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Chapter 41 思いのままの人生 わたしたちは、自分の人生を思いのままに生きることができません。 それでは、自分の人生を思いのままに生きるとは、どういう生き方を言うのでしょうか。 結局の処、自分の在り方に関わって来るのです。 『今、ここ』の自分の在り方が、自分の願望に合致していれば、思いのままに生きていると感じれるわけです。 昨日の自分の在り方が、自分の願望に合致していたとしても、『今、ここ』の自分の在り方がそうでなければ、思いのままに生きてはいないのです。 明日の自分の在り方が、自分の願望に合致するだろうと保証されても、『今、ここ』の自分の在り方がそうでなければ、思いのままに生きてはいないのです。 思いのままに生きていると感じられる前提条件は、『今、ここ』に居ることなのです。 ところが、わたしたちは、昨日や明日に自分を置いて生きている。 そうすると、自分の人生を思いのままに生きることができない原因は、外部要因にあるのではなく、『今、ここ』に居ることができないでいる自分にあることがわかってきます。 一体、自分って何なのでしょうか。 求めることを否定して求める自分。 求めていないことを否定して求めない自分。 まさに、わたしたちは精神異常者そのものであります。 常に、自己を否定して生きているのです。 自己を否定するということは、生きることを放棄するということなのに、生きているのです。 何故そこまで自己を否定するのでしょうか。 「いや、わたしは自分を否定したことなど一度もない。いつも自分の為に一所懸命生きている」 あなたは、そう主張されるでしょう。 若し自分を肯定しているなら、あなたは人生を思いのままに生きている筈です。 人生を思いのままに生きることができないのは、自己を否定しているからに外ならないのです。 しかし、わたしたちは人生を思いのままに生きてはいません。 即ち、自己を否定した生き方を気がつかない内にしているのです。 このことを、よく認識しなければなりません。 そこで、思い出して頂きたいのですが、わたしたちが現実と思って生きている世界は、映像の世界であり、まさに夢の世界であること。 映像は静止画の現像フィルムを動かし続けていること。 つまり、静止画を次から次へと変化させることによって、動いているように見せかけているのが映像であり、その映像の世界に没入しているのが、わたしたちなのです。 求めることを否定して求める自分。 求めていないことを否定して求めない自分。 映像の世界を我が世界と錯覚している自分であります。 静止画を否定し続けることでしか生きることができない自分であります。 そうしますと、本当の自分は、四階という四次元世界にいつも座って舞台を観ている人物に外ならないことがわかって来るのです。 人間の体は小宇宙だとよく言われます。 無数の要素が入り組んだ複雑なメカニズムであります。 その中の一部である、想いの部分も複雑なメカニズムになっているようにも思えます。 しかし、その複雑なメカニズムを忍耐強く整理してやれば、実にシンプルであることがわかります。 お釈迦さんが言っておられるのは、まさにこのことであります。 「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空度一切苦厄」 森羅万象すべてのものを支配している世界を知る為に深く禅定していたら、何のことはない、実に簡単な法則であることがわかった。 「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」 わたしたちが居るところが、そのまま地獄でもなければ天国でもない。また天国でも地獄でもある。それは己の心の持ち方次第である。 忍耐強く整理してやること。 それが「行深」という意味であります。 やはり深い洞察が要るのです。 その為には、どうしても教養が不可欠であることを再認識することです。 |