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Chapter 208 気楽な人生 今まで当たり前のことと思ってきたことが、実は当たり前のことではなかった。 半年以上も掛けて、Chapter200以上に亘り書いてきたことは、わたしたちが生きている所謂現実の世界が、実は夜眠っている時に観ている夢の延長であり、わたしたちの一生そのものが夢であると申しあげたかったのであります。 夢にはあまり良い夢がないように、良い人生を送る人が極めて少ないのが、わたしたちの一生のように思えて仕方がない。 自分の意志でこの世に生れ落ちたのであれば、いくら厳しい人生でも諦めもつきますが、どんな親の下で生れるかもわからずに生れ、そして四苦八苦の人生を送らなければならないのであれば、納得はできないでしょう。 宗教が人間社会だけに存在するのは、こんな理不尽な人生に対する慰めのため、神を冒涜する自慰行為を神の名の下で認めてもらう方便であるとしか思えないのです。 万物の霊長である人間が神に近づくための試練を、神から与えられたのだという詭弁も 宗教の方便のひとつに過ぎない。 生きることが楽しいものであれば、宗教など生れる筈がない。 犯罪がなければ犯罪を取り締まる警察など必要ない。 すべての国家の憲法には、軍隊を保有するのは外の国からの侵略に対する防衛のためだけであって、外の国への侵略は一切認めないと明言されている。そうであるなら、外の国からの侵略がなければ軍隊など必要ない。 北欧の国では、老後は国がすべて面倒をみてくれる社会保障制度が確立されているから、誰も貯蓄などしない。だから保険を掛けるという観念がまったく無い。 アメリカのシカゴが保険会社発祥の地であるのは、ミシガン湖からの風でやたら火事が多いこの町で放火という犯罪が生れた。放火をするマフィアと保険会社がグルになって火災保険という新しい商売をつくった。 生活不安を炊きつけて、保険に加入させるのが保険会社のやり口であるように、生きる不安、悩みをつくっておいて、その解消法を商売のネタにしたのが宗教というビジネスであるのです。 生きる不安を捏造して、その解消法を売りつける、人の弱みにつけ込むのが金儲け、即ちビジネスであるのです。 結局の処、わたしたち人間が自ら不安をつくり、その不安の陰に怯えて生きているのが、人生四苦八苦の実体であるのですが、何故自らつくった不安の陰に怯えるのかというと、自他の区別がその原因にあるのです。 不安をつくった者と、不安を持つ者が違う人間だからであります。 生活不安を炊きつけて、保険を売りつける。 癌の不安を炊きつけておいて、癌保険を売りつける。 コンピュータ・ウィルスをつくっておいて、ウィルス駆除ソフトを売りつける。 不安をつくった者は他の者に不安を炊きつけるのが目的でありますが、それが連鎖反応して結局は自分に戻ってくる。 「自分さえ問題なければ、他人のことなどどうでもいい」 この身勝手で愚かな考えが、連鎖反応を生み、人間全体が不安の人生を送る羽目に陥っているのです。 侵略から身を守るためだけに軍隊をつくった筈なのに、第一次、第二次世界大戦を生み、世界の人口の5%がその犠牲になったのです。 また現代社会の犯罪の激増は、突き詰めてみれば人間だけにある理不尽な差別−自然界の差別は弱肉強食の自然淘汰がその発生原因なのですが、その背景には食物連鎖という自然の厳然たる平等の掟がある−がその原因であり、特に人種差別は人間が冒した最大の罪であります。 これら人間だけにある不幸の発生原因は、自他の区別(差別意識)であります。 何故こういうことをしつこく言うのかと思われるでしょうが、実は冒頭で述べました夢と現実の問題に関係するからであります。 わたしたちが生きている、所謂現実と言う世界は、自他の区別によって成立しているのです。 夢の中では、自他の区別がありません。 あるのは自分だけです。 夢を観るのは自分だけであって、他者はすべて−景色も含めて−観られる対象、つまり鑑賞者と鑑賞物の関係であることがはっきりしているのです。 3階、4階、5階にあるのは自分独りだけの一個の座席であり、そこから観るのは、本当の自分である「わたし」という鑑賞者であり、観られるのは背景画面に映っている他者と景色の中に自己を投影した「私」という鑑賞物であるのです。 ところが、目が醒めて所謂現実の世界になりますと、鑑賞者と鑑賞物が渾然一体となっているから、自他の区別意識(差別意識)が生れるのです。 つまり誰が鑑賞者で、誰が鑑賞物であるかがはっきりしないのが−実際には、はっきりしているのですが−所謂現実の世界なのです。 目が醒めている時も夢を観ていることに気がつけば、鑑賞者と鑑賞物がはっきりするのですが、わたしたちは夢だと気づかずに生きている。 しかし、そんな阿呆なわたしたちでも、所謂現実の世界が夢であったことに気づく時が必ずやって来る。 それが死ぬ瞬間(とき)なのです。 眠りから醒めてはじめて夢だったと気づきほっとするように、死ぬことによってはじめて生が夢だったと気づきほっとするのです。 そういう意味では、死は本当の安らぎであると言えるでしょう。 本当の安らぎが必ず来るなら、夢であるこの生を気楽に生きればいいのではないでしょうか。 |