こる危険性が高い職場だから、3年以上同じ職場に勤務することが不可能なことは、君も承知してるね?」
比呂志は神戸支店の紳士服売り場に勤務して既に4年が過ぎていたが、新入社員の研修生としての初めての職場であり、まだ一人前の扱いを受けていなかったから、4年も居ることができたとも言える。
「君もやっと一人前に成長したことを認められた証拠だよ。今度の人事移動は喜ばなきゃあね・・・」
部下に転勤命令を出す上司が必ず吐く言葉だ。
己のことしか考えていない大企業の中間管理職の連中は、保身のためなら部下に平気で転勤命令を出す。
粘っこい口調で喋る橋本の社内での評価は最悪だ。
上司の言うことなら何でも聞くが、部下には絶対服従を要求する。
比呂志が1年前に無断欠勤したことを根に持っていたのだ。
あとで同僚の女性から聞いた話だが、もう一日無断欠勤していたら比呂志はデパートに勤務する人間にとって最も忌み嫌う職場に配置替えされていたらしい。
「熊谷さん、今日若い女性があなたを訪ねて来たわよ」
敦子との約束を破って、橋本課長と一緒にデーバン社に行った時のことである。
夕方、店に戻った比呂志に、同じ売り場の広沢妙子が言った。
『彼女がここまでやって来たんだ!』
胸が切り裂かれる想いだった。
『あそこで我慢していてよかった!』
喉元過ぎれば熱さ忘れるとは、こういうことなのか。
あれから一年経ってみれば、結果よしということになる。
しかし、人生は山あり谷ありだ。
『選りにも選って徳島支店へ転勤とは、人生は皮肉なものだ!』
平敦子は結局、両親が進めた縁談を受け入れて結婚した。
宮崎県椎葉村に一旦帰った平清重は、東祖谷村の平家を訪れ、婿入りするのではなく、敦子を嫁として貰い受けたいと正式に申し入れしたのだ。
清重の率直な態度に心を動かされた敦子の父は、彼のことをますます気に入り、とんとん拍子で結婚式の日取りが決められていった。
敦子も、比呂志のことをきっぱり諦めることができていた。
『自分なりに最善を尽くした者だけが、運命を受け入れることができる』
敦子は最善を尽くしたが、比呂志は最善を尽くさなかった。
比呂志の冒した誤謬が、ふたりの運命という人生の幹に余計な枝葉をつくることになるのだ。
1年後の秋も深まった頃に、最初の枝葉のポキンと折れる音がした。
「いらっしゃいませ」
徳島支店に転勤した比呂志の職場は特選催し会場である。
その日は、徳島在住の3人の画家の展覧会だった。
会場に訪れる客ひとり一人に、比呂志が挨拶をする。
「ご無沙汰しています」
聞き覚えのある声だった。
「敦子さん!」
比呂志は唖然とした表情でふたりの男女を見た。