Chapter 207 鼬ゴッコが得意な人間

幸福感覚とは不幸感覚からの解放であると言えますが、それでは不幸感覚は幸福感覚の一体何なのでしょうか。
健康とは病気の不在を言うのですが、病気は健康の一体何なのかという疑問と同じことが言えます。
不幸や病気が実在するもので、幸福は不幸の陰の部分、健康は病気の陰の部分と言ってもよいわけです。
ところが、わたしたちは陰である幸福や健康ばかりを追いかけていることに気がついていない。
自分の陰を追いかけているということは、自分自身を追いかけていることに外ならないのです。
幸福を追いかけていることは不幸を追いかけていることに外ならない。
健康を追いかけていることは病気を追いかけていることに外ならない。
つまり、二元論の一方の要因だけを選ぶことはできないから二元論であるのです。
わたしたちが生きている宇宙はニ元論の世界ですから、"いいとこ取り"はできないのです。
一方を取れば片方も取らなければならないのがルールなのです。
しかも、わたしたちが否定的にとっている方が実態のあるもので、肯定的にとっているものが実はその陰に過ぎないのです。
わたしたちの宇宙は運動の光と音(喧騒)の世界であることは何度も申してきました。
火星が5万年ぶりに地球に大接近したのも、わたしたちの宇宙が運動(円運動)しているからです。
火星が赤い色を発しているのは、わたしたちの宇宙が光の世界であるからです。
火星のことを文章を書くことによってほかの人にコミュニケーションをしているのは、わたしたちの宇宙が音の世界であるからです。
普段、何の疑問も感じずに生きているわたしたちですが、運動、光、音がなければ、わたしたち自身も存在し得ない世界であるのです。
この宇宙は、ではどうして誕生したのかといえば、静止の暗闇と沈黙の世界から、ある日(150億年前)に生れ落ちたのです。
従って、すべてが行雲流水のように止まらないのが真理−"祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり"−とわかったような口を叩いているわたしたちですが、宇宙はもっと底が深いのです。
無常といえども、それはもともと静止から生れた概念であり、光や音も、暗闇や沈黙から生れた概念であることを理解しなければなりません。
平たく言えば、わたしたちが生きている世界は、幻想の世界であって実在する世界ではないということです。
寝ても醒めても四六時中、わたしたちは夢という映像の中で生きていると、今まで申してきました最大の根拠が、運動の光と音(喧騒)の世界であるわたしたちの宇宙が、静止の暗闇と沈黙の世界から生れた陰の部分であるという点にあるのです。
冒頭で申しましたように、幸福感は不幸感からの解放であり、健康は病気の不在であって、幸福感や健康といったものが実在するものではないのに、わたしたちは、その陰の部分である方を必死になって追いかけるといった徒労を日々しておるわけです。
静止の暗闇と沈黙の世界が実在する宇宙であって、そこでは三元論がルールであるのです。
幸福と不幸という二元世界。
健康と病気という二元世界。
この二元世界を超えるには、幸福も不幸も無い、健康も病気も無い三元世界を先ず知らなければなりません。
幸福ばかり追いかけて、不幸を避けて生きているわたしたち。
健康ばかり追いかけて、病気を避けて生きているわたしたち。
これは永遠の鼬ゴッコであるということに、いい加減目を醒まさなければいけません。
"これさえあれば、もう心配ない"といつも思って生きて、"これ"を得ると、すぐに次の"これ"が登場してまたまた"これさえあれば、もう心配ない"と空しい鼬ゴッコをしている。
空しさに根本原因があることに気づかなければなりません。