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Chapter 135 宗教の限界 仏教では悟りを開くことを解脱と言います。 何を解脱するかというと、自己からの解脱であるのです。 そして自己からの解脱をする為に、世を捨て出家するわけです。 考えてみれば矛盾したことを言っておると思いませんでしょうか。 他人からの解脱であれば、出家するのも一つの方法でしょうが、自己からの解脱であれば、いくら山深く隠棲しても自分は常にいるのですから意味が無い筈です。 結局は、市井に居ながらにして自己を客観視することが解脱であって、山深く居て他人と隔絶するのは、他人が地獄の源泉である故のことです。 つまり、出家するのは他人が地獄即ち、「私」を解脱することがその本旨であり、在家しながら自己を磨くことは、鑑賞者である、「わたし」の発見がその本旨であるといえるのではないでしょうか。 仏教の根本教義において自力と他力の二つがあるのですが、両方とも悟りを開く過程の一つであるのです。 対峙する関係ではなく、補完する関係でなければならない筈であります。 そこに仏教の一番の問題点が潜んでいると思います。 念仏を唱えておればいいわけではない。 ひたすら座禅を組んでおればいいわけでもない。 これらは、「私」を解脱させ、「わたし」を再発見する方便の一つであるわけで、悟りを開く過程の共に欠かせないものであるのです。 仏教も、他の宗教と同じように形骸化しているのは、この点に原因があると思うのです。 「私」と「わたし」の認識を深め、「私」を滅し、自灯明することで、「わたし」を再発見するのが、仏教の大切な教えであるのではないでしょうか。 今まで「夢の中の眠り」でお話してきました中に、いろいろなキーワードがあります。 「私」と「わたし」 「背景画面」と「実舞台」 3階、4階、5階の座席。 正夢と負夢と白昼夢。 所謂現実の世界と実在する現実世界。 無制限連続バラバラ1本立て映画。 そして『今、ここ』と『自分独りだけの世界』 それらのキーワードの中で、自分に適したものを選ぶ自由がなくては、普遍性と多様性を両立することはできないのです。 宗派が派生する宗教の限界がそこにあるのです。 |