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Chapter 144 死は最後の審判 夢と現実が反転したら、わたしたちはどうなるでしょうか。 現実と申しましても、所謂現実であって、リアルな実在する世界ではありません。 所謂現実というのは、自分だけの座席がある劇場の3階の座席から、恰かも出演しているかの如く思い込んでいる自分を含めての背景画面のことであります。 また夢というのは、5階の座席から観ている背景画面であります。 従って、3階と5階がひっくり返ったことを言うわけですが、下から3階、4階、5階となるか、上から3階、4階、5階となる違いだけで、肝心の4階は何も変わらない。 わたしたちは、今まで、夜眠っている時に自分がいる世界を夢の世界と思い、昼間目が醒めた時に自分がいる世界を所謂現実の世界だと思ってきました。 しかし、よく考えてみると、わたしたちは夢を観ている真最中は、夢を現実だと思い込んでいる節があることを自覚しているでしょうか。 昼間目が醒めている時は、所謂現実の世界を現実だと思っています。 つまり、自分のいる世界は、常に現実の世界と思っているだけなのです。 夢を観ている時は現実であっても、眠りから醒めて夢が消えると−実際には薄らいでいるだけで消えてはいない−夢だと思うのです。 見えるものはすべて現実。 消えたものがすべて夢。 しかも実際には消えるのではなく薄らいでいるだけですから、夢と思っている世界もリアルであるわけです。 リアル(Real)とはずっと存在するものを言います。 イマジナリー(Imaginary)とは断続的にしか存在しないものを言います。 夢も現実も実は境が無い。 背景画面と実舞台は、共に舞台上に連なって存在しているのですから、両方共リアルであります。 ただ露出方法が違うだけで、共にリアルです。 問題は、客観的立場にいる自分自身を背景画面に同化したり、実舞台に同化していることであるのです。 背景画面に同化しているのが、普段のわたしたちであり、実舞台に同化しているのが、所謂悟りを開いたわたしたちであります。 わたしたちが肉体を纏っている限り、所詮真の悟りなどあり得ないのです。 それでは、真の悟りとは何でしょうか。 座席に座って背景画面や実舞台を鑑賞している客観的立場にいる自分、つまり、「わたし」を自覚することを悟りと言うのです。 しかし、見える世界を生きているわたしたちには、観ている自分を自覚することはできません。 生きている限りは悟りを開くことなど所詮できないのであります。 では死ぬとどうなるのかと申しますと−実際に死んだことはありませんが−死んだら何もかも消えてしまうことによって、見えていた世界がすべて夢であったことを知るに至る。 夢と思っていたことも、所謂現実だと思っていたことも、すべて夢だったことを知るに至る。 しかし、残念ながら知るに至ったら最後、すべて消えてしまうのが死であるのです。 普段夢を観た後、覚えている夢とまったく覚えていない夢とがあり、それを正夢と負夢と申しました。 覚えている正夢と言っても、徐々に忘れていきます。 昔の初期の頃のテレビは、電源をON、OFFすると画面が徐々に現れたり、徐々に消えたりするものでした。 今のテレビは、電源をON、OFFするとプチンという音がして画面が一気に現れ、また消えてしまいます。 正夢とは、初期の頃の真空管テレビを観ていることであります。 負夢とは、最新の超LSIテレビを観ていることであります。 死んだら、ただ消えていくだけのわたしたちでありますが、消え方に違いがある。 徐々に薄らいで消えていくのと、一気に消えていくのと。 正夢を観た後は、余韻を引き摺ってしまい嫌な想いが残ります。 負夢を観た後は、夢を観た記憶はなくすっきりとします。 死んだら地獄に行くか、天国に行くかの違いは、正夢か負夢かの違いであるとも言えるでしょう。 所詮、消えていく運命であることを、わたしたちは自覚するべきです。 正夢を観た後のわたしたちは苦痛の表情をしています。 負夢を観た後のわたしたちは爽快な表情をしています。 それが死者の臨終の表情として表れるのです。 その後は灰になって、お終いです。 あなたが観ているテレビは真空管テレビですか、それとも超LSIテレビですか。 その違いは、今生きているあなたの覚醒状態によって決まるのです。 覚醒状態とは、『今、ここ』にいることに外なりません。 それを最後に審判してくれるのが死であるのです。 |