Chapter 206 行雲流水

悲喜こもごもの人生を送る中で、いろいろな想いが去来するわたしたち。
病気をして肉体の苦痛を味わうこともある。
人に裏切られて、血がしたたり落ちるほど心に傷を受けることもある。
こういった経験をすることも、『今、ここ』で起こるわけですが、ここで注意深く観察してみると、苦痛そのものと、苦痛をどう想うかの間には微妙な時間のずれがあることがわかります。
つまり経験することは、『今、ここ』しか絶対にないわけですが、それをどう想うかは、『今、ここ』ではなくて、未来であり、過去であるのです。
映画を観たり、本を読んだりする。
わたしたちは、『よかった!』とか『よくなかった!』とか、あとで想います。
観ている最中、読んでいる最中には、ただ観る、ただ読むという行為があるだけです。
「いや、自分は映画を観ている最中に『よかった!』とか『よくなかった!』と想う」と言われる方は、「夢を観ている最中に、夢を夢だと想った経験がある。夢の中で自分の姿を見たことがある」と主張される人です。
夢を観ている最中、つまり、『今、ここ』において、『これは夢なんだ!』と想うことは不可能なことなのです。
『今、ここ』は常に現実であるのに対して、想うことは常に未来か過去のことであり、『今、ここ』との間には必ず時間が割り込んでいるのです。
ただこの割り込む時間が、微妙なほど短いものだから、『今、ここ』と錯覚するわけです。
この微妙な時間のずれを感じ取ることができない方は、夢を観ている最中と、夢から醒めた直後に想う時が同時期だと錯覚するのです。
『味噌も糞も一緒』にする人とは、こういう方のことを言うのです。
夢の中の場面に自分が登場していると勘違いするのも、『味噌も糞も一緒』にするからです。
糞が味噌の中に登場することなど有り得ないのです。
テレビを観たり、映画を観て、その場面に自己を同化させているから、一喜一憂しているわけで、実際に出演している人は自分が出演している映画を観て一喜一憂はしません。
映画を映画だと知っている、つまり、夢を夢だと知っているからです。
映画に出演していない観衆だけが、映画を現実だと錯覚して、つまり夢を現実だと錯覚して一喜一憂するのです。
そうしますと、わたしたちが人生の中で経験する悲喜こもごものことに対して、いろいろな想いが去来するのも、微妙な時間のずれがあることがわかってくる筈です。
わたしたちが生きているということは、『今、ここ』を体験していることであって、体験の感想は『そのあと』でするのです。
楽しみは未来にあるから楽しみなのです。
楽しかったと想うのは過ぎ去った過去のことです。
その間にある、『今、ここ』にはただ経験があるだけです。
楽しみにしていたことが、『今、ここ』を通り過ぎ去って、楽しかったと想い出す時、わたしたちは空しさを感じる。
悲喜こもごもの四苦八苦の人生の正体は、この空しさであるのです。
「行雲流水」とは、一点の執着なく、物に応じ事に従って行動すること。
執着とは、この空しい想いであるのです。
わたしたちは、雲にも水にも劣るのでしょうか。