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Chapter 136 「私」は僕(しもべ) 自分独りだけの宗教を持つということは、自分の哲学を持つことに外なりません。 宗教という言葉の響きから、わたしたちはどうしても神の存在に論及してしまいますが、哲学とは自己の考え方(Philosophy)です。 それでは、普段のわたしたちは自分の考え方(Philosophy)を持っていないのでしょうか。 普段のわたしたちは考える能力を持っていますが、滅多に考えたことは無いのが実態であります。 よほど困難な事態に陥らない限り、わたしたちは考えることをしないのです。 考えるということは相当エネルギーのいることで、脳の運動としては結構ハードなものですから、ややもすれば怠惰になり勝ちなわたしたちは脳に汗を掻くことを極力避けようとするのです。 しかし人生の大問題ともなると、悠長なことを言っておられなくなり否応なしに脳に汗を掻かざるを得なくなります。 苦労したことが人生の中で肥やしとなるのは、脳に汗を掻いた結果であるからです。 人間は自己の潜在能力の10%程度しか発揮できていないのは、まさに考えることを殆どしていないからなのです。 それでは、普段のわたしたちが考えていると思っているのは一体何でしょうか。 それこそが、「私」の実体であるのです。 「私」とは、所謂現実の世界と思っている映像の中で出演もしていない自分を、恰かも出演しているかの如く思う、「わたし」の想いであるのです。 「わたし」は観客席に座っている実在する自分です。 「私」は恰かも実在していると勘違いしている想いであって、それを自我意識(エゴ)と言うのです。 自分を我と思う意識であるのです。 従って、「私」は「わたし」の影だと言えます。 普段のわたしたちが自分だと思っているのは、実は影であるのです。 影は実在するものではありません。 影の正体は映像であります。 影が映るのは、実体−実の体−があるからで、実体つまり、「わたし」が無ければ影は映りようがないのです。 死後の世界など無いと、Chapter122で申しました理由であります。 また実体があっても、灯りがなければ影は映りません。 では灯りとは何でしょうか。 冒頭で申しました、考える行為そのものが灯りであるのです。 つまり影の正体とは、考える行為そのものであると言っていいでしょう。 実体あるものの考える行為の結果が実体あるものの影となるのです。 つまり実体あるものは在るものであって、行為ではありません。 「在る(Being)」と「する(Doing)」の違いであります。 「わたし」は在る(Being)のであって、「私」はする(Doing)のです。 「わたし」は存在であって、「私」は行為であるのです。 しかし、「わたし」と「私」は切っても切り離せない関係であるのです。 「わたし」が主人で、「私」が僕(しもべ)であるのです。 僕(しもべ)である「私」を自分だと思っている普段のわたしたちは、当然自由の無い僕(しもべ)であるのです。 わたしたちが唯一自由であれるのは、心の自由だけです。 その心の自由までも奪っているのが、外ならぬ、「私」であるのです。 主人である、「わたし」がいいのか、僕(しもべ)である、「私」がいいのか、それを決めるのはあなた自身であるのです。 |